2017年4月25日火曜日

真浄寺

「真浄寺の歴史  親鸞聖人から法名を賜った明慶安坊が建暦2年(1212年)信州赤沼(長野市)に堂宇を建立した。川中島合戦など度々の戦火で各地を転々とし、慶長2年(1597年)新潟に移住、元和元年(1615)当地に移転した。本堂は天明6年(1786年)10月、200両の工費で建立され、西堀寺町での中では最古級に属する。」と山門前の案内板に書いてあります。

慶長2年とありますから慶長の役(挑戦出兵)の始まった年に新潟に移転したのですね。翌3年、豊臣秀吉が死去します。
本堂が建立されたのが天明6年(1786年)と云うと田沼意次が解任された頃です。天明の大飢饉が起こりました。天明3年には浅間山の大噴火がありました。天変地異が続き政治は混迷していました。どうも、今の時代に似ていますね。

http://sekinan.air-nifty.com/blog/2013/04/post-6b83.html

2017年4月12日水曜日

桜沢如一


経歴

和歌山県新宮市(当時の東牟婁郡)の貧しい武士家系に生まれる。流布される京都生まれは間違いである。14歳で祖父三四郎、父孫太郎等一家で京都に転居するも貧窮の中で職を転々とする中で病気に苦しみ、二十歳の頃、食養家・後藤勝次郎を通して[1]石塚左玄の「食養生」に触れ、健康を回復する。その後貿易商として活動する傍らで、石塚の主宰していた大日本食養会に参加。1924年には同会会長となり、石塚の死後伸び悩んでいた同会の復興・指導に専念する。1939年、大日本食養会本部付属・瑞穂病院の閉鎖を機に同会を脱退、翌1940年無双原理講究所滋賀県大津市に開設する。
その傍ら執筆活動を続け、石塚の唱えた「夫婦アルカリ説」「ナトリウムカリウムのバランス論」を易経陰陽に当てはめた無双原理を提唱。1929年に単身シベリア鉄道経由でパリに渡り、ソルボンヌ大学に留学。次いで、同年、フランス語にてパリVrinフランス語: Librairie philosophique J. Vrin)社より『Le Principe Unique de la Philosophie et de la Science d'Extreme-Orient (東洋哲学及び科学の根本無双原理)』を上梓、東洋思想の紹介者としてヨーロッパで知られる様になり、アンドレ・マルローなどと親交。1937年に帰国すると『食物だけで病気の癒る・新食養療法』を実業之日本社から刊行。たちまち300版余を重ねるベストセラーとなる。
戦時中は夫人で食養料理研究家の桜沢里真の実家のある山梨県に疎開。戦後は世界連邦運動に取り組む傍ら、再びインドアフリカ欧米など世界各地を訪ね、マクロビオティックの普及に注力する。1955年には、アフリカ・仏領ガボンにてアルベルト・シュヴァイツァー博士と会見し、西洋医学栄養学の限界とその改善を進言するが受け入れられなかった。
1960年代初頭、原子転換に係る研究者であるルイ・ケルヴランはパリにおいて桜沢の主催する東洋哲学講演会に出席し、強い感銘を受けた。2人の交流は、相互に影響を与えたが、特に、桜沢は、その後の活動の主力を原子転換にシフトすることになる。
1964年6月21日、桜沢は、自ら考案の装置にて、NaKの低温低圧原子核転換の成功を述べている。
後進の育成にも努め、無双原理講究所からは奥山治、その後身である戦後の真生活協会(メゾン・イグノラムス、略称MI。現在の日本CI協会)からは、久司道夫大森英桜岡田周三菊池富美雄ポルトガル語: Tomio Kikuchi)らが育った。桜沢の元で一番長く師弟関係であったのは松岡四郎(前正食協会会長)である。
死因は心筋梗塞

石塚 左玄

石塚 左玄(いしづか さげん、嘉永4年2月4日1851年3月6日) - 明治42年(1909年10月17日)は、明治時代の日本の医師薬剤師[1]、であり陸軍で薬剤監、軍医を勤めた。 玄米・食養の元祖で、食養会をつくり普及活動を行った。
福井藩(現福井県)出身。陸軍で薬剤監となった後、食事の指導によって病気を治した。栄養学がまだ学問として確立されていない時代に食物と心身の関係を理論にし、医食同源としての食養を提唱する。「体育智育才育は即ち食育なり」[2][3]食育を提唱した。「食育食養」を国民に普及することに努めた。
栄養学の創設者である佐伯矩が現・国立健康・栄養研究所をつくるための寄付を募っていたとき、左玄の功績を耳にした明治天皇がそういう研究所があってもいいのではと述べ、その言葉で寄付が集まったという[4]。しかし、研究所は明治天皇が好きではなかった洋食を奨励し食養とも結びつかなかった[4]。天皇家の献立は食養学に基づいている。

2017年4月5日水曜日

龍爪大権現







 龍爪大権現の出現
龍爪山が、修験の山であったことは、山に残された小字にも窺える。平山には、「行人」、長尾には、「山伏沢」があり、諸国回国の修業僧が、龍爪山の山中に入りこんでいた痕跡を伝えている。中世の時代は、多数の勧進聖が行脚して、庶民に仏道を説いた時代である。その代表が高野聖や六十六部聖であった。これらの僧は、地獄、極楽の因果を説き、死者の追善供養のための念仏読経を広めた民間布教者であった。龍爪山が、中世、念仏浄土の山として、こうした人達の拠点になっていたといえる。中世の経塚遺跡の存在は確認されていないが、「龍爪山」の石経の段に発見された経塚跡が、中世の造営場所を引継ぐものではなかろうか。龍爪山の起源に関わる信仰的聖地が、現在の穂積神社のある平らな一帯であったことを示唆するものといえよう。
 このことについては、奥田賢山氏が「龍爪山縁起」の元が、龍爪山経塚にあることを指摘されている(『駿河龍爪山由来』)。この場所は、江戸時代「黒川山龍爪平」と記されていたといい(『龍南の古文書』)、古くから「リュウソウ」と呼ばれていたことがわかる。龍爪山の指す範囲は、山頂部ではなかったということである。ここに、龍爪権現の名称由来が、経塚に関わる聖地
リュウゾウ
の土地の名前からきていることが予察される。また、「龍  蔵」という言葉も、経典を納めた蔵という意味で、音が似通うことから留意してみたい。想像を逞しくすれば、この平らな段が、写経の功徳を実践する、埋経の場所に選ばれ、そこから二峰が浄土と仰がれていたといえよう。経塚造営の土地に、龍爪権現は、土地の名をとって出現してきたのであった。
 龍爪山信仰は、近世になって興ってきた新興宗教であった。龍爪平の聖地を、再利用しての宗教活動と言い換えることができよう。その起源伝承は、樽の権兵衛に始まる。樽の望月家に伝わる由緒書きには、

慶長2年、駿河の国龍爪山へ移住す。織田の所誅急ニして、山住を成し身をかくす。龍爪山神祀を祭る。一説に曰く。武田滅亡に依り一家族を扶養するに困難を生じ、精神に異常を呈し狂乱甚状。其の父神に祈願する。弐度夢に、龍爪山の旧祠を再こん成さば、立所に平癒すべしと有り。父則ち倅に問ふ。曰く、駿河の龍爪山に於いて、3人にて猟せん時、あやしき神を見たり。一人は吉原正治沢の定七殿、一人は伊佐布の兵右衛門なり。石行の段と云う所にて、16頭連れの鹿を猟□じ、其内尤大なる白鹿を射止む。現今本社建設し有る所にして石行の段と称す。其の側に小社を祭りあるは、元駿府城に有りし、旗神八幡社なり。権兵衛の移し祭しとあり。其の古、当山に於て、旅人悪神の為に、迷はされし者多かりしを、社神を祭るに付、其難を免かれ、依て、炭焼区側横4丁、平山側横4丁、峰行8丁を、自由の権利を許されしと有り。
 この由緒書きは、山の権利を正当付けるために記されたことがわかる。この中で、古い祭りの場が何らかの理由で、滅んだ状態になっていた。その古い社には、境を守護し、この山道を通る旅人の安全を守ってくれる神が祭られていたとおもわれる。「古、当山に於いて、旅人、悪神の為に、迷はされし」とあり、道の神が古くから祭られていたといえよう。
 龍爪山の鞍部を抜けて安倍山に通じる山道は、重要な山岳交通のルートであった。武田氏の南進策による駿河進攻にとっても、出入り口として、軍事拠点化されてきたことは、十分、考えられる。中世の念仏浄土の山が、戦国時代の戦いの中で、武田支配の山城になってきたのである。龍爪権現は、この武田支配と深い関係をもつことが、示唆されてくる。その根拠が、龍爪権現の図像の系譜である。樽の望月家に伝わるお札の龍爪権現像は、烏天狗である。この像は、長野県の飯縄権現像とよく似ている。飯縄権現像は、白い狐に乗った形で描かれている。この飯縄権現は、戦国時代、軍神として崇められていた。武田信玄も飯縄権現を厚く信奉した一人であった。永禄12年、信玄は駿河進攻に際し、飯縄大明神を甲斐に勧請することを誓い、軍効の成功を祈っている。元亀元年12月、駿河支配に成功した。穴山信君の本貫地である山梨県身延町下山に、現在、三の宮として飯縄明神社が祭られている。この社が誓いによって勧請されたものと考えられている(長野市立博物館『信濃の山岳信仰』)。
 穴山信君が駿河支配には活躍しており、龍爪山一帯が軍事拠点に利用されてきたことは、軍神としての飯縄権現の伝播を想定してもよいであろう。そこに、飯縄権現を下地として、龍爪権現が作り出されてきた可能性がある。樽の望月家が武田の落人伝説に彩られていることも、そうした、武田の駿河支配という歴史の反映といえよう。
 ここに、龍爪権現の出現が、武田支配の後に興ってきたことが、指摘されよう。そして、その再興した社殿の神霊は、悪神を封じこめる力をもつ神様であった。このことは、逆に、龍爪山の道の神祭りが、古くから行われていたことを示している。龍爪権現の始まりは、山中の悪神除けに功を奏する神様として、信仰を集めていたといえよう。山中のある土地の範囲を支配する神様であった。そうした、山の通行に関わるだけのささやかな社殿として出発したのが、龍爪山に再興された龍爪権現であった。


それが、江戸時代を通じて、人々の暮らしに深く繋がる信仰形態を形成してきた。『駿府風土記』には、「山上権現アリ大社ナリ。火災疱瘡除ノ守出ル。駿城町家板行ノ像ヲ以戸守ニ張ル。(中略)城下ニ諸町人参詣群衆ス。常ニ婦人子供モ山上ス」とあり、町場の暮らしの中にも龍爪権現の信仰が身近に取り入れられていたことを、示している。山上から里へ、龍爪さんが降りてきた時代であった。生活の中で、何か困った人事を越える出来事が生じた時は、龍爪さんに頼ることが行われていた。龍爪さんの山伏の加持祈祷が、信じられていた。
 船越村では、文政8年、うんかが大発生したため、龍爪権現の山伏二人をまねいて護摩を焚き、虫送りをしたが効き目がなかった。そこで、さらに、代参の者二名を龍爪山に使わして、護摩火を貰ってこさせ、虫送りを行っている(『船越村名主日記』)。龍爪山の護摩火が、普通の火と違うご利益があると信じられていたのである。また、疱瘡の時は、山伏を頼んで疱瘡神を祭っていた。このように、龍爪山の山伏が、たえず、山と里を行き来して、困りごとに対処していたのである。江戸時代の龍爪山信仰は、山伏の護摩を焚いての加持祈祷によって、庶民の困りごとや願い事に対処して、信仰圏を拡大してきたのであった。
 「龍爪山縁起」の中に「狂気者は祈祷をこひて、灼然き霊験を蒙ることおほかり」とあるように、山上が、一種の治療院的役割を果たしてきた伝統があった。杉の巨木の林立する龍爪平は、人工的に造成されてきた隔離空間といえよう。疱瘡や気の病など、「諸の疾病を癒させ給はらむ事を祈祷申す」と、龍爪権現が、民間医療を担うかたちになっていたのである。

こえはつ
その反面、「龍爪山由来の事」には、肥 発という恐ろしい病のことが、記されている。「この山の四方一、二里が程にあり。いずれも身終ふるまで癒えず。その上療治の及ぶことなし。誠に余国に稀なる奇病なり」とある。さらに、「また一説には、龍爪山守護神の内に、おりおり毒蛇あって、その毒気に当りたる者、この患ひを受くるとも申すをり」とある。龍爪山への接近、わけても、宿業の深い人が龍爪山から流れ出る水をかけられると、その水が毒となって肥発に罹るという因縁話になっている。
意外のことだが、この肥発という風土病の恐ろしさが強調されて、なぜ、縁起に取り入れられているのだろうか。江戸時代、この風土病があって、それを、仏教の因縁話に仕立ててきたのだろうか。すなわち、善人は龍爪山に登れるが、罪人は肥発に罹って登れないということである。龍爪山が、魔所としての恐ろしさを持っている伝統を、示すものといえよう。悪神、毒蛇、それに、天狗、山童など異界のものがすむ恐ろしい山と考えられていた。肥発は、この世と異界をわける境に語られてきた話といえよう。龍爪山は、罪を滅ぼしてからでないと、登れない山であった。それが、江戸時代には、女、子供まで気楽に登れる山になってきたのである。
 羽黒修験の祭りには、「つつが虫」が焼かれるという、風土病を滅ぼす呪術が、象徴的に行われている場面がある。肥発が、日本住血吸虫の症状と似ることが指摘されるが、ここでは、風土病と龍爪修験との関わりが、留意されよう。風土病に対処してきた呪術が、龍爪権現を医療の加持祈祷に長けた神として、信仰を集めるようになってきたのではないだろうか。
 龍爪権現は、魔をはらい、悪神を近付けないものとして、再興されてきた神様であった。龍爪平を通行する旅人を守護してくれる神様として信仰を得てきた。それが、医療に効果のある神様になって、山上から里まで、出前の護摩焚きや祈祷のために、降りて来るようになったのである。山上の修験から、山麓の修験への転換期であった。信仰圏の拡大に、重い病に対する受け入れという、医療呪術を龍爪山信仰の前面に押し出してきたことがあげられよう。
 龍爪山の山中に刻まれた小字地名に、「龍爪山」と「大嶽」がある。「龍爪山」は、穂積神社のある平坦部あたりをさしてい
タケ
る。「大嶽」は、薬師岳の頂上から直下の東側斜面一帯をさしている。一般に、岳とつく言い方は、高い山で人が勝手に侵入してはいけない領域としての歴史をひっぱってきている。その意味で、「大嶽」は、大きな岳という、古風な山の呼び方を示しているといえる。龍爪山の東側にある「高山」も「短山」(ヒキヤマといい、麓の低い山のことをさす。)と対になる言葉である。龍爪山の上り口にある平山も、「短山」につながることが考えられる。
 このように、古い時代には、岳、峯、高山などで山の高みを指し、麓山、短山で山麓線の低い山を指してきたという対表現が
セドヤマ
セミチ
行われていたものとおもわれる。静岡あたりでは、集落背後の山を背戸山といい、その尾根筋の道を背道といっている。清水市大内にある霊山寺も、背後の山が信仰的意味を持っていた「霊山」(死んだ人の霊が登る山)に由来することが考えられる。また、龍爪山の東南に位置する「若山」という呼び方も、信仰的意味を伝える山名であることがわかる。静岡あたりでは、正月4日、初山といって山から木を切ってくる行事が行われているが、若山にもそうした行事をさす言葉で使われる伝統がある。山からの神を迎える山、または、その途中の御旅所となるところという意味合いが類推されてくる。固有名詞を山名とする以前は、こうした呼び方で、山の認識が間に合っていたといえよう。
 
今ひとつ、龍爪山の北側、清水市側の地名に黒川がある。その上流部の山地が、黒川山と呼ばれていた。現在の穂積神社あたりを、江戸時代の中頃には「黒川山龍爪平」と呼ばれていたという(『龍南の古文書』)。中世の時代、「黒山」は未開発地の手をつけてはいけない聖域と考えられていた。黒川山もその系譜を引き継ぐことが考えられ、静岡市門屋の奥の山にも黒岩という山名がある。かつて、龍爪山一帯の山塊が、未開発地の聖域であったことを示すものといえよう。
 龍爪山の地形は、岳、峯、段、平などの言葉で認識されて、それが小字に留められてきたのである。龍が爪を落とした所が「二股の段」、奥の院のところが「亀石の段」等、段と呼ばれる平坦部が、階段状に形成されて、龍爪山の宗教空間が意図的に作られてきたこと示すものである。そうした段のある場所の聖地化に、いろいろな伝説が付与されてきたものと思われる。黒川山の開発の進展にあわせ、山々の所々にあった神々を、龍爪平に取りまとめてきた変遷が、考えらえる。
 
http://www.diycc.info/taki/t/t024_027.htm
 
 
 

大神一族



緒方氏の祖先は,豊後武士団の頭領であった惟栄だが,その5代前の先祖は豊後大神の祖,大神惟基である。この惟基(これもと)が平家物語に出てくる「嫗嶽伝説」の神孫で,惟基の祖父は都から派遣された豊後の介大神朝臣良臣(おおみわあそみよしおみ)である。
そして,その祖先は大和の大神(三輪)氏である。大和三輪山の神孫だという大和大神氏を土台として,その大神諸族は豊後大神氏,宇佐大神氏を形成している。

速見大神氏と宇佐大神氏
欽名天皇29年(568),蘇我馬子は仏教と融合した原始八幡と帰化人勢力を利用するために,大神比義を宇佐に下す。比義は菱形山に八幡大神を祀り,地場の神官宇佐氏と争って勝ち,宇佐八幡の祀官の祖となる。
この比義の系統で速見の大神郷に住みついた一族が豊後速見の大神氏であり,豊前宇佐郷に留まったのが宇佐大神氏である。

豊後(大野)大神氏
大野郡は,三重郷,緒方郷,宇目郷,井田郷の4郷から成り立っている。豊後国の南西部に位置する。西の阿蘇山と東の国府である古国府(ふるごう)の中間に位置し,中央を大野川が流れる。
大野の大神氏は『豊後の大神氏』と呼ばれ,この一族こそが,緒方一族37家の先祖である。

仁和(にんな)2年(886)2月,大神朝臣良臣(おおみわあそみよしおみ)が豊後の介となって豊後国に赴任した。寛平4年(892)3月,良臣の任期が終わるとき,良臣の徳政によって百姓が良臣を慕い,せめて子息を留めてほしいと国府に願い出た。大宰府はこれを許し,庶幾(これちか)を大野郡領に任命し外従六位下を授けた。

大野郡領になった庶幾は三重郷に入って豊後大神氏の祖となるが,一般的には庶幾の嫡男である大神惟基(これもと)が豊後大神一族の始祖とされている。この惟基こそが『嫗嶽伝説』の花御本と大蛇の子あかがり大太のことである。惟栄は惟基の5代の孫にあたる。

惟基は5人の子息を豊後国の要所に扶植し,豊後南部の大半を勢力圏内に収める。その子孫は,豊かな土地や山林の他,恵まれた良港による海運業,阿蘇・大野の高原に騎馬を養い,平安末期になると,九州でも最も大きな武士団を形成し,源平合戦ではその名を轟かせた。その中心人物が緒方三郎惟栄である。

その後,惟栄は源頼朝と不仲になった義経を助け,そのために捕らえられて,上州(群馬県)沼田に流される。建久元年(1190)10月,上洛した頼朝によって惟栄の赦免が願いだされ,赦されて佐伯に還る。その子孫は佐伯姓となって後世に続いてゆく。そして大友氏の入国以来大友宗麟の時代まで最も忠実な家臣となるのである。


大神氏のその後
文治元年,義経の叛に従った惟栄はついに失脚し,流罪となった。ところがこのとき惟栄と運命を共にしたのは,直接の親子兄弟だけであって,三田井(日向臼杵郡)・阿南・稙田・直入・戸次・(豊後大分郡)などの大神系や,大野郡に蟠踞した大野・緒方一族は,緒方三郎と行を共にせず,その一族はあとまで残って,九州各地に尾形・緒形・小方・尾方等の名字をもってひろがった。
豊前中津に移った大神の一族からは,対明貿易に従事して巨利を博した甚四郎が出た。甚四郎は博多に移り住み,明人の言により大賀と改めた。その三人の子のうち,九郎左衡門信房は,父の志をついで貿易に従事し,長崎五島にも屋敷をもった。福岡県にはいまも大賀姓が多い。

終わりに緒方氏から分れたという苗字を次に掲げておく(上掲分を除く)。佐賀・賀来・佐伯・野尻・小原・大津留(おおつる)・武宮・橋爪・松尾・城原・朽網・秋岡・由布・霊田(たまだ)・入倉・十時(ととき)・児島など。


http://www.coara.or.jp/~shuya/saburou/kenkyushitu/saburoken3.htm

2016年11月16日水曜日



甲斐・越後VS信濃と長沼城 

  江戸時代以前、わが信州・信濃の国は大きな”国”であるのにかかわらず、戦国
大名の雄を輩出するとがかなわなかった。山を隔てて盆地が分散するという地形的
な要素もあるが、小笠原にしても村上にしても、群雄割拠して、一族間の争いなど
に明け暮れたりしていて、国を統一する技量の将が出てこなかった。そのため草刈
り場のごとく、甲斐の武田、越後の上杉などに名を成さしめただけというのはくや
しい感じもする。

 もっとも村上義清は、小笠原長時などよりははるかに大物で、二度までも武田軍
を打ち破り、信玄自身にも大傷を負わせ、相手の武田軍にもかなりのショックを与
えた...。そして村上軍の勝利は、信濃の各領主たちを奮い立たせたといわれる。
しかし謀略・調略を含めた総合力では、とうてい信玄の敵ではなく、ジワジワと真
綿で首をしめられるようにやられていったようだ。そしてついには、上杉をたよっ
て越後に亡命してしまう。

 もう少し村上義清がリーダシップを発揮し、信濃の諸将をがっちりかためてから信
玄に敵対し、もうひとあわもふたあわも食わせていたら...。川中島合戦では、武
田と上杉は一応引き分けたということになっているが、その前も後も信濃の状況は、
もう事実上武田の支配下になってしまっていたことのようである。

 ところで、カルチャーセンターの歴史講座などを聴いたが、講師の先生の話しで
は、教科書などには書いてないが、戦国時代の戦さは、すざまじかったようである。
略奪暴行・放火、女子供などごっそり連れていかれて売られたりもしたようだ。最近
の研究では、どうも農民達が逃げ込む城というのもあったらしいことがわかってきた
という。戦さは武士同士のものなどとかまえていられない。身をどっかへ隠さなけれ
ばなにをされるかわからない。
 
 さて本題の長沼城だが、長野市、私の実家のある隣の集落に千曲川に沿って長沼と
いう地積がある。近くに赤沼という集落もあり、文字どおり昔から湿地帯だったのだ
ろう。ここに、今のことばでいえばリストラされた西暦1700年近くまで長沼城と、
小さいながらその城下町があった。地名や突き当たりの多い道路になごり を残こして
いるが、今は一面のりんご畑とその間に散在する農家のみで、城郭の跡らしきものは
なにも残っていない。ただ、地元に当時からあるという妙笑寺に大手門の開き戸が残
されている。

 この長沼城を最初作ったのは島津氏の一族で、もちろん最初は、土累をめぐらした
程度のものだったろう。島津氏は、長沼を含む太田の庄(荘園)の地頭職として南北
朝期土着したらしい。

 この城に堀をめぐらし北信濃攻略の要害としたのは武田氏で、伝来の島津氏は武田
支配の間は他へ追われ、上杉支配になってまた立ち戻ったりしたが、この島津氏も結
局のところ秀吉の移封命令により、上杉氏に従い会津に行くはめになった。

 残された昔の絵図面をもとに、こうだっただろうと描かれた城の図を見たことがあ
るが、栗田城なんかよりはずっと大きく立派な城。でも今は城があったとされる場所
は千曲川の堤防沿い、やや円墓状に土が盛り上がり、ブナかなにかの落葉樹の大木が
3,4本立っている下に、五輪の塔と庚申塔が一つづつたっているだけである。
                     UNCLE TELL

島津農場



文中注~富良野村設置(明治三十年)ののち、下富良野分村(明治三十六年)で上富良野村となっているが、文中は上富良野村で統一した。(本文敬称略)
信哉、屯田兵として野幌屯田に入植
島津農場の開拓に大きな影響を与えた海江田信哉は、慶應元年十月二十八日、父正蔵母トリの長男として鹿児島県鹿児島郡下伊敷村字下伊敷に生を受けた。
明治維新後の日本は、ロシアに対する国防問題から北海道の治安維持対策に迫られ、明治七年(一八七四年)十月に屯田兵例則が定められ屯田兵の募集を始めた。屯田兵は、北海道に配備された農業兼務の軍隊制度で、最初は士族を資格とし、農業開拓を進めるために家族を伴ない、戸主は軍事訓練を受けて非常の変に備えていた。
新たな屯田兵条例が制定となった明治十八年(一八八五年)七月、野幌兵村に屯田兵百三十八戸が入植した。
翌年には八十七戸が移住し、計二百二十五戸の兵村として発展する。
この時屯田歩兵第二大隊第二中隊の一員として加わった信哉は、前年の明治十七年に渋谷喜八郎の次女ミネと結婚し、家族五名を連れ野幌に入植する。二十一才の入地であった。
屯田兵の移住に際しては、支度料・旅費等が支給され、到着後は家屋・土地の他に家具などの生活用具、農具、種子などが現物支給され更に、移住後三年間は、扶助米と塩菜料が給与され、手厚い官費による保護下にあった。
野幌兵村に入植した信哉はこの時、給与地として宅地百五十坪、樹林地名目の土地を三千八百五十坪の合計四千坪が給与された。居住地戸番号は札幌郡江別町大字江別町三百六番地へ入植した。
信哉をはじめ野幌屯田の人々は、九州・中国地方出身者の士族がほとんどで、入地当時は北国の冬の寒さや雪の中での生活が厳しいものであったと想像される。
屯田兵の一日は、起床から点検・就業・昼食・終業まですべてラッパの合図で営まれ、毎週土曜日には家族全員が家の前に並んで武器や農具などの検閲が義務づけられていた。
兵員である戸主の信哉は、移住後半年間近く毎日訓練を受け、その後も月三回の訓練や他兵村との集合演習などが軍務で、一方の農務は、農業に不馴れな士族が多い上に、開墾は主として家族に負わされていたので容易に進まない状況にあった。
信哉は三年現役、四年の予備役、その後は後備役につき、明治二十四年に曹長となっている。選ばれて札幌農学校(現在の北大)に兵事科別科生として入学を命ぜられ、農学の大意を勉強し、翌二十五年三月は少尉に任官している。
兵村で習得した技術を生かし、明治二十七年に軽川(現在の札幌市手稲区)の前田農場の支配人となり開拓に従事する。信哉の次男である武信(後に上富良野二代目町長)は明治三十年六月にこの前田農場で生まれている。
信哉の農耕地原野調査
島津農場は旧薩摩藩主公爵島津忠重の経営する農場である。
信哉が記した島津農場の沿革を基に、上富良野町史、上富良野町百年史や、息子の武信が記した文献等には概略説明的な物が多数ある。
ここでもその域を超える事は出来ないが、私の住む島津地域の農場の成り立ちの詳細記述は紹介される事なく埋もれたままになっている。この件はそれらの文献との重複をなるべくさけ、後述の信哉が記した上富良野村富良野原野調査報告で別項を設けて紹介したい。

島津家の土地購入交渉嘱託員の園田實徳より北海道へ農場進出の計画があったのは明治三十一年五月二十七日の事である。
吉田清憲は其の計画の一切を監督として嘱託され、海江田信哉へ二十九日農場管理を嘱託させる事にした。同日札幌滞在中の園田實徳の元にこの両名が札幌豊平館にて面談し、計画の概要説明を受け、今後の手順を相談している。
計画の土地は栃木県の矢板武、鈴木要三他二名の組合にて土地の貸し下げを受け北晃社と称し経営準備中の四箇所の土地を農耕地として適切であるか実施調査を嘱託した。
調査は次の四ヵ所二千町歩である。

    ・石狩国夕張郡長沼村馬追原野 五百町歩
    ・石狩国空知郡富良野原野 五百町歩
    ・十勝国浦幌原野 五百町歩
    ・十勝国ノヤウシ原野 五百町歩

明治三十一年六月三日より吉田清憲、海江田信哉の両名は馬追原野の調査に着手。
六月九日より浦幌原野、ノヤウシ原野を調査。
六月二十七日富良野原野の調査を終了させた。

   掲載省略 図面 兵農の平面図
   掲載省略 写真 公爵島津忠重
   掲載省略 写真 海江田信哉氏
富良野原野の調査報告
平成十二年二月、島津住民会は地域が開拓百年を迎え、記念誌「島津百年の歩み」を発行している。
この時、創設時における島津農場の調査内容は資料不足の為詳細は記していない。
信哉が明治三十一年に残した島津農場沿革の記述は、当時の世相や地域の様相を伺い知る上での資料価値として貴重なものである。
明治三十一年七月二日に上富良野村富良野原野(以下島津農場)を含む四ヵ所の調査報告書と意見書を園田實徳へ提出している。
調査は各地域とも二十三の項目からなっている。
ここでは島津農場に関する主なものを要約して纏め、項目毎に紹介すると次の通りである。
  (一) 上富良野村迄の交通の便
札幌より旭川迄、汽車里にして八十八里強(三五二㎞)の所は、汽車の便がある。
旭川市街より上富良野迄は陸路十里(四十㎞)で富良野原野となり、この陸路は上川御料地内三里(十二㎞)余りの処までは馬車の通行が出来る。これより先は駄馬でなければ困難である。然れども当時官にて道路を開削中であり、本年八~九月に至れば馬車の交通も便利となる。
官設鉄道は上富良野近傍二里位(八㎞)の処迄工事が着手されており、来春に至れば、現地まで全通する予定。
すでに現地より三里半(一四㎞)位の処の美瑛停車場迄は工事も各相済み居る由にて本年八~九月頃には開業の予定。
又、来春は現地へ接続の市街予定地に上富良野停車場を設置する事になり、そうすると交通は非常に便利になり前途有望の土地となる。
日用物品の売買は当時旭川市街に出て用事を足す。運賃は旭川より二円を要し従って物価は高い。
汽車が来春に現地まで通ずると、日用物品は来春よりは現地にて調達する事が出来る様になる。物価は目下の処札幌に比べ四割以上高い。
空知太(滝川)迄汽車の便があり、之より二十四~五里間は物品は総て駄馬にて行っている。(赤平方面をさす)
  (二) 島津農場事務所の設置と地質等
事務所は仮事務所のある西一線北二十五号百四十九番地(現在の海江田博信氏宅)の小屋を改築して設置する。
土質は概ね良好であり、耕地に適当である。五十六万坪は湿地ではあるけれど排水溝を堀削する事によって耕地に適する。鉄道も現地内を通り、排水上には便利を得ると思われる。
湿地の部分には一戸分一万五千坪(五㌶)に対し、おのおのが五百間位の排水溝を堀削すれば完全な耕地になる。
道路は官の設定道路を開削する事によって通行は可能であり、小作の希望者を他県下より募集して小作地を貸与する。
  (三) 環境
樹林や笹が生えている土地はおよそ四十万坪は開墾が非常に困難であろう。樹木の種類はハンノキ、ヤチダモ、アカダモ等の雑樹が主なもので河岸の如きは大樹が密生しており木材の販路は現時点で見込みは無いと記されており、富良野川(原文はフラヌ川等の表記)とヌッカクシ富良野川は相当樹木が生えていた事が伺われる。
気候は旭川付近に比べ、大きな差はなく、降霜は少々早い。風は所々に山があるので時折強い風も吹く。
積雪は平均で三~四尺になる。春、富良野川の雪解け水は湿地の部分にあふれる程になる。
飲料水は河川、或いは井戸でも良水を得る事が可能である。
  (四) 労働賃金
小作小屋に用いる葦草は現地に十分野草が生えており、小作小屋等を作るには付近にて人夫を雇う事も可能であると記され、労働賃金は大工木挽きは八十銭から一円。日雇い六十銭から七十五銭であり、付近に鉄道工事の仕事があって割高となっている。
  (五) 付近作物の景況及び主要作物
付近住民の出身地は三重県や石川県及び四国の者が多い。付近の農民は主に一昨年単独移住及び団体住民で有り、相当の資産を有する者が独立して生計を立てている。
付近には僅かな小作人しか居らず、いずれも地主より食糧を貸与されるか、全員が初年貸与し開墾料より返納する仕組みにて管理方は一定しておらず、開墾料も一反歩に付き二円より四円程である。
小作料の徴収は二~三年目より一反歩に付き五十銭乃至一円位。付近にては未だ創業日浅きを以て土地の売買がなく地価は不明である。
作物は発芽したばかりであり、十分な視察はしてはいないが、麦黍小豆の如きは発芽生育は頗る良好である。付近の三重団体の農夫等に聞く所によると「移住したばかりで、十分な経験はないが諸作物何れも適当であり、特に小豆は良好である」との事。
  (六) 意見書
信哉の調査した四ヵ所の意見書は島津農場の開設に大きな影響を与えた事になる。意見書の内容を要約すると次の通りである。
空知郡富良野原野の土地は良好で、交通も便利で利益も数年で得られる見込みである。現地と隣接する市街地予定地は前途有望の所で現地の一部分或いは将来宅地として有望である。
馬追原野およそ五十万坪は耕地には十分とは認め難いが、将来火山灰と下層粘土と混合すると良土に変わると思われる。今の処火山灰が多く旱天の際は作物の成育に非常に影響が出ると思われる。気候その他は好天に恵まれる土地柄である。
十勝国浦幌原野及びノヤウシの両原野は濃霧発生し気候不順にして農耕地に適しない。交通も不便にて多額の費用を要する。将来的に好結果を得る事は難しい状況にある。この原野に多額の費用を投資するのであれば富良野原野及び馬追原野付近に更に土地を求めた方が得策で、十勝国の両原野は取り止めた方が良いと報告している。
   ◇   ◇

この意見書によって八月二十五日、富良野原野と夕張郡長沼村馬追原野の二カ所に開業の沙汰が園田實徳より信哉へ下される。島津農場は十月十日に来春の準備の為二名が派遣され、小作小屋草刈りに着手する事業始めになる。

翌三十三年には小作人の杉尾直熊に事務所用地の開墾料と事務所一棟建築費が支払われた。
この後の記述は「上富良野百年史」「島津百年の歩み」に詳しい。

  掲載省略 写真 島津農場事務所門柱(海江田博信氏宅にいまなお建っている)
小作人の農場開墾
島津農場へ入地した小作人には、旅費、食料等が与えられた。
小作人の多くは、入地した所の開墾に着手し、程度により十㌃(反)当たり一円から四円の開墾料を農場が給与し、小作人の生活費に充当させている。
島津農場金銭出納帳からは、明治三十三年から明治三十七年の間開墾料が支払われ、明治三十八年以後開墾料がほとんど支出されていない事から島津農場の開墾はこの時期に集中して行われた。
開場間もなくの明治三十二年、三十三年は天候不順による農作物の収量が見込めない不安にかられ、多くの小作人に退場者が出る。
明治三十五年には、三枝甚作(現在光町三枝幸三氏の祖父)が草地百町歩の再墾を担っている。
小作人の中で特別な技術を持つ者は選ばれて、島津農場事務所の大工作業を始め、木橋の建設、排水溝や道路の造成に力量を発揮し、現在の島津地域の基盤が作られた。
共同肥料購入組合
大正四年、小作人共同肥料購入組合を組織し、島津農場小作人に対して毎年肥料資金を十月末迄貸与し、商人支払い期日の五月一日まで日歩利で百円につき二銭の割合で貸し与えている。
過燐酸は八年度決算では十貫目入り叺[かます]の価格は二円五十銭。
大正九年は物価の高騰に伴い殆ど倍価にて函館工場渡しが四円九十銭。当地まで着すれば五円余りに相当し農家は過燐酸の使用を躊踏しているとある。
地力の保持の為に農場では鰊〆粕の購入を奨励している。
大正七年度の小作人肥料需用高及び価格は次の通り。(端数切り捨て)
   品目          数量     価格 
  過燐酸(十貫目入り)  一四二五叺  三四五六円 
  鰊〆粕        一二七五貫   八八四円 
  大豆粕          二十貫     八円 
明渠排水溝の掘削
海江田信哉が上富良野村富良野原野の調査報告では、各々が五百間位の排水溝を堀削する事によって耕地に適するとある。
実情は耕作不適地の掘削は小作人等を中心とした請負に任せている。
島津農場金銭出納帳には、明治四十四年から大正四年にかけ、加藤勝三郎、出口栄太郎、河野浩太郎の請負で開削された記録の詳細が記されている。
島津農場の稲作と土功組合の設立
明治三十一年の富良野原野の調査報告にはこの時すでに富良野川より用水を引用すれば水田耕作は十分見込みが有り。何れも未だ付近にて試作した者がなく結果は不明と報告されており、水田耕作の思考はこの時点ですでに有望視されている。
島津農場の稲作の始まりは、明治三十五年に東一線北二十号の北伊三郎(現在古小高勝付近)。明治三十九年にはその向かいの塚本弥作(現在向山浩寿宅付近)。明治四十年に基線北二十号の浅田善次郎(現在浅田喜一付近)、の各氏が始めたと伝えられている。
大正六年四月中富良野を分村した当時、行政執行機関として部長制が採用され、島津は第八部に編入される。信哉の調査によると、大正七年七月現在農場の小作戸数は七十六戸(図一 掲載省略)。畑二百三十三町歩(㌶)。荒蕪地一一〇町歩(㌶)が主なもので、水田面積は百三十八町歩(㌶)であったものが、大正十五年には三百十六町歩(㌶)にまで大きく進捗した。
ここで特に興味深い事は、草分土功組合の設立に関する記述で、高まる水田面積の造田意欲と水利権の確保に島津農場がどの様に対応したか、信哉の書き残した文書を引用すると次の様である。
   (一) 草分土功組合の出願
大正八年六月十三日付けの島津農場上申書類から伺える事は、上富良野村には水利権者連合組合(富良野田用水組合会)の組織があり、組合数二十一組、人員は島津家を除き二百七十七名、水田は千五百町歩余りとなっていた。島津農場はこの組織に大正六年に加入した。
上富良野村の水田所有者は未だ法人組織の土功組合が無く水利権の統一と水の確保に苦慮していた。
農場としてはこの法人組織に賛意の決定を下し、併せて水田用水溝開削に力点を置き、中山由造、山田松蔵、菊地甚助、北村吉間、山本伊助等によって用水溝が掘削された。
農場は土功組合設置前に用水溝を完備し、水利権の確保に備える考えでいた事が伺い知れる。
大正十二年二月十九日時点での内訳は、ヌッカクシ富良野川左岸東二線方東中土功組合(既許可)に二十二町歩。富良野土功組合(富良野土功組合は大正十年既許可)富良野川右岸西一線二十一号方に七町歩が認可されており、新たに水利権を必要とするのは三百七十二町二反歩。合計面積で四百一町二反歩の水利権を保有する事になった。
法人組織の名称も草分土功組合と決まり、設立第一回概算金は一反歩に付き十八銭、農場の負担額は金六百六十九円九十六銭になる。
しかしなかなか出願許可は下りない。
   (二) 水田水の取り入れ国防
農場に直接関係ある富良野川及びヌッカクシ富良野川の水量は水田の水が必要とする時期に乾天が十日間も続けば減水して下流より水の配分請求があり交代で灌漑している状況にあった。
水門水路検査に際し直接農場に関係のある水の取り入れ口は、西一線北二十四号より引水の水門(現在の島津公園内)。東二線北二十四号方より引水の水門。及び東二線北二十五号と二十六号中間より引水している。どの場所も往時を偲ぶ物は何一つ残っていない。
又、農場は鉄道より東方北二十号方より二十三号方面は石川団体と最初から協同で水利権を得ている。
絶対水量の不足を補うには、東中土功組合の下流東二線と東三線との農場境界線を二十三号より二十一号に至る水量を石川団体方に水路は東一線と東二線との中間二十一号側を三百間開発、補給水する事により農場は将来心配なく水が使用出来るとしていた。
   (三) 深刻な水不足
大正十二年は雨量が特に少ない為に富良野川、ヌッカクシ富良野川が減水。水田用水に水不足の場所が出て来た。
農場では大正二年より水路委員は水門一ヵ所に委員一名、評議員三名を互選し、用水の分配業は委員に任せた。委員等にて決定する事が困難な場合には支配人の信哉が決裁する事に取り決めし、他も水路委員はそれぞれの用水毎に二~三名宛設けていた。
七月初旬、実施立会協定があるにも関わらず、下富良野土功組合は無法に石川団体農場及び三重団体北三十一号の富良野川水門水門口を夜中に破壊した。修繕堰き止めすれば又取り除く有様となり、水門番を置く事となった。
七月五、六日には百人余も国鉄で富良野より上富良野市街に宿泊し、不穏な様相を呈してきた。
七月十二日に上富良野村役場に主なる地主及び委員十名会合。自衛策を講じ向こうより百人来たれば当方は百五十人集合し警察巡査が立会い、自衛する方針が聞こえて来た。
農場としては初めよりこの件に関わらぬ方針を取った。その訳は農場は全部小作人であり他県の者が集合しており、地主と異なり愛土心もやや乏しく将来の事を思慮する者も少ない。水門番を多数にすれば喧嘩になる事は間違いなく、暴行をおこす危険も有る。さりとて自衛策を講じない訳にもいかず思慮分別のわきまえている老人を水門番に二~三名配置した。
七月二十四日には下富良野より二百五十人余りが来て、水門の堰き止めを取り除き水門口には多数の人夫を配置し分水をするも、当村委員等と巡査が立会い種々交渉するが解決の糸口も見えない状況である。
二十五日午後九時より双方水路委員協定には応ずる様子もない。
二十六日午前一時に三重団体方にてはすでに衝突し負傷者も四~五名出た。ますます不穏の様子となり双方の人員は増加するばかりであった。
解決も難しく面倒になる中、下富良野警察署長及び組合長なる支庁長も二十六日臨席し、水の分配は時間交代に協定した。
農場としては直接参加はしなかったけれど小作人の有坂佐太郎は、三重団体の状況視察に行き巻き添えに会い投石によって足を負傷したとある。
「富良野地区土地改良史」には富良野川上流と下流部の激突として詳細を記しているが、この事件の日時は不明とある。だが海江田信哉の島津農場上申書類にはこの事件の日時と様子が克明に記されている。

  掲載省略 写真 フラノ川と31号水門
   (四) 草分土功組合の設置に前進
前述の如く水量不足は深刻で、下流域の中下富良野両水田も水量不足は三百町歩にも及ぶ。
下富良野土功組合は下流域で水利権を持ち、上流の水利権を持たない石川団体農場や三重団体に対して水利権の統一を計る当然の権利を主張するが、地の利には勝てず、前述の事件を契機に双方の感情も硬化して行った。
島津農場の組合に加入する事を希望する下富良野土功組合は百二十万円余の負債を負っており、島津農場が加入するとなればその責任をも受け入れる事になる。
農場としては、富良野川及びヌッカクシ富良野川の水を使用出来、下富良野土功組合の空知川よりの引水もあるが、更なる溝路の延長と開発が必要となり開削工事費も負担が増える。
この事から島津農場の草分土功組合の加入には下富良野土功組合の妨害や反対もあったが、草分土功組合の設置に向かって大きく進む事になり、大正十四年四月二十四日、草分土功組合設立の認可がおりた。
十勝岳の爆発
風光明媚と威容を誇る十勝岳も突然自然の猛威をふるう。大正十五年五月二十四日十勝岳が爆発した。
上富良野村での死者行方不明者は百三十七名に達し、罹災地の水田は三重県人等の手によって三十有余年かかって開拓した良田は一瞬の内に泥土と化し、厚さ平均二尺(六十cm)内外の土質は硫黄並に硫酸等多量の礦毒を含有する土地となった。
泥流の為に流出した木材は、泥流と共に下流原野に殺倒して耕地には一面の流木が堆積して莫大な損害となった。
島津農場での十勝岳爆発に遭遇した小作人の多くは、島津農場内の小作人より相互扶助の原則に従い農地が貸与された。この時農地を提供した小作人と被害にあった小作人の関係は記録分では次の通りである。
貸し出し人面積借り受け人
上村孫三郎四反久保宝石
武内新吉二反五畝久保宝石
向山安松二反五畝久保宝石
北川石松四反中田惣助
及川重次郎四反中田惣助
西村勝三郎四反中田惣助
牧野官二二反五畝三枝甚作
野原助七二反五畝赤沼吉之助
橋場次太郎四反赤沼吉之助
高橋蔵治四反赤沼吉之助
高橋為蔵四反赤沼
野原甚之助四反赤沼
石川勘十郎四反水谷甚五郎
北村仙太郎四反水谷甚五郎
細川覚蔵四反水谷甚五郎
片岡幸太郎三反水谷甚五郎
小山三右ヱ門三反金山文次郎
塚本弥作四反金山文次郎
川原久三一反金山文次郎
武田松五郎四反金山文次郎
浅田慶一郎一反金山
山中勇吉五反金山
沢田栄松一反金山
小野梅吉四反高田正一
竹下善九郎四反高田正一
北向有蔵四反田中清吉
中田常蔵四反田中清吉
大石源次郎三反田中清吉
武内亮吉四反田中庄蔵
藤沢兵蔵四反田中庄蔵
木澤要蔵二反五畝山本仁三郎
久保茂作四反山本仁三郎
尚農場では、自ら災害者となりながらも耕地を提供された方もいた。
大正十五年は大冷害にも見舞われ、農場での作柄は五分作を上回る者は三名しか居らず、二分作以下の十数名は田地の小作料の徴収は免除された。
耕地整理組合
爆発によって泥土と化した耕地は、三十年前に渡道移住して開拓した三重団体(草分)の大部分が含まれている。
この爆発による耕地復旧に先立って監督官庁は個人事業に対する補助は不適当なので、耕地整理組合を設立するよう村に命令した。
復興を決意した吉田貞次郎村長の主導のもと、関係者一同が協議の結果、昭和二年三月三十一日に上富良野村耕地整理組合が設立認可された。
こうして荒廃した水田二百九十九町八反五畝歩の耕地に対し、運搬客土・泥土除去・流木除去・造田等の復旧工事が行なわれた。この他、河川・灌漑溝等の復旧には多額の国庫補助金が投入された。
先に記した草分土功組合は設立一年で災害に遭遇。耕地整理組合の設立と相まって復興に果たした役割は計り知れない。

「海江田翁の碑」の建立と移設

   (一) 「海江田翁の碑」の建立
海江田翁の業績を称える碑は、北二十二号道路沿いに基線道路と東一線(国道二三七号線)の丁度中間に位置する水松や赤松の古木が生い茂る中に建立された。
昭和二年の冬から、小作人の労力奉仕で基礎が作られ、四月十七日に荘厳な除幕式が行われた。
それ以来、春祭りはこの石碑の前で海江田氏を始め多数の関係者を招き、現在は住民会が主催となり毎年欠かさず催されるようになった。様々な事情から祭りの開催日はその都度定めて実施されている。
海江田信哉翁は、鹿児島から北海道に移住し、明治三十四年から島津農場の管理にあたり、百余名の小作人と共に五百町歩の大農場を造成した。この間の海江田翁の業績、小作人に対する指導力と温情に満ちたその人徳を彰するため、島津農場の小作人を中心とした七十余名によって建立されたのである。
又、西中富良野は、島津農場敷地内から下流域の西中に用水が引かれ、その恩恵を得ている関係者も建立に加わっている。碑文題字は、当時村長の吉田貞次郎書となっている。後ろの碑文を、そのまま記載すると次の通りである。
   (二) 碑文の内容
陸軍歩兵中尉従七位勲六等海江田信哉君鹿児島ノ人明治十八年北海道ニ移住シ開墾ニ従フ日清日露ノ戦役ニ参加シ勲功アリ明治三十一年公爵島津忠重ノ農場ヲ管理シ田畑五百町歩ヲ墾成ス君資性忠直ニシテ温情ニ富ミ名利ヲ捨テテ鋭意場務ニ尽瘁シテ百余ノ小作人ヲ愛撫シテ論ル所ナシ人皆其ノ徳ニ服シ其ノ功ヲ仰グ茲ニ小作人相謀リテ碑ヲ建テ其ノ徳ヲ彰ニス呼偉ナル哉
昭和二年四月島津家農場小作人一同
   (三) 信哉の死
十勝岳大噴火の災害をきっかけに信哉は島津農場支配人職を息子の武信に譲り昭和二年、第一線から退いた。
未開の地上富良野村島津農場の開拓に献身的な一生を捧げた信哉ではあったが、昭和六年一月二一日、健康を害し六十六才で生涯を終えた。
信哉の死を惜しむ親族をはじめ、村民や農場の小作人等の人々によって見送れられた葬列は、最後尾の判別が判らない程延々と続いた。その後、昭和十一年、島津農場は関係者の努力により自作農にされる事が決定。翌十二年六月、小作人はそれぞれ自作農民として自立する。

  掲載省略 写真 海江田信哉の葬儀(昭和6年)
   (四) 「海江田翁の碑」島津ふれあいセンターへ移設
月日が流れて平成十二年、成功裡に終えた島津開拓百年の記念行事後、前述の「海江田翁碑」の移設についての気運が盛り上がった。
島津住民会(当時の会長向山安三)は、「多くの苦難と災害を乗り越えてきた先人達の労をねぎらう事と、島津農場と開墾開拓の歴史を後世に残し伝える事は、殺伐とした現在の世相の中で生活している私達が、人との信頼関係や労苦を共にしてきた先人達の生き方を見習う為に意義深い」と訴えた。
昭和二年の前述の建立地から、地域住民の拠り所であり、平成二年に建設された「島津ふれあいセンター」(基線北二十三号)、への移設が最適と言う事で協義され住民の同意を得た。
町教育委員会にも指定を受け、「名跡由来の碑」としても、島津住民会が永久保存の手助けをする事を確認した。
地元企業の山本建設株式会社の特段のご協力もあり工事が完了。碑には島津開拓記念の文字も新たに刻まれ、平成十二年九月五日移設報告祭が執行された。

  掲載省略 写真 「海江田翁の碑」移設報告祭(平成12年9月5日)
あとがき
私の家も島津農場の小作人として先々代の庄蔵が大正九年から農業を営み、昭和十二年の自作農の解放を経て、先代の乙から私へと農業が引き継がれてきた。息子達はそれぞれ独立したり他産業へ就職。
私も農業後継者と呼べる者もなく、平成十三年度をもって離農し、現在高齢者事業団の職員としてお世話になっている。これまで農業で蓄積してきた技術や、地域の仲間と切礎琢磨して競い合ってきた事柄など共通の話題等を失う淋しさは離職によって味わう事となる。
今年になって海江田家三代目となる博信氏(元町議)と、明治四十年に入植した信岡伊蔵氏の三代目に当たる信之氏(現在住民会長)は、このほど農業から撤退する事を決意し、島津地域全体での農家戸数は平成二十年四月現在で三十四戸となった。(図二 掲載省略)海江田信哉は小作人を使用して共存共栄を計りながら大農場を構築した。今、地域農業はさらに大規模経営が求められ、大型の農業機械が導入され、耕起から収穫作業に至るまで大面積を僅かな人員で経営する様に進められている。
生活面でも、一人でテレビや自動車を一台ずつ持つなど文明も豊かになり、国が求めている農業の大型化によって地域のコミュニケーションや家族関係、礼儀、義理人情と言った大切なものまでどんどん失われている。
島津の地域もどんどん高齢化が進み、農政に関するニュースも取り上げられなくなって来ている。しっかりとした声が届けられなくなった時、北海道開拓一世紀に渡って築き上げられた地域農業は確実に崩壊の道を進んでいる。
  参考資料(掲載省略)
(図一) 大正七年小作人居住国―図は島津農場以外の入地判明者(○印)も含めた。
(図二) 平成二十年住民会居住国―図は平成二十年四月現在で農業者を●印。それ以外を○印で示した。
  (調査資料)
上富良野町史上 富良野町
上富良野百年史 上富良野町
郷土をさぐる 上富良野町郷土をさぐる会
島津百年の歩み 島津住民会
富良野地区土地改良史 富良野地区土地改良連合会
屯田兵調査資料 江別郷土資料館
海江田博信蔵島津農場関係書類
郷土館蔵島津農場関係古文書綴り
北大北方資料室―日本北辺関係旧記目録収載野幌
兵村屯田歩兵第二大隊第二中隊給与地配当調



https://www.town.kamifurano.hokkaido.jp/hp/saguru/2505tanaka.htm