2017年7月4日火曜日

陰陽師・赤沼内膳


富田漏祐
土豪・新領主つながり
会津の大名蘆名氏の重臣の内、松本・平田・佐瀬・富田の四氏は「四天の宿老」と称された。富田氏の祖は、古代の安積臣の後胤・直継の子孫など諸説があり、いずれも未詳。『伊東家譜』に、享禄三年秋に富田郷に拠った伊東大和守祐盛が「富田伊東氏」とし、藤原南家伊東氏に関連付け、富田氏代々の名乗りは工藤氏と同じく通字「祐」が用いられた。『旧事雑考』に、会津の古刹・耶麻郡磐梯山慧日寺(当時法相宗、現:恵日寺は真言宗豊山派)の寺侍と伝えられ、僧兵数千の慧日寺武力の一翼を担ったとされる。一族から、養和2(1182)年木曾義仲追討のため信濃国へ出陣した城長茂に加勢し、横田河原の戦いで戦死した乗丹坊がおり、城氏の一族という説もある。
とみた・のりすけ。生没年不詳。平安時代末期~鎌倉時代前期の会津の豪族。
富田氏の継嗣で、幼名は吉祥丸。慧日寺の僧兵が木曾義仲に敗れたため衰退し、会津地方は奥州平泉の藤原氏が支配した。富田氏は会津盆地中央の会津郡下荒井村(北会津村)と耶麻郡塚原村(喜多方市)に館を築き、慧日寺衰退後も一族郎党が多く、軍事力を保持した。
文治5(1189)年源頼朝の奥州征伐に従軍した城長茂が、阿津賀志山の柵(福島県伊達郡厚樫山)を攻めた際、城氏の越後勢に混じって参加し、勝利した。奥州を平定した頼朝は、平泉で戦功のあった三浦一党の佐原十郎義連に会津を、相模の豪族・山内通基に会津郡伊北郷を、下野国の小山氏一族・長沼宗政に南会津一帯の長江庄を、長沼一族・河原田氏に伊南郷を与えた。会津国人領主は入植した山内氏や長沼氏と対立した。佐原義連・盛連父子は代官をおいて衝突を避け、鎌倉から追従した陰陽師・赤沼内膳を神職とし、占いと調伏は効き目があると噂を流し、佐原氏自らも参詣したため土民や地侍らの尊崇を集め、土豪の蜂起を鎮めたという。以来、会津黒川に寺が建立され、10年間で約23箇所に及んだとされる。
承久の乱鎮定後の貞応元(1222)年3月、会津小田山城主となった盛連の子・蘆名光盛は弟・加納盛時と共に慧日寺に花見に出かけ、富田漏祐と出会い宿坊でもてなされた。光盛は自分への仕官を勧めたが、漏祐は固辞し、代わりに11歳の一子・千松を出仕させると約束した。千松は5月5日光盛の側小姓として出仕し。千松の元服に、重臣・平田益範を烏帽子親とし、「範」の字をもらい、範祐を名乗った。

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角館


角館の歴史

1 戸沢氏による統治


 14、5世紀頃岩手県雫石地方の豪族であった戸沢氏が仙岩峠を越えて仙北郡に進出し、領内の宝仙台(旧田沢湖町)や戸沢(旧西木村)の金山による財力に助けられ、天正18年(1590)の秀吉による小田原攻めに、奥州から最初に参陣し、その功で本領を安堵されたが、そのときの領地は仙北郡のほとんどと平鹿郡の一部であったと考えられている。

 その後、慶長5年(1600) 家康の会津上杉景勝攻めに参陣したことから、徳川方に地歩を築き、慶長7年に常陸松岡へ、その後山形県新庄市へ転封されたが、大名として明治維新を迎えている。
2 芦名氏による統治

 戸沢氏の常陸松岡への転封により、水戸の佐竹氏が秋田一円の領主となった。

 佐竹氏は清和源氏義光の流れで、義光の孫・源昌義に始まる。義光は「後三年の役」に際して、左兵衛尉の官職を投げ打って奥州へ赴き、兄の義家を助けた。役後、その功績が認められ、常陸介や甲斐守などの官職を得て、陸奥国や常陸国に領地を賜り、常陸国では佐竹郷を領有した。

 義光には数人の男子があったが、義業が佐竹郷を領有し下向してきたという。そして、常陸国に勢力を有していた平繁幹の娘を妻に迎え、常陸平氏と同盟を結ぶことで常陸に勢力を拡大する基礎を固めた。

 秋田への転封当時の佐竹氏当主は義宣で、彼は角館城を、自分の弟で会津の芦名氏の養子になっていた芦名盛重(のちの義勝)に統治させた。
芦名氏は、桓武平家の流れをくむ名家で、文治5年(1189)藤原泰衡追討の功により会津を領した。

 関東以北の屈指の豪族で、公称百八十万石の大名であったが、盛重16歳の天正17年(1589)、伊達政宗との摺上原合戦に敗れ、会津を去った。

 その後、兄義宣を頼って水戸に落ち、江戸崎に居を構え、秀吉の小田原攻めに参陣して功をあげ、竜ヶ崎城48000石を得たが、、兄の秋田転封により自身も所領を取り上げられ秋田に移り、慶長8年、角館を知行地として与えられて1万5000石で角館城に入り、この際、義勝と改名した。

 芦名氏の角館城は、100名ほどの武士で構成されており、うち38名は、会津以来の譜代であって、中心的存在であり、30名は江戸崎以来の譜代で、さらに10名ほどが佐竹氏から佐竹衆として加わっていた。

 居住地は、戸沢氏の残した古城山の北麓一帯で、武士に加えて、会津・江戸崎時代からの商人も住み着き、密集状態となった。

 そこで、元和6年(1620)、前年に起こった洪水の被害をきっかけに、この地を捨て、古城山野真南に新たな町づくりを始めた。

 町づくりは、古城山の南麓に芦名氏の館を設け、これを中心に、南北に3本の道路を通し、中央の道路をメインとし、350mで、マス形地形とし、更に同じ長さの道路を延ばす、そこまでが武士の居住区で、ここより南に商人、さらに東、南の端に寺を建てるという設計であった。

 武士の居住区と商人居住区との分離帯は幅21mの広場に土塁と掘り割りを設けて「火除け」と呼び、この地域と、隣接する商人町の横町のみが町の東から西へ直線で通ずるようになっているほかは、南北、東西共に、直線でつながることのないようになっている。

 中央の道路は幅11mで、家老以下の上級武士が居住し、東側にはこれに準ずる武士、西側には、徒士や足軽の居住地域に区分されていて、階級や知行高によって敷地居住にも規模に差異があった。 住居は原則として平屋で、茅葺きであった。

 現在までおよそ380年余を経過したが、基本的な道路配置、屋敷区分は変わっていない。

 佐竹支配下の城下には、別系統で直臣武士団を配置するのが通例で、角館にも今宮摂津守が配置され、居住地域は田町に設けられた。375mの道路の両側に屋敷地が設けられたが、この地域にマス形地形は設けられなかった。
3 北家による統治

 義宣の跡を継ぐべき盛泰が22歳で没し、その子盛俊も21歳で没し、その3年後、その子千鶴丸も3歳で不慮の死を遂げ、芦名氏が断絶したたことから、明暦2年(1656)北家佐竹義隣が芦名邸に入り、所領として角館地方を領した。

 北家は、常陸(茨城県)佐竹氏16代義治の3男義信が分流して、宗家太田城(常陸太田市)の北に居を構えたので、北家と称された。北家は、その後一時断絶の時期があったが、明治の廃藩に至るまで角館を支配した。

(基幹産業・手工業)
 角館の幕藩時代の基幹産業は農業であった。久保田藩(秋田藩)は新田開発を奨励し、角館でも芦名氏、北家を通して新田開発が続けられ、新田村8か村を成立させている。

 角館の手工業を代表するものは、白岩焼きと樺細工である。

 白岩焼きは明和8年(1771)、角館の武士小高蔵人らの招請を受けた相馬焼の陶工松本運七が白岩に築窯して始めたもので、主にカメ、スズ、すり鉢等の日用品を生産したが、極めて質の高いことから、武士の求めに応じて茶器等も生産した。しかし、明治に至り、経済情勢の変化に対応できず、衰退した。

 樺細工は、天明年中(1781~88)北家家臣藤村彦六が角館に広めたもので、主に北家の下級武士の手内職として発達した。

 桜の樹皮を、その色や光沢を利用して細工するもので、印籠やたばこ入れ等を生産した。北家の援助もあって次第に盛況となり、明治にはいると棒禄を失った士族の中には樺細工を専業化して職人になるものが多かった。

 白岩焼き、樺細工とも、当時、凶作や藩財政の窮迫による俸禄米の借り上げが恒常化していたため、困窮していた武士の生活を、大いに支えたものと思われる。

(久保田藩の財政窮乏状況)
 久保田藩の財政は早くも寛文末~延宝年間(1670年代)以降窮乏し、正徳・享保年間(1711~1735)には財政窮乏は決定的になり、農民への年貢の強化、家臣に対する知行借り上げ、富裕商人への御用金の賦課などが頻繁に出された。

 宝暦6年(1756)には角館で飢人300人に達し、さらに天明4年には東北一帯が大飢饉に襲われ、これを機会に角館では白岩焼きが発展し、樺細工が始まった。

(京文化の影響・教育・秋田蘭画)
角館は久保田藩の文教の地として称揚された。
北家初代の佐竹義隣は京都の公家の出自であり、2代義明の室も三条西家の娘であり、文化の面でも大きな影響を受けた。北家の代々の当主は芸文を好む者が多かった。家臣や組下武士にも学問や芸術に優れた人材を出している。

 久保田(秋田市)に藩校が設置された4年後の寛政5年(1793)に、角館にその分校として弘道書院が開設されている。私塾は、これより先に数個ができており、武士の子弟の学問熱が高まっていた。

 安永3年(1774)我が国初の近代的医学書「解体新書」が刊行されたが、その挿絵を描いたのは角館の武士小田野直武で、彼は安永年間藩の招きで来藩していた平賀源内に西洋画を学び、のち江戸に出府して本格的に西洋画を学び、日本画に西洋画を取り入れた独自の画法を確立し、彼の画業は秋田蘭画と呼ばれ、日本における西洋画の魁となった。

(戊辰戦争)
 慶応4年(1868)朝廷は奥羽諸藩に会津藩及び庄内藩の追討を命じた。奥羽25藩は奥羽列藩同盟を結成して追討の中止を奥羽鎮撫総督に嘆願したが、却下され、久保田藩は同盟を離脱して、追討の兵を挙げた。このため、久保田藩は奥羽諸藩を敵に回して戦うことになったが、肥前鍋島藩、大村藩、平戸藩、小倉藩などの援軍を得て、1か月の激戦の後、同盟軍の撤退で終結した。

 翌明治2年藩主佐竹義堯(よしたか)は藩籍奉還を許され、久保田県知事に任命された。

参考文献:仙北市教育委員会編「図録角館の武家屋敷」(平成19年4月発行):角館町教育委員会編「角館の武家屋敷 河原田家」(平成10年発行))

http://ito-sokyu.art.coocan.jp/19kaku.htm

2017年5月24日水曜日

三戸


教科書的には鎌倉幕府の滅亡以降は南北朝時代となるが、厳密に二つの朝廷が同時出現する時期は幕府滅亡から2年後の建武2年(1335)8月15日に光明天皇が即位してからとなるので、その間は「建武混乱期」と命名した。

1333 5月25日、後醍醐天皇は光厳(こうごん)天皇を廃して年号を元弘に戻した(建武親政開始)
1333 5月、師行、三戸より上洛 奥羽南北朝史 484
1333 5月 六波羅陥落
1333 6月、後醍醐天皇京都に帰還。6月5日、尊氏を鎮守府将軍に。23日護良親王を征夷大将軍に。北条領没収。七月、尊氏が外浜や糠部に地頭職を得、ただちに一族の尾張弾正左衛門尉を外浜へ派遣。8月5日、顕家が陸奥守になる。
1333 7月 新田義貞上洛か 政長は奥州へ帰り、義貞には時長・師行が従ったのではないか
1333 8月5日顕家を陸奥守、尊氏を武蔵守 東国の南北朝動乱 24
1333 冬。大光寺の曽我氏惣領曽我道性が名越時如、安達高景を奉じて、大光寺楯で挙兵。
陸奥国府は、庶子系光高、安藤五郎太郎高季、尾張弾正左衛門尉、田舎郡の工藤中務右衛門尉貞行などに、大光寺楯を攻めさせた。(12月~翌年1月) 安東一族 92 まだ顕家派と尊氏派この時点では協力している
1333 11月 顕家、義良親王を奉じて奥州に下向
1333 12月、師行、糠部郡奉行兼検断として下向か 奥羽南北朝史 484 師行は、得宗地頭代として三戸などに若干の所領を持っていたが、この時は工藤氏に代わって郡の中心である根城に入ったと思われる。ただし、根城の大々的な改築は行っておらず、工藤氏が使っていた施設を流用する形だったと思われる。
1333 時長、師行、政長が武行を訴える 青森県史 19
建武元 1334 1月、大光寺楯落城。曽我光高は所領安堵を願い出たが認められず。 安東一族 93
師行、外ヶ浜明師、湊孫二郎祐季を揺さぶる。湊は青森。
安東入道は、宗季らしい。 安東一族 97
1334 阿曽沼朝兼、信長を恃む。 南部史要 八戸系図にもでてくる
元弘4 1334 久慈郡が闕所になったのを二階堂行珍に与える文書あり
もとは北条氏の所領だったと推定 奥羽南北朝史 91 一戸氏系の在地勢力がいたのかもしれない
1334 2月、師行、三戸早稲田の土地を毘沙門堂に個人名で寄進 奥羽南北朝史 53 師行と顕家の接点は何だったのか?
4月
一戸 工藤四郎左衛門入道跡
    同子息左衛門次郎跡 八戸上尻打
八戸 工藤三郎兵衛尉跡
三戸 横溝新五郎入道跡
又二郎は信長、又次郎が師行? 奥羽南北朝史 96 又二郎が信長、又次郎が師行だとすると、信長はこれにより糠部に分散的な所領を得ることができたのか
四戸、五戸、六戸の給主は不明。 三戸南部氏の当初の所領は六戸と三戸に散らばって存在し、義政、政盛の菩提寺の高雲寺が百石にあったことから根拠は六戸ではないか?(四天王の小笠原安芸系と争った赤沼氏も十和田と三戸に分散して領地があった)
馬淵川沿いの三戸よりも奥入瀬川沿いの方が平地も広く、開発しやすく住みやすい気がする。
櫛引八幡が最初は十和田にあったことから六戸西側は小笠原長清の系、東側は南部氏が治めたのではないだろうか。
四戸は小笠原長清の系統の櫛引氏が入っていたか?
島守氏の祖が早くから入部していたという伝承がある
蕪島には工藤氏がいたか?工藤氏と櫛引氏は仲良し?工藤秀信が浅水を攻めたのも櫛引と手を組んでのことか?
1335 3月10日、工藤貞行に外ヶ浜の野尻郷、鼻和郡目谷郷が与えられ、師行とその一族に、内摩部郷、泉田、湖方、中沢、東津軽郡の真板、中目郷、中津軽郡の左比内が与えられた。
内摩部郷は、もと安東宗季の本拠地のひとつ。湖方は後潟。 安東一族
北の環日本海世界 101
191
建武2 1335 7月25日鎌倉落城(中先代の乱)(挙兵は7月14日)
1335 8月15日 光明天皇即位、二朝並立となる
1335 信長の弟信行、顕家に従い戦功あり。 南部史要 14
1335 8月19日・征東大将軍足利尊氏が北条時行を破って鎌倉を奪回 (中先代の乱の終結)
1335 8月30日尊氏、斯波家長を奥州総大将に抜擢 中世奥羽の世界 105
1335 10月15日・足利尊氏が帰京命令に従わず、鎌倉に留まる
1335 11月26日・朝廷が足利高氏・直義の官位を剥奪
1335 信長の兄甲斐守義重、新田義貞に従う。 南部史要 14
建武2 1335 12月顕家、第一次西上
1336 3月 顕家が鎮守府大将軍になり再度下向 中世奥羽の世界 104
延元元 1336 4月 武者所詰番事 一番 南部甲斐守時長 建武記 山梨県史


68 近江国太平護国寺(滋賀県米原市)に幽閉されていた光厳天皇は、五月二十五日、伯耆の後醍醐からの詔書で退位し、それとともに正慶という元号も廃され、すべては後醍醐が光厳に譲位した一年九ヶ月前に引き戻された。 17日?
69 後醍醐は六月四日京都に舞い戻ったが、復位したわけではなく、単に帰京しただけだということを強調した。そしてここに、四十六歳の後醍醐の、世に言う建武の新政が始まったのである。 "『増鏡』P.485では六月六日に東寺から内裏に入った
『公卿補任』では、4日に入洛し東寺、5日に内裏。関白停職は17日となっている
『保暦間記』P.57では、4日に東寺、5日に内裏"

http://rekishi.tokyo/nenpyou.html

赤松満祐



ここに赤松惣領家は断絶し領国は山名一族に与えられた。嘉吉の乱【鳥居 和之】
[伝承と作品化]
 赤松満祐の将軍足利義教弑逆事件は,その後もながく語り伝えられ,これを素材とする文芸作品も二,三にとどまらないが,なかでもとくに名高いのは1705年(宝永2)初演とみられる近松門左衛門作の浄瑠璃《雪女五枚羽子板(ゆきおんなごまいはごいた)》で,いちはやく近松の時代物の三傑作の一つに数えられている。作中,満祐は〈赤沼入道〉,満祐の子教康は〈赤沼判官〉と名づけられており,ひたすらに極悪非道の父子として描かれている。…

https://kotobank.jp/word/%E5%98%89%E5%90%89%E3%81%AE%E4%B9%B1-43468

嘉吉の乱



嘉吉の乱(かきつのらん)は、室町時代嘉吉元年(1441年)に播磨備前美作守護赤松満祐が、室町幕府6代将軍足利義教暗殺し、領国の播磨で幕府方討伐軍に敗れて討たれるまでの一連の騒乱である。主に嘉吉の変(かきつのへん)と呼ばれることが多い。
この事件については伏見宮貞成親王の日記『看聞日記』に義教暗殺当日の事情が記されている。全一巻の『嘉吉記』には、嘉吉の乱から後の神器奪還までの赤松氏の事情が記されている。

赤松氏の隆盛[編集]

赤松氏は播磨の地頭であったが、鎌倉時代末期に赤松則村(円心)は後醍醐天皇の檄に応じて挙兵し、鎌倉幕府打倒に大きく尽力し、その功績により守護に任じられた。しかし、恩賞への不満から南北朝時代の争乱では初代将軍足利尊氏に与して室町幕府創業の功臣となり、播磨の他に備前、美作を領し、幕府の四職の1つとなっていた家柄である。
応永34年(1427年)に満祐が家督を相続した時、元将軍足利義持は播磨を取り上げて寵臣である赤松持貞(満祐の又従兄弟でもあった)に与えようとし、満祐が京の屋敷を焼いて領国に引き上げる事件が起こった。義持は激怒して満祐を討とうとするが、幕府の重臣達はこれに反対した。そのうち、持貞は将軍側室との密通が露見したとして処刑されてしまい、満祐は赦免され3ヶ国の守護職を相続している。
義持の死後に弟の義教が6代将軍となると、満祐は侍所頭人に就任し、義教と満祐の関係は比較的良好であった。

万人恐怖[編集]

足利義教肖像
義持は応永35年(1428年)に後継者を定めないまま死去した(嫡男の5代将軍義量は早世していた)。宿老による合議の結果、出家していた義持の4人の弟達の中から「籤引き」で後継者が選ばれることになった。籤引きの結果、天台座主の義円が還俗して義宣と称し(後に義教と改名)、6代将軍に就任した。この経緯から義教は世に「籤引き将軍」と呼ばれる。
当初は有力守護大名による衆議によって政治を行っていた義教だが、長老格の三宝院満済山名時熙の死後から次第に指導力を発揮するようになった。
義教は将軍の権力強化をねらって、斯波氏畠山氏山名氏京極氏富樫氏の家督相続に強引に介入し、意中の者を家督に据えさせた。永享11年(1439年)の永享の乱では、長年対立していた鎌倉公方足利持氏を滅ぼした。比叡山延暦寺とも対立し、最終的にこれを屈服させたものの、僧侶達が根本中堂を焼き払って自殺する騒ぎとなった。
足利将軍の中では父の3代将軍足利義満に比肩しうる権力を振るった義教だが、猜疑心にかられて過度に独裁的になり、粛清の刃は武家だけでなく公家にも容赦なく向けられた。当時の公家の日記には、些細なことで罰せられ所領を没収された多くの者達の名が書き連ねられている。中には遠島にされたり、殺された者もいた。伏見宮貞成親王の日記『看聞日記』は義教の政治を「万人恐怖」と書き記している。

満祐の隠居[編集]

この頃、幕府の最長老格となっていた赤松満祐は義教に疎まれる様になっており、永享9年(1437年)には播磨、美作の所領を没収されるとの噂が流れている。義教は赤松氏の庶流の赤松貞村(持貞の甥)を寵愛し、永享12年(1440年)3月に摂津赤松義雅(満祐の弟)の所領を没収して貞村に与えてしまった。
同年5月、大和出陣中の一色義貫土岐持頼が義教の命により誅殺された(大和永享の乱)。「次は義教と不仲の満祐が粛清される」との風説が流れはじめ、満祐は「狂乱」したと称して隠居した。
嘉吉元年(1441年)4月、持氏の遺児の春王丸安王丸を擁して関東で挙兵し、1年以上にわたって籠城していた結城氏朝結城城が陥落(結城合戦)した。捕えられた春王丸、安王丸兄弟は、護送途中の美濃垂井宿で斬首される。これより先の3月、出奔して大和で挙兵し、敗れて遠く日向へ逃れていた義教の弟の大覚寺義昭島津忠国に殺害されており、義教の当面の敵はみな消えたことになった。
6月18日、義教から家督介入の圧力を受けた富樫教家が逐電、弟の泰高が後を継いだ。23日には吉良持助が出奔している。

乱の経過[編集]

将軍暗殺[編集]

6月24日、満祐の子の教康は、結城合戦の祝勝の宴として松囃子(赤松囃子・赤松氏伝統の演能)を献上したいと称して西洞院二条にある邸へ義教を招いた。『嘉吉記』などによると、「の子が沢山できたので、泳ぐさまを御覧下さい」[1]と招いたという。
この宴に相伴した大名は管領細川持之畠山持永山名持豊一色教親細川持常大内持世京極高数山名熙貴細川持春、赤松貞村で、義教の介入によって家督を相続した者たちであった。他に公家の正親町三条実雅正親町三条公治の父、義教の正室正親町三条尹子の兄)らも随行している。
一同が猿楽を観賞していた時、にわかにが放たれ、屋敷の門がいっせいに閉じられる大きな物音がたった。癇性な義教は「何事であるか」と叫ぶが、傍らに座していた正親町三条実雅は「雷鳴でありましょう」と呑気に答えた。その直後、障子が開け放たれるや甲冑を着た武者たちが宴の座敷に乱入、赤松氏随一の剛の者安積行秀が播磨国の千種鉄で鍛えた業物を抜くや義教の首をはねてしまった。
酒宴の席は血の海となり、居並ぶ守護大名達の多くは将軍の仇を討とうとするどころか、狼狽して逃げ惑う[2]。山名熙貴は抵抗するがその場で斬り殺された。細川持春は片腕を斬り落とされ、京極高数と大内持世も瀕死の重傷を負い、後日死去した。公家の正親町三条実雅は、果敢にも赤松氏から将軍に献上された金覆輪の太刀をつかみ刃向うが、切られて卒倒。庭先に控えていた将軍警護の走衆と赤松氏の武者とが斬り合いになり、塀によじ登って逃げようとする諸大名たちで屋敷は修羅場と化した。赤松氏の家臣が、将軍を討つことが本願であり、他の者に危害を加える意思はない旨を告げる事で騒ぎは収まり、負傷者を運び出し諸大名は退出した。
貞成親王の『看聞日記』は「赤松を討とうとして、露見して逆に討たれてしまったそうだ。自業自得である。このような将軍の犬死は、古来例を聞いたことがない」と書き残している。

暗殺後の対応[編集]

管領細川持之を始め諸大名達は、邸へ逃げ帰ると門を閉じて引きこもってしまった。彼らは赤松氏がこれほどの一大事を引き起こした以上は必ず同心する大名がいるに違いないと考え、形勢を見極めていた。実際には、義教暗殺は赤松氏による単独犯行であった。満祐ら赤松一族はすぐに幕府軍の追手が来ると予想して屋敷で潔く自害するつもりでいた。ところが、夜になっても幕府軍が押し寄せる様子はなかったため、領国に帰って抵抗することに決め、邸に火を放つと、将軍の首を槍先に掲げ、隊列を組んで堂々と京を退去した。これを妨害する大名は誰もいなかった。
突然独裁者である義教を失った幕府は、管領の細川持之の指導力が欠如していたことから機能停止に陥ってしまった。翌25日、ようやく持之は評定を開き、義教の嫡子千也茶丸(足利義勝)を次期将軍とすることを決定した。26日に義勝を政所執事伊勢貞国の屋敷から室町殿へ移している。しかし幕府の対応は混乱し、赤松討伐軍は容易に編成されなかった。これら幕府の対応の混乱は、義教の将軍親政策の結果という見方もできる。強力な指導力を持つ将軍がいたため、緊急時に管領以下の幕臣が指導力を発揮する機会が無かったということである。実際、赤松満祐を幕政から退ければ、将軍親政はほぼ確立したはずであった。
将軍が殺された時に管領でありながら戦いもせず、真っ先に逃げ出そうとした持之の臆病ぶりは嘲笑され、持之が満祐と結託しているという噂まで流れたが、実際こうした幕府の対応の遅さに、赤松氏に有利に事態を収拾しようとした持之の明確な意図を読み取る見方もある[3]
本拠地の播磨坂本城に帰った満祐は、足利直冬足利尊氏の庶子、直義の養子)の孫の義尊を探し出して擁立し、大義名分を立てて領国の守りを固め、幕府に対抗しようとした。
7月1日季瓊真蘂が坂本城を訪れ、義教の首の返還を求めた。満祐は快く首を返還した。真蘂が京都へ首を持ち帰り、6日等持院で義教の葬儀が行われた。
嘉吉の乱.png

赤松氏討伐[編集]

その後細川持常、赤松貞村、赤松満政の大手軍が摂津から、山名持豊ら山名一族が但馬伯耆から播磨、備前、美作へ侵攻する討伐軍が決定した。大手軍は7月11日に発向したが、事実上の総大将であった侍所頭人山名持豊はなかなか京を動かなかった。その間に持豊配下の兵士が「陣立」と称して洛中の土倉質屋を襲撃して財物を強奪した。これには管領細川持之も怒り、数日たってようやく持豊が陳謝するという事件が起こっている。
7月初旬に山名教清が伯耆から美作へ侵入した。同地の国人はほとんど抵抗せず、美作は山名勢に制圧された。
細川持常、赤松貞村らの大手軍は摂津国西宮まで進出。25日に赤松教康は幕府軍に夜襲をしかけるが、同士討ちが起きて退却している(庫御所合戦)。大手軍は戦意が低く、但馬口の山名持豊が動かないため進軍を止めてしまった。
持豊は7月28日にようやく京を発し、但馬へ向かった。
8月1日、持之は赤松討伐のための治罰綸旨を奏請し、後花園天皇はこれを認め、三条実雅を介して公人奉行である飯尾為種に手渡された(『建内記』)。公家の中には満祐に同情する者や、赤松氏は朝敵ではなく武家の私闘であるとして反対する議論もあったとされる。また、村上源氏久我清通がこれを機に足利義満の時代に奪われた源氏長者の地位を取り戻すべく活動をしていたが、幕府は何の対策を打ち出せなかった(11月2日に清通は源氏長者に補任される(『公卿補任』)。
8月19日、摂津の大手軍が動き、細川持常、赤松貞村は陸路から、細川持親細川成春の父)は海路から塩屋(神戸市)の教康の陣を攻撃した。教康は陣を放棄して蟹坂へ後退し、大手軍はようやく播磨へ入った。24日、教康は逆襲に出て両軍は激しく戦う。25日、大雨の中を幕府軍は蟹坂の陣へ攻撃を行った。教康は奮戦したが、但馬口が突破されたとの報(虚報であった)を受け、戦意を失って坂本城へ退却した(人丸塚の戦い)。
8月中旬、山名持豊は4500騎をもって但馬・播磨国境の真弓峠に攻め込み、この方面を守る赤松義雅と数日にわたり攻防があった。28日、持豊は真弓峠を突破し、退却する義雅を追撃しつつ坂本城に向かって進軍した。30日、両軍は田原口で決戦を行い、義雅は善戦するが力尽き敗走した。
9月1日、持豊の軍勢は坂本城へ到り、持常の大手軍と合流して包囲した。守護所の坂本城は要害の地とは言えず、3日になって満祐は城を棄てて城山城兵庫県たつの市)へ移る。赤松一族は城山城へ籠城するが、山名一族の大軍に包囲された。9日、義雅が逃亡して幕府軍に降服し、播磨の国人の多くも赤松氏を見放して逃げてしまった。10日、幕府軍が総攻撃を行い、覚悟を決めた満祐は教康や弟の則繁を城から脱出させ、切腹した。

戦後[編集]

守護大名の復権[編集]

山名持豊は満祐を討ち果たしたことによって播磨守護職を与えられ、備前守護は山名教之、美作守護は山名教清が任ぜられた。また摂津の中島郡と播磨の明石加東美嚢三郡は御料所となり、中島郡は細川持賢、播磨三郡は赤松満政が分郡守護となった。しかし持豊は軍功として播磨一国支配を要求し、文安元年(1444年)1月に満政は失脚して三郡も持豊の支配下となった。満政はこれを不服として播磨で挙兵したが、文安2年(1445年)に殺害された。足利義満時代の明徳の乱で敗れて低下した山名氏の勢力は大きく拡大し、細川氏と力を競うようになる。
将軍家はこの一連の出来事で権威を大きく失墜させ、代わりに守護大名の合議制が復活した。8月、討伐軍が西国へ出征している隙を突いて嘉吉の土一揆が発生、要求を認めて徳政令を発布したこともその一環といえる。また、持之は6月25日の評定で義教に処罰された人々の赦免を決定したが、義教に更迭された畠山持国が上洛し、逆に義教に当主とされた持国の弟持永が逃亡して殺され、持之の管領辞任後に持国が管領に就任した。持国は自分と同じく義教に処罰された人々の復権を図り、反発した細川氏と対立、大名家のお家騒動を引き起こしていった。

赤松氏のその後[編集]

脱出した教康は義父の大河内顕雅を頼るが拒まれて自害し、満祐が擁立した義尊も討たれている。満祐の弟の義雅は一族である満政の陣に出頭して切腹し、息子千代丸(後の赤松時勝)の育成を託した。またもう一人の弟である則繁は九州に逃亡し、一時は朝鮮に渡るなど活躍したが文安5年(1448年)に河内で討たれている。享徳3年(1454年)に満祐の甥の赤松則尚が赤松氏再興を掲げて播磨に侵入したが、敗れて持豊に討ち取られた。分家の有馬氏出身の有馬持家元家父子は8代将軍足利義政の側近として活動していたが、それぞれ満政、則尚の反乱に連座して隠居に追い込まれた。
嘉吉3年(1443年)、三種の神器のうちの神璽後南朝勢力に奪われる事件が発生した(禁闕の変)。赤松氏の遺臣は後南朝勢力に潜入し、長禄元年(1457年)に神璽を奪還して後南朝の後裔を殺害した(長禄の変)。この功により時勝の子赤松政則は赤松氏の再興を認められ、加賀半国守護に任ぜられた。応仁の乱では旧領の三国をめぐって山名氏と争い、三国守護の座を奪還した。

赤沼明神


(旧会津物語)


(前書き)
 私の亡くなった母親がいつも私に、お前の先祖は会津藩士で偉かったと語って聞かされた。そんなこともあって物心ついて私は先祖のことを調べることに夢中になった。
 母方の先祖は、源頼朝に従い藤原氏討伐に参加した千葉胤常の一族佐瀬氏でした。佐瀬氏は会津守護の三浦氏(のち芦名氏)に従い会津に土着します。
 父方の先祖は、大同元年(806)の会津磐梯山の麓に僧・徳一が建立した慧日寺(大寺)の寺侍・富田氏でした。その後、慧日寺は僧兵3000人を要し、富田氏は僧兵頭になり乗丹坊と称していました。
 寿永元年、乗丹坊は越後の平家城氏に従い僧兵と会津4群の兵3万を従えて信州の木曽義仲を打ちに出かけた。信州横田河原で源平合戦の幕開けである寿永の乱がはじまるが、木曽義仲の夜襲にあい討ち死してしまいました。現在も恵日寺の遺跡に乗丹坊の墓があります。
 子孫の富田氏は会津国人領主となり、かなりの兵力を誇示していましたが、鎌倉幕府から派遣された守護の芦名氏(三浦氏あるいは佐原氏)と戦いました。また、芦名氏の分家である猪苗代氏と組んで謀叛を企てたりしましたが、ことごとく討ち死にしてしまいました。
 富田氏の子孫は、その霊を弔うため会津中央盆地(北会津郡下荒井村近くの小出)に荒井と名を改め荒伝山宝光院を建立します。(トップページの自己紹介に寺のリンクがあります)
 やがて富田氏及び佐瀬氏は会津守護芦名氏の四天宿老(侍大将)として戦国時代を生き抜いてゆきますが、天正17年(1589)芦名氏が伊達正宗に滅ぼされると、富田氏は下野し荒井と名を改めた。その後、荒井は下荒井、中荒井、上荒井(今の喜多方)と子孫が増えて繁栄しました。
 佐瀬氏は最上氏に仕官していましたが、徳川家光の異母弟・保科正之公が会津藩主になると会津藩に召抱えられ再び会津藩士となります。
 佐瀬氏は幕末、京都守護職となった松平容保公に供奉し、蛤御門の戦いに参戦し、その功績により殿様から金鍔の刀を拝領した(この刀は青森県陸奥の斗南から会津に帰ってきたとき貧苦のあまり手放してしまった)。また京都から会津に伏見稲荷の分身を移し、屋敷に正一位として奉りました。(現在も会津の武田病院の前の店の中に安置されています)。
 戊辰の役では会津鶴ヶ城落城まで西軍と戦いましたが、とうとう落城してしまいした。
 明治政府によって極寒の荒地・斗南藩(青森県陸奥)に流刑され、ムシロの小屋に住み、食事は海岸に流れ着く昆布や草根木皮、そして犬の肉を食べ、会津のゲダカ(毛虫)と蔑まれ、艱難辛苦幾歳月をすごしました。
 青森県陸奥の斗南の丘に立ち南の星を見ながら「いつか会津に帰ることができますように」と祈り、廃藩置県で会津に帰ることができましたが、すでに土地は人手にわたり待っていたのは賊軍の汚名と貧苦の道だけであった。
 私は、この先祖が歩んだ道を振り返り、古文書を紐解き、会津の図書館や歴史書を読み漁り、この斗南の星(会津物語)を書き始めました。我が命が尽きるまでに書き終えることを祈るのみです。


会津藩士子弟、什(じゅう)の掟
 江戸時代の会津藩士の子弟では、未就学の子供(6-9歳)を遊び仲間の「団体」に組み込み、勉強以外の遊戯も共同で行ない、一日の終わりに会合をおこない、過失の審問、詮議をした。守ることは、次のことである。
  1、年長者にお辞儀をしなければ、なりませぬ
    近頃は、「おはよう御座います」「こんにちは」などの挨拶が出来ない人が多くなりました。
  2、虚言(うそ)をいうことは、なりませぬ
    約束を平気で破り、嘘をつく人が多くなりました。
  3、卑怯な振る舞いをしては、なりませぬ
    権力や財力に媚び諂い、弱い者が困っていても見て見ぬふりをする人が多くなりました。
  4、弱いものを、いじめては、なりませぬ
    腕力や権力にものをいわせ、学校や職場で弱いものをいじめて恥じない人が多い。
  5、戸外で物を食べては、なりませぬ
    戸外で禽獣の如く飲み食いする人の多いこと。
  6、ならぬことは、ならぬものです
    いけないことは、例え理由があっても、やってはいけない。
  これ以外にもありますが、現代では女子差別になりますので、はぶきます。
 さて、会津藩では、これを怠れば、絶交などの制裁が行われ、たとえ親や大人、上司といえども介入ができなく、親が同伴して年長者の家に出かけ許しを乞うた。むろん、10歳以上のものにも同じような団体があり、幼年団の監督指揮を行った。
 これにより、会津藩士は質潔堅固な会津藩独自の気風がやしなわれ、「火中に薪を背負うて入るようなもの」といわれた、京都守護職を泣く泣く拝命し、戊辰戦争に突入し、落城まで戦いました。
 「ならぬことは、ならぬものです」の教えを伝える会津人は、とかく取っ付きにくく、人付き合いがへたで、第一印象が見事に悪い。しかし、だんだん付き合ってゆくと、その純朴にほれ、無二の親友になる。

 
1巻:会津猫魔と徳一大師

前88年、崇神(すじん)天皇の時代、当時会津地方はクモ族等の蝦夷人が勢力を持ち大和朝廷に伏さないため、天皇は、東北のエゾ征伐を行うため大毘古命(おおひこのみこと)とその子・武沼河別命(たけぬなかわけのみこと)を奥羽に行かせた。それぞれの命は、北陸道と東海道を経て進み、図らずも会津で出会った。当時の会津盆地は湖沼でこの出会った港を相津と名付け、のち大宝元年(701)に会津に改められるまで相津という地名であった。
 命2人は、天津嶽に伊佐須美神社を祀り、土地の豪族・仙石太郎の妨害に合いながらも御輿を明神嶽に移し、553年頃、会津高田に伊佐須美神社を移したのである。
 そのころの日本は、地方豪族が強大な力をもってきたため、大和朝廷が動揺し氏姓制度がゆらぎはじめ宮司制へ移行していったときでした。そして、継体・欽明朝の内乱がおこり、豪族間の対立も各地でおこっていた。
 日本に仏教が伝来したのは、大和朝廷(552)頃と言われていますが、会津には、これよりも早い540年頃(欽明天皇の元年)、梁の僧青岩一行が蛮風あふれる日本に仏の教えを広めたいと、一仏像を護持し荒波の日本海を渡り、越後の国にようやく上陸したのです。さらに赤賀川をさかのぼり塩峰峠から会津盆地をのぞみ、ここが草庵を結ぶ適地と定め、日本最初の寺(高寺)を建立したのです。
 僧青岩は、会津の豪族に仏教を広めてゆきますが欽明天皇の6年(545)にこの世を去ってしまいます。その後、弟子の恵隆は高山寺の開山に全力をつくし自分の名をとって「恵隆寺」と名付けた寺を興します。
 552年、仏教礼拝をめぐって蘇我氏と物部氏が対立し崇仏論争が始まると、地方の豪族も巻き込まれ、会津でも争いがおきました。
 645年、大化改新によって、天皇を中心とする集権国家が確立し、それまで国の外として力の及ばなかった東北地方は陸奥の国となり会津も律令政治の支配を受けるようになった。陸奥の国の役所は、多賀城(仙台)におかれ、会津郡の郡司は、会津の有力者であった丈部(はせつかべ)氏らが、阿部会津臣(あべあいづおみ)という称号を与えられ治めていた。
 斎明天皇の4年(658)に性空上人の弟子蓮空上人が恵隆寺に入山したこともあって、本尊の観世音菩薩が安置され庵も大伽藍となり多くの寺領を有するようになった。その後200年あまり恵隆寺は繁栄を続け多くの僧を育てるのである。しかし、光仁天皇の宝亀6年(775)北越の蝦夷が侵攻してきたとき、さしもの大伽藍は兵火で焼亡してしまう。
 蝦夷の侵攻に手を焼いた大和朝廷は、789年(延暦8年)会津の武将・会津壮麻呂(あいづのおまろ)を征東将軍紀古佐美の率いる軍に参加させ蝦夷と戦わせるが、坂上田麻呂の鎮守府(胆沢城)で死亡してしまう。
 桓武天皇の延暦23年(804)、僧利仁は荒廃した恵隆寺の再興を決意し、事業を再開するが思うようにならない。この年、最澄と空海が遣唐使に随行して入唐した。
 このころ、平安京での南都仏教の荒廃に失望した法相宗の学僧徳一は、東大寺興福寺を出て、仏教界の堕落を憂い山岳に真の仏道を求め遠い北国で布教活動を行っていた。
 大同元年(806)会津磐梯山の猫魔ケ岳は大爆発を起こした。それまでの会津盆地は、猪苗代とつながった一大湿地帯を形成し、原生林がはびこり人が住めない土地であったが、一夜にして猪苗代湖が出来上がった。その後、会津盆地は干上がり人が住めるようになってゆくのである。
 筑波山に寺を開いていた徳一は、会津磐梯山の猫魔ケ岳の噴火を聞き、なんとか自分の修法で鎮めたいと急きょ会津に下向するため出発していた
 岩代の富田の庄に通りかかる。富田氏は、もともとこの地、岩代の国安積郡富田の荘園を預かる安積臣伊東氏の後胤で、近頃は一族郎党も増え次第に力をつけていた。富田氏の次男で暴れん坊の祐勝は、今日も荒馬を調教するため原野を駆っていた。
 とぼとぼと痩せた僧侶が一人で歩いているのが見えたが、かまわず僧侶の側を灰塵を巻き上げながら馬を走らせて通り過ぎていった。ふと、祐勝はやせこけたこの旅姿の僧が気にかかり引き返す。
「そこの、こじき坊主、どこにいくのじゃ」
「はい、わたしは、徳一と申します。会津磐梯山の猫魔ケ岳が大爆発したとのこと、私の修法で鎮めるため急きょ会津に下向するところです。」
「なに、猫魔を鎮めるとな。そんなものがあるのか。して、その修法とやらは、どんなものか」
「はい、仏教の魔性退散の秘法でございます」祐勝は、この僧に対し妙に親しみ感じた。
「日も暮れかかっている、どうじゃ、わが館に泊まらぬか」。祐勝は、徳一を自分の後ろに乗せると、館に向けて走り出す。
「やれやれ、また暴れん坊の祐勝さまが、どこぞのこじき坊主を連れてきたわい。お館さまが、また怒るわな」下女たちが二人を見てがやがやと騒ぐ。
「おい、おまえ達、このご坊のすすぎを持て。すすぎが終ったら風呂に入れてやってくれ」下人たちは、ぶつぶつ言いながらすすぎを終えた徳一を風呂に案内する。
 その晩の夕餉は、当主の富田祐宗もいたって機嫌がよく、3人の息子と2人の娘にかこまれ酒をすごしていた。
「都では、昨年、最澄が帰朝して天台宗とやら伝えているが、御坊は、どの宗派でござるか」
「名もないこじき坊主ですので、特別な宗派などありませぬが、この前までは、南都の興福寺で法相宗を学んでおりました。」
「興福寺とは最高学府ではないか、これはこれは、えらいお坊様をつれてこられたことか。して、その御坊が何ゆえに興福寺を出られたのかな」
「昔は、南都仏教も真剣な学校でありましたが、いまやその内容は退廃して、形ばかりの抜け殻になってしまいました。私は、本当の修行をするため旅に出たのです。事物は心が認識することによって初めて存在するものであって、一切のものは実在せず心だけが実在することを広めたいのです。」
「ほう、難しいのう。祐勝に聞いたが、会津の猫魔の噴火を鎮める秘法があるというが、そりゃほんとのことか」
「はい、空海から学びました密教の中にあります。」
「これはありがたい。実は猫魔の噴火は魔物があやつっているといううわさじゃ。また、この辺にも降ってくる灰で作物がのう、だめになって、困っていたのじゃ。」
「父上、祐勝は御坊の護衛としてついて行きたいのですがお許し願えませぬか。会津のあの辺は、魔物や山賊が住み着いており、命が幾つあっても足りませぬ」
「おお、それはよいことじゃ。腕の立つ郎党も少しつれていくがよかろう。御坊を猫魔までおつれもうせ。そちが欲しがっていた名刀の友成を持ってゆくがよかろう」祐宗は、祐勝に一振りの太刀を与えた。
 翌日、徳一は、ゴロゴロという音とゆれで目をさました。
「これは、うっかり寝過ごしたわい。旅の疲れと、この屋の親切に甘えてしまった。それにしても、この音はなんじゃな」 外に出てみると、富田の一族も集まっていて、祐勝も不安そうに会津のほうを見ている。ときどき、噴煙と雷が見え隠れする。
「御坊、起きてこられたか。今日は、猫魔はかなり機嫌が悪そうだな。御坊、これでも行かれるか」
「行きます。必ずや私の秘法をもって、鎮めてごらんにいれます。」徳一は、しっかりと足固めをすると、祐勝と富田の郎党5人に守られ、会津に向かって歩き始めた。
 安積郡の平野を越えると、これから会津に入る険しい峠にかかる。今の磐梯熱海から中山峠という山賊の多い所を通るのである。一行の額にも汗がにじむ。それにしても暑い。猫魔が時々、くるなくるなというように吼える。噴火の灰もところかまわず衣服の中に入り込む。
「うわー、これはたまらん。」郎党の一人が、咳き込んで座り込む。
「皆の者、くじけるでない。御坊をお守りするのじゃ」と祐勝が怒鳴る。一行は、ようやく峠を越え、磐梯山の麓の磨り上げ原にでる。
「うわー、祐勝さま、こんなところに海が見えまする。」郎党が騒ぎ立てる。
「いやまて、かすかに対岸がみえる。これは、大きな湖じゃ。たしか、あのあたりに星や五十嵐一族の村があったはずだが。」祐勝も、呆然と立ち尽くす。磐梯山の麓もぼうぼうたる原っぱのあちこちに岩が剥き出しになって、歩くのに難儀を強いられる。
「祐勝さま、あそこに林が見えます。あそこで休すんでは、いかがでしょう。」
「そうだな、御坊も疲れているし、われらも、灰まみれで鼠のようじゃ。はっはっはっは」一行は、林の中ほどにある木陰に陣取ることにした。用心のため、郎党2人を見張りにつけることにした。
「皆のもの、今のうちに着物の灰を払い、腰のホシイを少し食べるが良い。御坊もそうされよ」と祐勝が言ったとき、いきなり、見張りの叫び声とともに、数本の矢がばらばらと飛んできた。
「山賊の襲撃じゃ。皆のもの心して戦え。徳一様を守るのじゃ」祐勝が叫ぶ。あちこちから怒号と剣戟の音がする。
 突然、大兵で顔中毛むくじゃらの男が吼えながら、大太刀を大上段に振りかぶり祐勝に斬りかかって来た。祐勝は辛うじて抜き合わせる。「ガッ」と音を立てて刃と刃が噛み合う。
「うおー、」大男がうなりながら、ぐいぐいと押してくる。祐勝も力が強いが、大男の方の力が勝っているのでどんどん押される。
「うー、なんて強い力だ」祐勝は次第に腕がしびれ、目の前がかすんできた。満身の力で押し返すがびくともしない。してやったりと、大男は再び太刀を大上段に振りかぶって振り下ろした。祐勝も必死に頭上に太刀をかざす。
 キーンという音とともに、大男の太刀が真中からポッキリと折れてしまった。
「こりゃ、どうなっているのだ」大男は、ぼうぜんと自分の折れた太刀をながめた。
「うーん」突然、大男が仁王立ちのまま、うしろしひっくり返ったのである。
「これ、富田の者、だいじょうぶか」ぼんやりとした祐勝の目に、金剛杖を構えている一人の僧の姿が見えた。頑丈な体つきの僧は、ぎりぎりと大男を木に縛り付けてしまった。
「いや、かたじけない。して、いずれの御坊でござる」こんなところにと、何故、僧がいるのだろうかといぶかしげにいった。
「空海と申す。さて、徳一様の一行であろう。賊の大将とおぼしきものを、ほれ、あのとおり縛っておいた。他のものを成敗するのじゃ」
「それは、ありがたい。やいやい、山賊ども、お前達の大将を生け捕ったぞ。はや、降参せよ」祐勝が叫ぶと山賊どもは、その場にへなへなと倒れこんでしまった。
「腹がへった。なにか喰わしてくろ」「命だけはお助けを」
「なんじゃ、こいつら、弱い奴らめ。それにしても、何か食わせろとは、けしからぬ」富田の郎党がこぶしを振り上げる。
「ひえー、お助けを。もう5日も食ってねえだ。それに我らは山賊でねえ」
「徳一さま、徳一さまは居らぬか。空海じゃ」空海が、あたりを捜しながら叫ぶ。
「なに、空海とな、そりゃまことか」徳一が、岩陰から少し顔をだして叫んだ。
「おお、ほんとに空海さまじゃ、して、空海さまが何故ここにおられるのか」徳一は不思議な顔をした。
「私も、帝よりこの猫魔の噴火を鎮めるよう勅を受けたのじゃ。そこで、急ぎ都より下って先ほど富田の庄を過ぎようとしたところ、徳一様の一行が先ほど会津に向かったと聞いたので、急いで追ってきたのだ。」
「うーん、いたい、いたい、」大男が目をさました。
「やい、この縄をほどけ。俺は、五十嵐の金剛丸じゃ。本来ならお前達などひとひねりだが、こう腹が減っては力が出ぬわ」縛り上げた木をゆさゆささせて叫ぶ。
「何、あの力自慢の金剛丸か、どうりでものすごい力であった。私は富田の祐勝である」
「ひゃ、お主は、富田の暴れん坊の祐勝か、さすがわしの太刀を防ぐはずじゃ。それにしても、わしの太刀が折れるとは、お主の太刀はなんじゃ」
 祐勝は父からのもらった太刀を引き抜いて刃を改めたが、どこにも刃こぼれはなく、美しい直刃の太刀が輝いていた。
「さすが、名刀の友成じゃ、」ふーと、ため息をつき鞘におさめた。
「金剛丸の縄を解いて、そして何か食べさしてやれ。」おそるおそる富田の郎党が縄を解くと、金剛丸は、その場で、オイオイと泣きはじめてしまった。五十嵐の郎党も、つられてオイオイと泣く。
「どうしたというのだ金剛丸」
「わしらの村は、あの突然出現した湖の底じゃで、みんな死んでしもうた。わしら5人だけが、狩に出ていて助かったのじゃが、もう5日も何も食べていない」
「あの中に、沢山の人たちが・・・」祐勝は、ふたたび巨大な湖を見つめつぶやくのであった。
「きっと、鎮めてみせよう」徳一と空海二人は、じっと磐梯山を見上げ決意するのであった。
「じつは金剛丸殿、ここにおわす徳一さまと空海さまが、猫魔の魔物を退治にきてくださったのだ。この祐勝では、とんと道筋がわからぬ。おぬし、道案内してくれぬか」
「おお、よろこんでしようぞ」
 あちこち山崩れで道が寸断されている。まだくすぶる大きな岩や陥没した穴に気をくばりそろそろと進む。ときどき、猫魔がゴーと地鳴りをあげて噴煙をあげ、ばらばらと噴石が落ちてくる。
「うわー、たまらぬ。祐勝さま、祐勝さま、もう引き返しましょう。」郎党どもがおろおろと泣き声をあげる。
「えい、弱音をあげるでない。徳一さまと空海さまに遅れるではないか」徳一と空海は、まなじりを上げ、しっかと猫魔をにらみどんどん進んでゆく。
「たしか、この山崩れを超えれば、翁沢を経て古城峰の下に出られるはずじゃ。それ者ども、もう一息じゃ」金剛丸が叫ぶ。どうにか、噴煙の風上に当たる猫魔を左にする位置にたどりついた。
 突然、大きな地鳴りとともに猫魔の頂上に稲妻が走り、ゆっくりと山が動き始めた。
「うわー、山がこちらに向かって落ちてくる。助けてくれー。」郎党が立ち騒ぎ叫ぶ。いわゆる火砕流が起きたのである。
「この近くに、むかし蝦夷人が住んでいた穴がある、そこに逃げるのじゃ。急げ。」金剛丸が大声で叫び、駆け出した。一同が蝦夷穴に避難した瞬間、「ゴー」という音とともに火砕流が押し寄せてきた。
「ひえー、助けて、着物が燃える、熱い熱い。」
「奥へ逃げろ。先に池があるので飛び込むのじゃ。急げ」すざましい地鳴りと焦熱地獄が、この穴にも入ってくる。一行は水の中で息を殺して震えていた。しばらくして地鳴りが静まったので、恐る恐る一行は洞窟の出口にむかって手探りで移動する。
「やや、入り口が、大岩でふさがっている」
「よし、わしがどけてやる」金剛丸が満身の力をこめて岩に取り付くがびくともしない。
「それ、者ども、金剛丸に手を貸すのだ」祐勝と郎党が取り付く。しかし、岩はびくともしない。
 それを見ていた、空海はそこに単座して、息をととのえると何やら呪文を唱え始めた。
「えいー、やー」空海の裂ぱくの気合がほとばしった。そのとき、さしもの大岩がぐらりと動き始めたのである。
 どうにか古城峰の真下に一行はたどりついたが、着物はずたずたで体のあちこちに血がにじみ、息もたえだえであった。徳一と空海は、いちだんと大きな岩を見つけると、急いで魔界退散の護摩修法を行う結界を整えてから一同を集めた。
「祐勝どの、金剛丸どの、われらは、これから猫魔を鎮める修法をこれから行う。いつまで、かかるか、いや、我らが命を落とすやもしれぬ。数々の御助力かたじけなく思います。皆様は、ひとまず館にお戻り願いたい」
「祐勝さま、徳一さま空海さまが、ああ言っております。それに、うちの山ノ神が今ごろ心配していると思いますので、ひとまず帰りましょう」郎党達が口々にいう。
「そうじゃのう。では、我らはいったん館に帰りますが、すぐにでもこの祐勝戻ってきます。それまで、徳一さま空海さま、ご無事で」祐勝達は、後ろを何度も振り返り戻っていった。
 それからの、徳一と空海の護摩修法は、それはすざましく、気力を振り絞ったものであったに違いないが誰も知る由もない。徳一と空海の魔性退散の護摩壇は、八田森(現河東町)の稲荷森といわれている。
 館に戻った祐勝も毎日のように猫魔に向かうが、道はそのたびに閉ざされ破壊されており、徳一と空海の護摩壇は容易に発見できなかった。
「うーむ、よし、船であの湖を渡れば古城峰の下にいけるかもしれない。」祐勝は郎党に船を捜させ、波立つ湖に漕ぎ出した。
「たしか、あの付近が翁沢とおもう、近づけよ」。そのとき、大きな地鳴りとともに、湖の底がせり上がってきたのである。「うわー、たすけてー」船は木の葉のように翻弄され、漕ぎ手の者が振り落とされた。一瞬のうちに、湖の岸近くに小さな島が出現したのである。後に翁島と名付けられる。
 その瞬間、不思議なことにぴたりと地鳴りが鳴り止み、猫魔の噴煙も見えなくなったのである。
「祐勝さまー、あそこに人が倒れています」郎党が叫ぶ。急いで駆けつけると紛れもなく徳一と空海であった。
「徳一さま、空海さまー」祐勝が抱き起こすとかすかに息がある。
「それ水じゃ、二人に水を、少しづつ飲ませるのじゃ」
「うーん、ああ、祐勝どのか、ありがたや仏のご加護である」徳一がすがりついた。
「うっ、やり申したぞ、猫魔をやっと鎮めた」空海もよろよろと立ち上がる。
 猫魔の噴火を鎮めた二人は、徳一が会津に残り、空海は未だ鎮まらない会津の各地を巡り護摩修法を行い耶麻郡の熱塩に示現寺を建立した後、自らの密教の布教に力を注ぐため京に帰っていった。
 会津に残った徳一は、この磐梯山猫魔が岳の麓に慧日寺を建立し、富田の祐勝と五十嵐の金剛丸は寺侍として仕えることになる。徳一はまず、丈六の薬師如来を刻み本尊とするとともに、会津の人々の磐梯山への信仰を深く考え、その畏敬を取り入れた新しい神への仲立ちをする仏教を広めることにした。
 磐梯山の古名は磐椅山(いわはしやま)といい、天にかける巌(いわお)の梯(はしご)という意味で山そのものが神であり、神霊の寄るところといわれてきたので、徳一は山林斗擻行を取り入れたのである。
 さらに、会津盆地の五箇所に薬師寺を建立し、中央薬師を勝常寺と名付けた。慧日寺を東方薬師、堤沢の野寺を南方薬師、上宇内の調合寺に西方薬師、漆峰に北方薬師を建立したのである。さらに稲川荘の柳津に円蔵寺を建立し蝦夷の襲撃から寺を守るため僧兵をおいたのである。
 ある時、徳一は夢をみた。「徳一、徳一、これ、徳一よ」呼びかけるものがいる。紫に光る薄もやの中から、千手観音菩薩が現れたのである。
「ああ、南無千手観音菩薩、南無千手観音菩薩」
「徳一よ、私を彫りだすのじゃ。恵隆寺の利仁をたすけてほしい。」
 はっと、目を覚ました徳一は、すぐさま鑿と鎚を用意すると寺を飛び出した。
「徳一さま、徳一さま、どこにいかれますか」僧兵達が慌てて追いかける。恵隆寺に駆けつけた徳一は、おそるおそる朝もやにけむる山門をくぐると、境内の中央にある柳の大木から紫に光る薄もやが流れ、その中から千手観音菩薩の声がした。
「徳一よ、よくきた。私を彫りだすのだ」
「ははー、御仏を現し奉りまする」徳一は、その場にひれ伏してしまった。
 それからの徳一は、モノにに付かれたように一刀三礼をもって、根のあるまま御身丈2丈8尺(8.5メートル)の一大千手観音菩薩立像を彫り上げたのである。さらに、枝木をもって天の28部衆と風神、雷神そして他の諸像を刻みあげたのです。この千手観音菩薩立像のことを聞き込んだ民衆が陸続と拝観に訪れたため、恵隆寺の再興が果たされたのである。
 その後、徳一大師は、仏教の本質を求めるため、「五姓各別説」「三時教判」の教義から一乗説の最澄に論争を挑み、三一論争とよばれる天台宗との5年間におよぶ大論争を展開することになる。
 論争といっても、会津から比叡山の最澄へ手紙を送って問い、これまた最澄が手紙をもって会津の徳一に答えるという具合だから、いまから思えばのんびりとした月日がかかる論争であった。しかし、問答がそれぞれにつくまで時間があったことは、考える余裕ができたため、より充実した論争になるよい結果を生んだことでしょう。
 普通ならば田舎坊主の戯言と一笑して放っておくのに、最澄も真面目にこの反論に答えたことはすばらしい。たびたび最澄が答えに苦慮するほどの激しい論争を繰り広げるが、このことがかえって天台法華一乗の思想を完成させ、天台宗の体系を確立することになるのである。
 徳一は空海の真言宗にも批判を加えたが、空海はこれに答えず逆に自宗布教を懇願した。真言宗未決文として今に残る。

2巻:乗丹坊と寿永の乱
 天長元年(824)徳一大師が入滅した。そのころ空海は、修禅道場として高野山を開創させるとともに、嵯峨天皇に認められ東寺(教王護国寺)を賜り、「十住心論(じゅうじゅうしんろん)」の創作に着手していた。
 会津慧日寺の僧たちは、徳一大師の遺志を継承して磐梯山の土俗信仰を積極的に取り入れたため、慧日寺の周辺には陸続と信仰を求めて民衆が集まり集落を形成し、市がはやり、多くの店が門前に並び賑わいをみせたのである。
 会津慧日寺の寺侍になった祐勝は、一子、祐宗をもうけると徳一大師を追うように亡くなってしまった。祐宗は、父親譲りの暴れん坊であったが、才覚に優れ統率力があったため、今や慧日寺1000人の僧兵の頭となっていた。
 天慶3年(940)のある日の真夜中、一人の娘が屈強な3人の武士に守られ慧日寺山門に現れた。
「おたのみもうす。おたのみもうす。どなたか居られませぬか」
「うるさいやつらだ。こんな夜更けになんじゃい」門番の僧兵がぶつぶついいながら眠い目をこすりながら出てきた。
「このような夜分にもうしわけありません。われらは、常陸国の平将門の一族で、これにおわすは、将門様の三女の滝夜叉姫であります。どうか、金栄さま、祐宗さまにお目にかかりたい」
「なに、将門様の一族とな、こりゃーえらいことだ。すぐ、祐宗さまに知らせるのじゃ」
 滝夜叉姫と3人の武士を、金栄と祐宗が本堂に迎えた。僧や僧兵達もぞろぞろと起きてきて、心配そうにみている。
「滝夜叉姫さまか、よくぞこられた。将門様が平貞盛と藤原秀郷らに討たれたと聞いたときは、そりゃーびっくりしてしもうた。将門様には、この慧日寺の山門を寄進していただいたこともあって、心配していたのだ。」金栄がいう。
「はい、父将門は、無念にも舅の伯父に騙され、あえなく死んでしまいました」滝夜叉姫はよよと泣き崩れた。
「おお、おいたわしきことよ。この慧日寺におられよ。この祐宗がお守りいたす」
 稲の取入れが終わり、会津の山々が全山赤く燃えるがごとく色づいたある日、慧日寺に一人の僧兵が馬を駆って飛び込んできた。川桁の物見である。
「祐宗さまに、ご注進、ご注進!」息も絶え絶えに転がり込んできた。
「何じゃ、騒がしい。どうしたというのじゃ」祐宗がとんできた。
「100騎ほどの武者が川桁を越え、こちらに向かってきます。誰何しましたが、数人が斬られてしまいました」
「なに、いきなり斬るとは。卑怯なり。どこの者だ」
「軍装からして、田原藤太秀郷の軍勢かと見ました」
「やはり来たか、皆を集め合戦の用意をするのじゃ。迎え撃ってくれるは。」祐宗が叫ぶ。僧兵達が太刀を佩き、弓と胡簶(やなぐい)をかきよせ、馬を引き立て、駈けずりまわる。
 祐宗は、主だった頭を集めると、かねて計画していた策を実行することを告げた。「よいか、わしの合図を待つのじゃ。忘れるでない。よいな」「おうー」という僧兵の声が境内に響いた。
 祐宗は、僧兵500人を3隊に分け、更科、横達の林の中にそれぞれ200人を伏せ、自分は100人の僧兵を従え磨上原の正面に位置した。
 川桁から、慧日寺にゆくには翁島を経て日橋川を渡る道と更科、横達の間を通る間道があるが、祐宗は敵が近道である更科、横達を通るとみたのである。更科、横達の間道は、磨上原を越えると林の間の道を通らなければならない。
 磨上原の丘陵に甲冑をつけた騎馬武者が10騎ほど現れた。斥候の騎馬であろう、しきりに辺りをうかがっている。
「きたぞ、きたぞ」祐宗は、獲物を狙う獣のように舌なめずりした。「よいか、手はずどおり動くのじゃ」10騎の僧兵を率いて、ぬっと林からでて騎馬武者の前面の出た。
「我は、慧日寺の祐宗である。敵対するものは、ここを一歩も通さぬ。そうそうに引き上げい」割れがねのような声で叫んだ。眉をひそめて凝視していた騎馬武者は、10騎の僧兵とみるや、さっと片手を大きく振った。たちまち100騎ほどの騎馬武者がムラムラと立ち現れ馬首をこちらにむけた。
 祐宗も同じように、さっと片手をあげると、50騎ほどの武装した僧兵が同じように対陣した。
「我等らは、藤原秀郷様の命を受けて大逆人将門の三女滝夜叉を捕らえに来た。素直に引き渡せ。さもなくば、皆殺しじゃ」騎馬武者のなかの大将らしきものがキットこちらをみていった。
「片腹痛いわ。その言葉、そっくり返してくれるわ。とっとと失せるがよい」
 騎馬武者のなかの大将は、数に勝るとみると采配を振り攻撃を命令した。地響きをたてて騎馬武者の一団は僧兵に突入してきた。たちまち白兵戦が展開されるが、やはり数に勝る騎馬武者が僧兵達を押し捲る。
 僧兵の一角が崩れ、祐宗が馬を反して逃げにかかった。「それ、追え!」と騎馬武者の大将が叫ぶ。僧兵達も慌てふためき走り出した。うおーという喚声を上げながら騎馬武者が追う。僧兵達は、更科と横達の間を通る間道に逃げ込み慧日寺に向かって必死に駆けた。
「追え、追え、」騎馬武者の軍団が、どっどっと間道に吸い込まれるようになだれ込む。縦一列になった軍団は馬蹄をひびかせ勝ち誇って僧兵達を追う。そのとき、ずしんという響きとともに数本の大木が騎馬武者の前に倒れ間道をふさいだ。
「や!あれはなんじゃ」騎馬武者が叫ぶ。突然、横達の林から矢が雨のように降り注いできた。うわーと騎馬武者が馬を反そうとすると、後ろにも同じように響きをたて大木が道をふさいでしまった。
 やがてつむじ風のように閧の声があがり、横達の林から僧兵が攻撃をかけてきた。騎馬武者は、狩られる野兎のようにあっちこっちに逃げ惑い、横達と反対側の更科の土手を登り日橋川のほうに逃げる。そこは、ぼうぼうたる萱の草原で、今の時期は枯れている。騎馬軍団がそこに駆け込んだとき、高森と更科の両方から同時に火の手があがった。
 枯れた萱にいったんついた火は、磐梯おろしの風にのって、ごうごうと音をたて騎馬軍団に襲いかかったのである。さらに矢うなりが四方から起こり、騎馬武者の悲鳴があちこちから聞こえた。
 騎馬武者の軍団は、藤原藤田秀郷の嫡子千晴の軍勢であったが、多数の死者を残しほうほうのていで逃げ去っていった。藤原藤田秀郷は田原藤田秀郷ともいい、押領使下野の掾(おんりょうしもつけのじょう)で、治安、警察、司刑などの職権をもち、多くの郎党を養い坂東で武力を誇示していたが、国香の嫡子貞盛に頼まれ平将門を討ったのである。
 その後、慧日寺の祐宗は、秀郷の再三の滝夜叉姫引渡し要求を拒み、守り通したのある。滝夜叉姫は慧日寺で庵をむすび如蔵尼という名で余生を全するのでありますが、慧日寺での滝夜叉姫伝説という美しい話が残っています。
 今でも、遺跡慧日寺の門前にひっそりと滝夜叉姫(如蔵尼)の碑がたっています。
平維茂
 さて、それからしばらくしてから永承6年(1051)に前九年の役が、永保3年(1083)に後三年の役がおこりますが、会津慧日寺も安倍氏、源氏、清原氏などに与力したり敵対したりする駆け引きを用い何とか生き残っていました。
 祐宗から数えて200年あまり経ち、子孫に乗丹坊と称する勇猛な慧日寺衆徒頭が出現した。慧日寺衆徒頭は、僧兵6000人の頭であるとともに、会津四郡の兵を統率する強大な軍事力を持っていた。
 その頃、秋田に城と名乗る平家の豪族がいた。城氏の先祖は平維茂(これもち)で、平将門を討滅し平家の基礎を築いた平貞盛が先先祖である。平貞盛の三代目が平清盛である。貞盛は一族の繁栄のため一族の子弟を沢山養子にして育てたのである。15番目の平維茂は年順から余五の君とよばれていた。
 平維茂が若い頃、藤原秀郷の子孫で陸奥の沢又之四郎諸任(もろとう)と領地争いで合戦になったことがある。平維茂は3000の兵のところ、諸任側は1000しか兵が集まらないので、諸任は合戦の中止を申し送り白河関を越えて陸奥に逃げ帰っていった。
「うぬ、くやしや。なんとか彼奴をこらしめないと気がすまぬ」諸任は一計を策し、卑怯な手を使ったのである。逃げると見せかけ、兵のいなくなった平維茂の館に夜討ちをかけて火を放ち維茂の一族を皆殺しにしようとした。
「それ、維茂の一族を一人残らず殺してしまえ」諸任は、目を血走らせ叫ぶ。
 維茂の郎党は、安心して寝込んでいたところを襲われたので、裸同然の姿で飛び出したので、次々に討ち取られてしまった。
「ぎゃー、うわー助けてー」女子供であっても容赦なく斬り捨てられ、辺りは阿鼻叫喚の叫びで渦巻いた。
「維茂の姿が見えぬ、捜せ捜せ、」諸任が叫ぶが、維茂の姿はどこにも見つからなかった。
 平維茂は妻子を逃がし自分は川の深みに入り息をひそめて味方の到着を待っていたのである。そのうち急変を知った一族の味方が集まったところで維茂は川岸に出でて叫んだ。
「それ、者ども、追いかけて諸任の首をとるのじゃ」
 ものの本に「平維茂の出で立ち、紺色の襖(あお)に山吹の衣を着、夏毛のむきばかまをはき、綾藺笠(あやいがさ)をかぶり、征矢(そや)30、雁股の上差しを二筋さした箙(えびら)を負い、手太い弓の所々に皮を巻いたのを持って、金銀ちりばめた太刀を佩き、葦毛の馬七寸(ななき)、長さもまた長い長刀をもって打ち乗っていた。従うものは騎馬の者70余人、徒歩のもの30余人、合わせて100余人、飛ぶがごとく追いかけ一人残らず討ち取ってしまった。」と書かれている。
 さて平維茂から平助長の時代の冶承4年(1180)、源頼政が以仁王の令旨をうけ挙兵すると同じく源頼朝が伊豆で挙兵する。しかし、頼政と以仁王は敗死、頼朝は石橋山の合戦で散々に負けてしまうが、その後2月たらずで坂東の豪族を集め平家打倒に動いてゆくのであるが、会津の大内宿には、以仁王が逃げてきて泊まった宿が残っているので、会津の人は以仁王は死んでいないとしています。
 さて、平清盛は、源頼朝の挙兵とともに木曾義仲が兵をあげたとき、我が家の一族に越後の城氏がいるから、いくら義仲があばれてもやがて攻めつぶすことはわけないと大いに期待していた。
 その頃の会津慧日寺は、三代・金耀の時代になっていて、寺領18万石、寺僧300人、僧兵6000人、塔伽藍100を超え、子院3800坊を擁する強大な軍事力を持つ寺院と発展し、寺侍祐勝の子孫は僧兵頭となり乗丹坊(勝湛房)と名乗っていた。
「誰か居らぬか。誰か乗丹坊を呼んで参れ」いつになく金耀は落ち着かない口ちょうでいいつけた。小坊主は、僧兵の房のなかでも奥まったところにある豪奢な乗丹坊の屋敷に出向き、取次ぎのものに金耀の元へ至急来るように伝えた。
「金耀さま、至急の御用とは何用でござる」大きな体を揺さぶるように、乗丹坊が駆けつけてきた。
「先ほど、越後の秋田城氏から手紙が来て、いろいろなことを言ってきおったのじゃ」
「して、何をいってきたのでござる」
「それがのー、」金耀は一瞬しぶったが「乗丹坊殿に嫁ごをくださるというのじゃ」
「なな、なんと」
「越後の城資国の妹竹姫をくださるというのじゃ」
「なぜ、それがしのようなものに、姫をくださるというのじゃ」
「伊豆の源頼朝が兵をあげたのは知っておろうが、なんでも木曾の義仲は配下の者を集め、木曾山麓の豪族笠原頼直を攻め、敗れた笠原氏は千曲川を渡って越後の城助長に助けを求めたとのことじゃ。そこで義仲もちょこちょこと城氏の領地に戦をかけているとのことなので、我らが寺の力を味方に引き入れんがための政略結婚じゃよ」
「まだ、言ってきてるぞ。何でも婚礼の引き出物として、越後蒲原郡の小川庄をわが慧日寺領に寄進したいとのことじゃ」
「うむ、それで近頃、恵隆寺の僧兵が騒いでおるのだな」
「恵隆寺は、徳一大師が助け再興させたのに、わが慧日寺にことごとくたてつき、聞くところによると、源氏に味方せんとしているようじゃ」
「ますます、気に食わん、うーん」乗丹坊は大きな体を震わせ真っ赤になってうめいた。
「恵隆寺は同じ僧門じゃから、争いたくはない。乗丹坊殿、竹姫を嫁ごにもらうかどうかの返事は後でよいから、まず恵隆寺に出向いて城氏に味方するよう説得してきてくれぬか」
「かしこまりました。直ぐに発ちまする」
乗丹坊は、いまだ独身である。竹姫の美貌のうわさを聞いていたので、なんとなく胸が窮屈になるのを覚えた。翌朝、乗丹坊は僧兵数名と下僕を連れ恵隆寺にむかった。
 恵隆寺の山門に近づくにつれ、何やら異様な雰囲気に足を止めた。いつもがやがやと騒がしい僧兵どもの声もしない。しかし、乗丹坊には、そこかしこからじっと見られている気配を十分に感じていた。
「皆のもの、油断されるな」と乗丹坊は連れの僧兵に注意を促し、ゆっくりと山門に近づいていった。いきななり、二本の矢がヒューヒューと乗丹坊の足元に突き刺さった。
「いきなり矢がけとは、卑怯なり出て参れ」
「やい、乗丹坊何しに来た」一人の僧兵が山門の上に姿を現し叫んだ。
「金耀さまにたのまれ話し合いにきたのだ。管主さまに合わせてくれ」。
「帰れ帰れ、管主さまはお前ごときと話しはされぬは」突然あちこちから僧兵が姿をあらわし、ののしる。乗丹坊は頭に血が上るの感じ、一気に斬りこみたいのをじっとこらえた。
「なにとぞ、あわせてほしい」と腰を折ったとき、いきなり折れ弓が飛んできて乗丹坊の顔に当たった。
「うぬー、もう我慢ができん」と太刀に手をかけたとき
「やめなされ、皆のもの静まりなさい」と管主の隆青が出てきた。
「乗丹坊殿ではないか、皆のもの、刀をおさめなさい、弓もしまうのじゃ」
「管主さまには、逆らえぬは」しぶしぶ恵隆寺の僧兵は太刀をひいた。
 恵隆寺の隆青は、自分の房に乗丹坊を招き入れると、静かに目を閉じて一呼吸おいてから、
「して、ご用件のおもむきは、何でありますかな」
「はい、金耀さまは、源氏の挙兵でまたこの会津も戦になることを心配しておられます。今まで平家の世の中で、この会津も平安なときを過ごしてまいりました。このまま戦のない仏の御心を何時までも維持したいのでござりまする」
「うむ、・・・・・」隆青は黙って目を閉じている。
「そこででござりまするが、恵隆寺と慧日寺の僧兵をもって秋田城氏を助け、木曾義仲を討ってほしいのです。慧日寺の金耀さまも恵隆寺と争いたくないとおっしゃっています」
「乗丹坊、お主は城氏の竹姫を嫁にするそうじゃのう。それに、越後蒲原郡の小川庄を慧日寺にくださるというではないか」隆青は、ぎょろりと目を開けるといった。
「それは、・・・・」と乗丹坊が言いよどんでいると
「よいは、よいは、あはっはっはっは。めでたいことよ。返事は、我らが恵隆寺の衆徒と僧兵に特と諮り答えましょう。しばらく、時がほしい。」
「かしこまりました。金耀さまにそう伝えまする」
 数日後、恵隆寺の隆青から金耀宛てに一通の書状が届いた。それには、恵隆寺の衆徒と僧兵は、越後の城氏には加担しないという内容であった。また、慧日寺の支配も受けぬという強気な返事であった。慧日寺の金耀は顔をくもらせて乗丹坊を呼んだ。
「のう乗丹坊どの、恵隆寺とは戦はしたくないが、こうなっては、越後の城氏に相談するしかないとおもうのじゃ。陸奥の国司平泉の藤原秀衡も源義経を擁護しておるそうな、藤原氏が動けば会津は、西と東から攻められてしまう。そこで、乗丹坊どのに城氏のもとに使いにいってほしいのだが」
「それがしも、このまま城氏に従って木曾に遠征した場合、恵隆寺の僧兵どもは、何をするかわかりませぬ。我らが留守の慧日寺に戦をかけるかもしれぬ。ひとつ城氏の思うっておることも探る必要がりますし、それに・・」
「それに、なんじゃ」
「いや、はっはっは、何でもござらぬ」乗丹坊の胸にまだ見ぬ竹姫の姿がぼんやりと浮かんでいた。
 翌日、乗丹坊は小者を一人連れただけで、越後の城氏のもとに出発した。磐梯山の麓をぬけ徳一大師が建立させた会津中央薬師の勝常寺に向かって歩く、まだ比較的平らなので楽な道中である。ひえ上がった会津盆地の所々に入植者の上げる煙がみえる。
「良い天気じゃな。盆地もいくつかの集落ができ会津嶺の恵みを十分にうけ、実りもよいようじゃ」乗丹坊は小者に話しかけながら、ゆさゆさと大きな体を揺さぶり歩く。
「はい、乗丹坊さま、私の一族も盆地を開墾しております。今年は、阿賀野川の氾濫もなく豊作であるようでございます」
「そうか、それは良いことじゃ。わしの富田の一族も会津盆地の開墾をしているときく。会津も豊かになると思うのだが、源氏の挙兵を利用して坂東では各地の豪族が、舌なめずりして豊かな土地を奪いたがっている。この会津もいつまで平安でいられるか」
 この頃の会津盆地は、近衛家と勧学院、すなわち藤原氏も会津盆地の肥沃な土地を我が物にせんと蜷川や長江の荘園を築きつつあった。
 勝常寺で一泊し早朝出発する。「えらく馳走になりました。勝常寺には僧兵が居らぬゆえ心配でありまする。慧日寺の僧兵を少しお貸ししてもよろしいが、いかがでごござる」
「いや、我らが寺は、薬師如来さま、観音菩薩さまのご加護で守られております。ご無用でございます」勝常寺の僧は、慇懃に答えた。
「そうじゃ、この寺には、霊験あらたかな薬師如来さまがござった。いや、よけいなことをいった。」
 乗丹坊と小者は、そそくさと足早に寺を出ると、野沢に向かって歩き始めた。野沢は会津の北にあたるが、稲川荘の柳津円蔵寺の僧兵といざこざを避けるため、山険しい道であるが阿賀野川をさかのぼって津川に出るつもりである。
 途中の険しい沢や峠を幾つか越え一気に阿賀野川を遡り徳沢を経てなんとか鳥井峠にたどりついた。
「やあー、津川の平野が見えまする。やれやれ、山賊にも会わずよくぞここまで来られた。あと一息でござりまするな乗丹坊さま」頑丈な小者も息を荒げている。
「さて、これから城氏の領地じゃ。われらを物取りと間違えないようにねがいたいものじゃ」
津川の城氏の出城に向かって歩いていると、向こうから一騎の武者が馬を駆ってきた。
秋田城氏
「そこのもの、どこのものじゃ。ついぞ見慣れぬもの、怪しきものども」
 見ると、武者はなんと女であった。手綱さばきもあざやかに馬を自由自在にあやつっている。それに見事な腹巻の鎧に金銀をちりばめた太刀がきらめいている。
 乗丹坊は一瞬ぽかんとしていたが、相手が女であるので、無視して先を急ごうとした。
「まて、」女武者は、乗丹坊の前に取って返すと、馬をけしかけ前足を上げさせ威嚇した。
「うぬ、こしゃくな」乗丹坊はこらしめてやろうと、馬の下に入りその強力をもって、「えい、やっ」と馬ごと持ち上げた。驚いたのは女武者である。
「きゃー」といって馬から落ちてきたのを、乗丹坊はやんわりと両腕で抱きとめた。
「あいたったった」急に乗丹坊は耳をおさえて叫んだ。女武者が乗丹坊の耳に噛み付いたのである。その隙に女武者は、太刀を抜き乗丹坊に斬りかかってきた。なかなかの腕前で、さすがの乗丹坊もたじたじとなったが、ようやくねじ伏せ太刀を奪い取った。
「えい、はなせはなせ、腕がおれてしまう。なんて強い力じゃ。」女武者は悲鳴を上げた。その時、乗丹坊は10名ほどの武者に囲まれていた。
「やいやい、姫の手を放せ無礼者、城資国さまの妹君竹姫さまであるぞ、控えろ」
「やや、竹姫とな、これはご無礼仕った。」まぶしそうに乗丹坊は竹姫の顔をみて驚いた。その美しいこと、彼の胸は早鐘のように鳴り出した。
「そ、それがしは、慧日寺のじょ、じょたんぼうでござる。金耀さまの使いで城長茂(すけもち)さまにおめどうりするため、会津から参りました。よしなにおとりつぎを」それだけ言うと、乗丹坊はその場にへなへなと座り込んでしまった。いわゆる一目ぼれというやつである。
 その夜、乗丹坊は城長茂の屋敷の客間でいつになく落ち着かなかった。
「うむ、わしとした事が、女子などに惑わされるとは」ふーっと、ため息をついた。
「お待たせしました。あるじ城長茂さまがお会いいたしますので、これえ」案内されて、長い廊下を歩く。屋敷は、乗丹坊の住まいや会津の豪族の住まいと違い、きらびやかで、聞いたこともない楽の音とともに、魂がぬけてしまうような何ともいえぬ香りがただよっていた。
 案内されたところは、これまたきらびやかな大広間で、奥まった一段と高いところに城長茂、両脇に城氏の重臣が居並んでいた。乗丹坊が近づくと、がやがやとしゃべっていた重臣たちが、なりをひそめじっと見ている。乗丹坊は臆せず広間の入り口で挨拶をした。
「会津慧日寺の乗丹坊でござりまする。お見知りおきを願います」
「おお、慧日寺の乗丹坊でおじゃるか。大きいのー。ささ、近くにまいれ」城長茂は小太りの丸い顔と公卿特有の甲高い声で乗丹坊を招き入れた。
「慧日寺金耀さまの事付けをもってまいりました」
「ほほほつ、真面目でおじゃるのう、乗丹坊どのは、これから宴をいたす。それからでも遅うないであろう、のう乗丹坊どの」何か意味ありげに長茂は、にやり笑っていった。
「それ、乗丹坊どのを、おもてなしするのじゃ」長茂の声とともに、美しい女子達によって数々の山海珍味が運び込まれた。
「ささ、乗丹坊どの、すごされよ。」長茂は腰元に酒を注ぐよう命じた。乗丹坊は無類の酒好きであったので、ごくりと喉を鳴らせたが、金耀さまのこと付けが終らないうちは、失敗があってはならないと飲まないことを決心していた。そんな乗丹坊の心を見透かしてか、長茂は側の侍に何やら耳打ちした。
「かしこまって、ござりまする」侍は、大広間を出て行った。乗丹坊もこの事態を見逃さず。
「油断ならぬ」とつぶやいた。
 間もなく、何やら美しい楽の音とともに、一人の女が三方を掲げ入ってきて、乗丹坊の前にぴたりと座った。入ってきたときは三方の影になり顔が分からなかったが、面をあげたのは、まぎれもない竹姫であったのである。それに、廊下でかいだ魂がぬけてしまうような何ともいえぬ香りが乗丹坊をつつんだのである。乗丹坊は一瞬めまいを感じた。
「乗丹坊さま、先ほどは失礼しました。乗丹坊さまとは知らず、私としたことが、お恥ずかしい」鈴がなるような美しい声に、乗丹坊の心はますます宙を漂うのである。
 その夜の宴は、乗丹坊にとって夢の中にいるようで、禁酒の誓いもすっかり忘れてしまった。
「天国とは、このようなものであろう」夢の中に、竹姫の顔が浮かぶ。
「お目覚めでありますか。」下女が声をかけた。明け方である。
「わわっ、わしとしたことが、ついぞねむってしまったのか」
「はいはい、昨夜は大変ごきげんで、この部屋に入るなり、おおいびきで、それはそれは屋敷がゆれるようで。ほほほほ」と下女が笑っていった。
「しまった、金耀さまの事付けを話すいとまがなかった。なんとしたことか。」
 しょんぼりと朝げをすました乗丹坊は、再び長茂に謁見を願い出た。
「ほほほほっつ、乗丹坊どの昨夜は、だいぶご機嫌でおじゃったのう。」長茂は丸い顔をさらに丸くして、機嫌がよかった。
「あのー、金耀さまの事付けでありますが」
「よいよい、昨夜聞いたぞ。了解したと言うてくりゃれ。それに、目出度く、竹姫の輿入れを受けてくれて、乗丹坊どの竹姫を末永くよろしく頼み申します。ほほほほっ。」
「げっ、私が竹姫の輿入れを受けたとは、ほんとでござるか」
「なに、昨夜のことは、うそと申すか。その分には捨て置かぬぞ」長茂の側の侍が太刀をひねりあげる。
「いや、乗丹坊は嘘は申さぬ。ただ覚えておらぬ。」
「たしかに、貴公は約束申した。よもや忘れはしまい。」長茂の側の侍が再び太刀をひねりあげる。
 乗丹坊は、ほとほと困ってしまった。本当に昨夜のことは、何も覚えていないのである。酒に強く今まで記憶がなくなるまで酔いつぶれてしまうことなど一度もなかったのである。
 しかし、昨夜の、あの甘美な気分は何であったのか、乗丹坊の頭の中は不思議な呪縛にとりつかれたようにしびれてしまっていた。
「えい、わかった、約束したのならそれでよいわ。して、子細はどのようなことを決めたのでござりまするか」乗丹坊は頭をぼりぼりかいていった。
「ほほほっ、貴公が約束したのはな、会津四郡の兵を我らが軍勢に加担させること、竹姫をすぐ嫁にしたいということだ。いや、すぐといったのは貴公でおじゃるぞ、ほほほっ」長茂は、にやりと笑いながらいった。
会津恵隆寺の滅亡
「乗丹坊さま、少しゆっくりと歩いてくだされ。とてもついて行けませぬ。」小者が悲鳴をあげる。乗丹坊の足はなぜか速い、いや歩くというより宙を飛ぶようであった。城氏の館のあの甘美な呪縛がまだ体から抜けないのある。
「えい、やっかいな奴め、背負っている荷物をかせい、わしが背負う」
「いや、私の役目ですので・・・はあ、はあー」息があがって、よろよろしている小者の荷物をひったくるように担いだ。それでも、その速さは変わらない。
「いったい、乗丹坊さまは、どうなっちまったんだろう」ぶつぶつ言いながら、小者も必死についてゆくのあった。帰りは行きの半分にも満たない日程で慧日寺についてしまった。
「金耀さま、ただいま帰りました」旅支度のまま乗丹坊は金耀にあい城茂長の書状を渡した。金耀は書状をじっくりと読んでから、それを丸めると側の袖机に入れてしまい、しばらく宙をにらんでいた。
「戦になるか」ぽつりと金耀といった。
「はあー」
「いや、これも、み仏のお指図じゃよ。それに、竹姫を嫁ごにすることを、直ぐ決めてきたとは以外じゃのう、乗丹坊」乗丹坊は、ぼりぼりと頭をかいて、大きな体を小さくした。
 しばらくしてから、城氏の使者数人が慧日寺にきた。金耀は乗丹坊と会津4郡の主だったものをその夜、慧日寺本堂に集めていった。
「皆の衆、先に話した城氏への加担のことで、今日は、城氏の使者から具体的な話があるので、聞いて欲しい」
「さればでござる。あるじ城茂長が申すには、我らが竹姫を乗丹坊どのに輿入れさせることが決まり、こちらさま方とは、縁戚関係になり、めでたきことと申しております。さて、皆さまも源氏が挙兵したことを知っておりましょうが、木曾の義仲なるものが、われらが領地に侵入し、実り前の稲を刈り取るなど乱暴を繰り返し、小競り合いが耐えませぬ。あるじが申すには、こうなっては、平清盛様の要請もあるので、木曾義仲を征伐することにあいなりもうした。」ぎょろりと、城氏の使者は、会津4郡の重臣たちを見渡してから一呼吸おいていった。
「そこで、手始めに、身近の危険を取り除くことが寛容かと存ずる。まず恵隆寺を焼き討ちすることでござる。」房内ががやがやと騒然とする。
「恵隆寺は、同じ僧門である。それと戦えというのか。」「そうじゃそうじゃ、わしの身内も恵隆寺におるぞ」あちこちから怒号があがった。
「皆のもの静まれ、静まれよ」金耀が制する。突然、乗丹坊が立ち上がり、割れがねのような大声を出した。
「皆の衆、今まで会津4郡が平成であったことは、我らが力だけではない。京の清盛さまの力があったからこそ、平成であったのだ。それを、また戦乱の世にする源氏はゆるせぬ。また、恵隆寺は徳一大師さまのおかげで、ああなったのにその恩も忘れて我らが慧日寺にことごとく敵対している、さらに隙あらばこの慧日寺を襲う気配がある。忍ぶべきことは忍んだ、もはや戦は避けられぬ。」
「ちぇっ、城氏の嫁ごにたぶらかされて」どこからか、ぼそっと聞こえた。
「なに、文句があるなら、この乗丹坊がお相手いたす。出られい」
 冶承5年、刈入れが終ると、慧日寺と城氏の連合軍は、恵隆寺を攻めたのである。
 暁の闇を破って、突如、乗丹坊の軍勢が正面に攻撃を仕掛けた。わーという閧の声に恵隆寺の物見が驚いて櫓の上から見下ろした。いつの間にか慧日寺の僧兵が忍び寄り山門を壊しにかかっていた。山の彼方にも、おびただしい松明と城氏の旗印が見える。
「すわ、慧日寺の夜討ちだ」夢を破られた恵隆寺僧兵が、狼狽しながら武器を手に塁壁に駆け付ける。
「それ、大手門をぶち破れ」乗丹坊が叫ぶと、乗丹坊の軍勢が大きな丸太を抱え、大手門である堅牢な山門に打ち付ける。
「矢を、矢を、射掛けるのだ。」恵隆寺の僧兵が叫ぶと、乗丹坊の軍勢に雨あられのように矢が射込まれた。
「うわー、ぎゃー、」乗丹坊の僧兵がばたばたと倒れる。「引くな、引くな、急いで盾をもってくるのだ」盾で頭上を覆い再び山門に突入する。しかし、予ねて山門の上に用意していた大石を、乗丹坊勢を十分ひきつけたうえ、投げ下ろしたのである。
「ぐえー、うーん」盾を割って大石が乗丹坊勢を痛めつけた。
「ひるむな、ひるむなー」乗丹坊が大声をあげるが突き進むことが出来ない。ことの成り行きを見ていた城方の軍勢が搦め手から攻撃を開始する。
「搦め手にも、敵が回ったぞ」恵隆寺の僧兵の叫び声に、本堂に避難していた僧たちを恐怖に陥れた。恵隆寺勢は大手門と搦め手に分かれ防戦につとめる。さすがよく訓練されたとみえ、城方の攻撃にも持ちこたえる。
 そのとき楼門から二人の僧兵が飛び降り、搦め手門に走り内側から門の閂をはずしにかかった。かねて、乗丹坊が寝返りを図っていた恵隆寺の僧兵である。
「ややっ、裏切り者だ。殺せ殺せ。」ばらばらと恵隆寺の僧兵が駆け寄り斬り付ける。一人が倒されたが、残りの一人がとうとう閂をはずしてしまった。
「わー」と開かれた搦め手門から城勢が雪崩のごとく押し入ってくる。その時、大手門の山門も慧日寺の僧兵に打ち破られ慧日寺勢がなだれ込み、本堂、金堂などに火をかけ始めた。
「逃げる奴は、追うな、斬るな、そのまま捨ておけ」乗丹坊が叫ぶ。
「ああ、金堂が燃える。本堂にも火がまわったぞ、ご本尊を運び出せ」恵隆寺の僧が叫びながら本尊の千手観音菩薩を運び出そうとするが、なにせ御身丈2丈8尺(8.5メートル)根がついたまま徳一大師が彫ったものだから微動だにしない。
「ああ、ご本尊様が燃える」僧達の悲鳴がおこる。
「よし、わしが運び出してくれるは」と乗丹坊が千手観音菩薩に組み付く。満身の力をこめて揺さぶるがびくともしない。
「南無千手観世音菩薩、われに力を与え給え」乗丹坊は、何度も何度も念じた。突然、ぐらりと、千手観音菩薩が自ら歩きはじめたのである。乗丹坊はぶらぶらと千手観音菩薩の腰にぶら下がっている。
「わー、南無千手観世音菩薩、南無千手観世音菩薩」僧達の口々から歓喜の祈りがおこる。そして徳一大師が一刀三礼の誠をこめて刻み上げた、千手観世音菩薩と天の28部衆、風神雷神は無事に助け出されたのである。
 やがて僧利仁が再興したさしもの大伽藍も、ごうごうと音をたて燃え盛り、紅蓮の炎は会津盆地からも見えた。
「おーい、みんな見れ、恵隆寺が燃えている。」百姓が騒ぎ立てる。
「うーむ、これで会津も戦に明け暮れるじゃろ。よく見ておくのだ阿佐利」一族の長らしき武士が側の女の子に話しかけた。この阿佐利が後に天海僧正を生むことになる。
 その後、恵隆寺はこの敗北で衰退し、山からおりて、会津コロリ3観音の一つとして現在の会津塔寺「立木観音」として親しまれている。この立木観音は、大同2年(806)徳一大師が霊夢の中で、「高山寺(恵隆寺の前名)の利仁を救うべし」という観世音菩薩のお告げをうけ、高山寺にゆくと境内の一本の柳の大木に五色の雲がたなびき、そこに千手観音菩薩の一大立像を見たことにより、根のあるまま御身丈2丈2尺(8,5メートル)の一大千手観音菩薩を刻みあげ、さらに枝木をもって天の28部衆と風神、雷神、他の諸像を刻んだとされている。
乗丹坊討ち死に
 その頃、源頼朝が鎌倉に入り、富士川の戦いで平家の軍勢を散々に負かし、鎌倉に侍所を設置するなど、幕府の基礎を着々と築きつつあった。鎌倉の急ごしらえの侍所に、頼朝の命により別当の和田義盛を筆頭に坂東の国人衆が集められた。
「さて、皆の衆には、源氏の挙兵依頼、数々の御温厚に感謝するしだいである。石橋山の合戦では、危うく討ち死にするところを、三浦の軍船に助けられ、また千葉胤常の加勢により数々の国人衆をまとめ上げることができ、ありがたいことである。」
「三浦の軍船内でわが身をいたわってくれた、荒井新兵衛、さらに、千葉胤常の地で養生の世話をよくしてくれた、佐瀬一族に厚く礼を申す」
「この度、集まってもらったのは、平家が都を福原より遷都し、さらには、平重衡が我らに味方する東大寺と興福寺を焼き討ちした。したがって、平家打倒のための軍勢を整えたい」頼朝は主だった武将に軍評定を命じた。
 文治元年(1185)に平家が滅亡し、さらに文治5年(1189)に奥州藤原氏が討たれると、三浦氏は会津を拝領し会津芦名氏の祖となる。荒井新兵衛は、三浦氏の家臣として会津に入植し地頭となる。千葉胤常の一族佐瀬氏も、芦名氏の譜代となり会津に入植し会津芦名氏の四天宿老として侍大将の地位を築いてゆくことになる。

 恵隆寺を攻め滅ぼした会津慧日寺の乗丹坊と越後の平家城氏は着々と木曾義仲を征伐する準備に明け暮れた。
 寿永元年(1182)城氏は越後の兵と乗丹坊率いる会津4郡の兵、出羽の兵、計4万の軍団を小川庄赤谷の居城に集め、城助長を総大将として戦備をととのえていた。しかし、その最中に助長が急死してしまったのである。この不運は先の運命を暗示しているかのようであった。
 弟の城資茂は(すけもち)は気を取り直すと、再び戦備をととのえ、越後、出羽、会津4郡の兵、3万余を率いて、木曾義仲討伐のため信州信濃に向かった。もちろん乗丹坊に率いられた会津慧日寺の僧兵3000も従っていた。
 資茂の率いる越後、出羽、会津4郡の兵3万余は、武田信玄と上杉謙信の川中島の戦いで有名な信州善光寺平に、まず布陣した。
 城資茂は各部隊の長を自分の天幕に集めた。「皆のもの長い旅路ご苦労であった、明日は義仲と決戦でおじゃる。まず、一部の部隊を迂回させるとともに、主力をもって善光寺平の南の入り口である横田河原に布陣し、ここで義仲勢を迎え撃つことにする。」さらに続けようとしたとき。
「資茂さま、軍団は長旅で疲れております。時を稼ぎ、軍団を少し休ましてはいかがでしょうか」乗丹坊がいった。
「乗丹坊臆したか。義仲などひとひねりにしてくれる。明日決戦じゃ」
「津波田宗親(つはだむねちか)、そちに1000の部隊をあずけるので、山越えに上田に向い左側から攻めるのじゃ。さらに、浜田小平太、橋本太郎に同じく1000の部隊をあずけるので、深志(松本)方面から右側に攻め立てることにする。」城資茂は、稚小姓に酒を注がせながら、香を炊き込めた天幕の中で不機嫌に言った。
「戦場で優雅なものよ、ふー」乗丹坊は天幕の外に出ると一息ついた。あちこちで、流れ遊女と戯れる兵士の声や、鎧を脱いで木に吊り下げ、あちこちで酒盛りが行われている。
「やれやれ、これを襲われた、ひとたまりもないわい」乗丹坊は嘆いた。
 城軍が横田河原に布陣したのは、一説によると6月13日といわれている。一方、義仲はどうしていたかというと、上田近くの依田城で城軍の進出を知った。彼はすぐに出陣を命じ、川中島に向かい対岸の白鳥河原に布陣するというすばやい動きを示した。それに引き換え城軍の動きは鈍重で、野営はまるで宴会のような布陣だが、当時の戦は、名乗りをあげた一騎打ちや、戦の始めとして鏑矢で合図するなど、比較的のんびりしたものであり夜間の奇襲などありえなかった。
 翌14日、木曾義仲勢の100騎が午前8時の朝もやをついて千曲川を渡り、城軍に奇襲をかけてきた。
「わあー、なんじゃ。義仲が攻めてきたー」兵たちは慌てふためき、鎧を着たり、裸のまま太刀を捜すなど混乱になった。しかし、城軍は大軍で防戦したことと、慧日寺の僧兵が武装をして警戒していたため、ようやく義仲勢を千曲川の向こうに追い返すことができた。
「思ったとおりじゃわい。資茂さまは、すこし大様すぎる。木曾の山猿に公達の戦(いくさ)作法など通じぬは。」乗丹坊はため息をついた。乗丹坊は慧日寺の僧兵には、鎧を脱ぐことを禁止し、さらに太刀も腰からはずすことを禁止していた。
「誰か笠原頼直を呼べ」城資茂は興奮さめやらず、きんきん声で叫んだ。
「笠原頼直そちの軍勢をもって木曾勢に突撃して、我らが城軍の汚名をはらすのじゃ。」
 笠原頼直は、名乗りをあげて85騎の精鋭をもって木曾勢に討ってでた。当時の戦いは名乗りをあげて一騎打ちをするのがたてまえであった。
 迎え討つは上野の高山党で、両軍見守るなかで双方死闘を繰り返した。笠原勢はさすが選ばれた歴戦の勇士であったので強く優勢裡にたち高山党を押し返した。
 これに怒った上野の西広助が50騎をもって城方に討って出てきた。城方も信濃の富部家俊(とんべいえとし)がわずか13騎でもって迎え撃ったのである。
 この戦闘は激しく双方とも引こうとしない。最後は両将の組討となって広助は家俊を討ち取ったが、広助も富部勢に討たれ、結局両勢壊滅状態で互いに兵を引くことになってしまった。
 その夜、木曾義仲は、白鳥河原の陣地に主だった武将を集めた。
「えい、こんなことを続ければ味方は少数であるので敗れることになる。城方の弱点である長旅の疲れに乗じて夜襲をかけることにする」
 義仲はすぐに信濃源氏の星名党の井上光盛に策をさずけ、妻女山を越えて城方の後方に迂回させた。
「よいか、覚られるでないぞ。これ、そこのもの、白旗が見えるでないか。隠せや」井上光盛が小声で叫ぶ。井上勢は白旗を敵方の赤旗で覆い、千曲川を渡り城方の本営に馬もなだめながら静静と進んでいった。
 城方は、さきの小競り合いで今日の戦闘は一段落したとばかり休んでいたのである。
「赤旗を掲げた一隊がこちらに向かって進んできます。」物見が城資茂に注進する。
「おお、それはきっと味方の上田隊が合流してきたのじゃ。使者を出して案内いたせ」城資茂は使者までだして井上勢を案内してしまった。
「上田殿の隊でござるか。城資茂さまの命により案内つかまつる」
「うっ、・・あ、ありがたい。道が分からず迷っていたところでござる。かたじけない。」井上光盛は丁重に頭を下げた。
 井上光盛は城軍の本営に近づくと、いきなり赤旗をすて白旗をかかげて大音声をあげて城勢に斬り込んだのである。この様子を対岸から見ていた義仲も一斉に渡河して城軍めがけて突撃してきた。
 出陣以来の疲労と休息態勢の城軍は、不意討ちに対応する暇もなく一瞬にして混乱状態に陥った。
「やはり来おったか。それ、会津の衆、目にもの見せようぞ。」乗丹坊が叫び、武装を解いていない僧兵たちが迎え撃ってでた。しかし、不意を突かれた城方は、鎧を着けていないものが多く、次々と討ち取られてしまった。
 夜襲をかけてきた武将が乗丹坊の目にとまった。
「我は、会津慧日寺の乗丹坊なり。推参、推参」
「おお、我は、星名の井上光盛なり。お相手いたす。ござれ」
 双方とも、太刀をかざし馬をめぐらし駆け抜けながら、斬り合うこと数合したとき、井上光盛の太刀が中央からポッキリと折れてしまった。
 それを見た乗丹坊も太刀を捨て、手を広げて言った。[いざ、組まん]「おうー」
 互いに組討になったが、力が拮抗しているため双方とも組んだまま揉み合う形になった。ようやく乗丹坊が井上光盛を組み伏せ、首をかこうとしたとき、後ろからいきなり背中を刺された。
「後ろからとは、卑怯なり」乗丹坊がうめきながら立ち上がったとき、どこからともなく飛んできた矢が首に「ぐさり」と刺さったのある。乗丹坊は、仁王立ちのまま矢を抜こうとしたが、そのままぐらりと倒れていった。
 もうろうとする乗丹坊の目の前に、竹姫と一人の童子が遊んでいる姿が見える。
 「父上、父上!どうなされた。そのような、悲しそうな顔をなされて。」童子はにこにこしながら、乗丹坊に抱きついてきた。
「ああー、御仏に委ねます」乗丹坊の息が止まった。その顔は、戦場にありながら安らかな微笑をたたえていた。
 平家物語には、9月2日に城資茂が4万の大軍を率いて、義仲追討のため信濃に向かったところ、信州横田河原(長野県篠の井)で義仲の3千騎に奇襲を受け、散々に打ち破られたと気述している。
 玉葉には、6月13日に越後の城助職(資茂のこと)は信濃の国を追討しようと行き向かった。しかし、旅軍で疲れたうえに不意打ちに合い、城軍散々に敗れ、わずか300の兵を率いて本国に逃げ帰った。と記述している。
 平家に味方した慧日寺は次第に衰退し、おまけに応永の大火で焼け、さらに天正17年(1589)伊達正宗の会津侵攻にあい、さしもの壮大な堂塔伽藍も灰塵に帰し寺領まで失ってしまうのである。

3巻、板額(はんがく)
 藤原征討と会津
 治承4年(1180)源頼朝が挙兵したときの最初の戦いは散々で、8月23日石橋山の合戦で敗れて安房国に逃れるしまつであった。このとき平家側の畠山重忠、河越重頼、江戸重長等が三浦氏の衣笠城を攻めた。
 関東相模国三浦半島の中央衣笠城に本拠をもつ三浦一党の三浦大介義明と後に会津守護になる末子の佐原義連(よしつら)は、頼朝挙兵の際、父義明、兄義澄とともに参加したのである。佐原義連は身の丈7尺5寸で弓矢の達人であったといわれる。
 三浦義澄と佐原義連は、衣笠城の東木戸口大手を守ったが必死の防戦も空しく支えきれなくなったので、城を捨てて退去することになった。
 しかし、老父の三浦義明は「自分は源氏の家人になり幸いにも貴種再興の機会に遭遇、これほどうれしいことはない。自分は既に80有余才で余命は幾らもない。老いの生命を頼朝殿のために捨ててそれを子孫の軍功にしたい。」と衣笠城に残って討ち死にしてしまった。
 翌年(養和元年)、平清盛が没したが頼朝の政権はまだ完成していなく、まだ流人の謀叛という認識であった。このため、頼朝の寝所身辺の警護に弓矢の達人が選ばれ、その中に佐原義連と後の会津芦名四天宿老の祖になる千葉胤正がいた。この年の8月に政子が頼家を生む。
 寿永元年(1182)源頼朝は三浦氏、佐原氏、千葉氏などの武将16名を従え江ノ島に渡り武運を祈願するとともに武将たちにいった。
「今、源氏は挙兵したがいまだ命運定まらず、皆の者の力と命を我に授けたまえ」
「おー」並居る武将から鬨の声が上がった。
 この年、6月、信州信濃の横田河原合戦で木曾義仲に敗れた越後の城氏は、300騎たらずで会津慧日寺の竹姫のところに逃れてきた。しかし、婚姻関係であるのに平泉の藤原秀衡(ひでひら)が追討の兵を会津に差し向けたので一時佐渡に逃れなければならなかった。
 元暦元年(1184)頼朝が征夷大将軍になると入京し勝手な振る舞いをした木曾義仲を成敗してしまう。そして一の谷の合戦が始まると佐原義連と盛連は、搦め手の大将源義経の配下となり鵯越えの奇襲に加わり、真っ先に崖を駆け下り軍功抜群であった。三浦半島は海岸からすぐ山になっているため、馬をもって崖を駆け下りることなど日常茶飯事のことであったのである。
 それから間もなく壇ノ浦の合戦で源氏が勝利したため源頼朝の政権が確立していったが、頼朝は義経を胡乱じ不和の仲となる。
 文治5年(1189)源義経が頼ったにもかかわらず藤原泰衡が源義経と弁慶を殺害してしまう。
 7月、源頼朝は源義経をかくまったことを口実に岩手県の平泉の藤原泰衡を征伐することにした。征討軍は三手で東海道を千葉常胤の一族と常陸・下総の兵が進み、北陸道は比企能員(ひきよしかず)が上野国の兵を率い、中道(奥州街道)は頼朝の本隊が進んだ。頼朝の本隊には、三浦一族や芦名の祖である佐原義連が加わっていた。さらに頼朝の配下に木曾義仲に大敗した越後の城一族が加わっていた。
配下ににてかidou上げた領地を与え、これを荘園や公領の地頭に任 城長茂は、木曾義仲が京に上ったとき、越後にもどり平家回復の期を待っていたが、平家本家が壇ノ浦に没し滅び、まもなくも鎌倉幕府に捕らわれ梶原景時のあずかり人になっていたのである。
 その頃、会津慧日寺は、平家の味方をしたため衰退の一途をたどり、乗丹坊の一族も富田の継嗣の吉祥丸(のちの漏祐)をもって下野し会津国人領主となりつつあった。後に富田氏は会津戦国大名芦名氏の四天宿老の一人となるのであるが、会津にはその他松本氏などの会津国人領主や地侍の集団が勢力を誇示していた。
 さて、源頼朝は鎌倉幕府を樹立すると、ついに源義経追討を命じたのである。
 頼朝は、評定所に主だった坂東の武者衆を集めた。
「三浦党の佐原義連はおるか」ぎょろりと坂東の国人衆を見回し頼朝はいった。
「ははー、ここにおりまする」
「おお、佐原義連には、石橋山の合戦で大敗したとき、そちの軍船に助けられ、さらに荒井新兵衛なるものに甚く世話になった。礼を申す。」
「また、上陸した千葉佐瀬郷の千葉一族にも助けられた。党首の千葉常胤に礼を申す」
 千葉胤常とその主従は、全身に緊張をみなぎらせ、平伏した。
「さて、この鎌倉幕府を磐石にするにあたり、我に敵対する義経とそれを擁護する藤原泰衡を成敗せねばならぬ」
 ざわめきが場内にあふれた。
 頼朝は、奥州征討の計画に大庭景能の発言を受け、無双の勇士である城長茂を奥州征伐に参加させることにした。
 7月17日、軍勢を3軍に分け、東海道を千葉常胤と八田知家の軍、北陸道を比企能員と宇佐美実政の軍、中路を三浦党を主とした頼朝の率いる本軍とした総勢28万4000騎である。
 三浦党の佐原十郎義連(よしつら)は、後に平泉の征伐の功により会津を拝領し戦国大名の芦名氏の祖となるのである。さらに、千葉常胤の軍勢に一族の佐瀬種常の軍が参加しているが、後に会津戦国大名芦名氏の四天宿老の一人佐瀬氏となるのである。
 頼朝の軍が白河の関に近づいたとき、城氏の旗のもとに沢山の城氏の家来どもが馳せ参じてきた。
「我は、城長茂様に仕えて既に30年を経る。地獄までお供するのが我が意なり」と叫んでぞくぞくと集まってきた。その中に、会津慧日寺の乗丹坊の一族と会津四郡の兵士も混ざっていた。
 一方、平泉の藤原泰衡は阿津賀志山(福島県伊達軍の厚樫山)に城壁を築き、阿津賀志山と国見の宿(阿津賀志山の南)の中間に五丈四方の堀を作り阿武隈川の流れを注入し柵をつくった。
 ここの防衛軍の大将は、異母兄の西木戸国衡、副将が金剛別当秀綱とその子須房太郎秀方で2万騎の軍兵を擁し、30里四方に兵が充満していた。さらに、苅田郡(宮城県南部、福島県伊達郡近く)に城郭を構え、名取と広瀬川に大縄をひいて柵をつくり、国分原鞭盾(仙台市榴ヶ岡)に本陣をおいたのである。
 陸奥の南部は城氏と会津の兵が頼朝に参加したので放棄することにしたのだが、とりあえず出羽方面に田河太郎と秋田三郎を派遣し防衛にあたらせた。
 8月7日、頼朝は、まず阿津賀志山の柵の攻撃にかかることにした。午前6時畠山重忠を先陣とし、矢を射かけ戦端が開かれたが、4時間も攻撃しても勝敗がつかない。頼朝は、城長茂を呼び攻撃を命令した。
「そこもとの兵と会津の兵は強いというが見せてもらおう」
「かしこまってそうろう」
 長茂と会津の軍の勢いは凄まじく、七度八度と突撃を繰り返し激しく攻め立てたが、国衡の軍も必死に耐えていた。
 それを見た長茂は、「我に続け」と叫び単身で敵陣に斬り込んでいった。
 長茂の郎党も「主人が死のお供をするなら、なんで我らが生きていられようか気持ちは主人と変わらない」といって長茂に従って敵陣に切り込み、主従共々壮烈な攻撃をしかけた。
 さらに会津の兵が、国見から西南の藤田宿を経て北上し鳥取越から東にまわり、国衡の軍の背後から攻撃をしかけたから国衡軍は大混乱をきたしとうとう敗走した。国衡は宮城と山形県境の大関山を越え出羽の国に逃れようとしたが、(芝田郡大高宮)宮城県の柴田郡大河原町で会津の兵に討ち取られてしまうのである。
 11日、頼朝は船迫宿(宮城県柴田町)で国衡の首実検を行うのだが、国衡を討ったは自分だと、その功をめぐり和田義盛と畠山重忠が争い始めたのである。国衡を討った会津の兵は、それを黙ってみていたが、頼朝はいずれの功とも裁定しなかった。
 12日、頼朝は、多賀国府に到着し、同日千葉常胤の軍も合流する。
 20日、頼朝は玉造の多加波々城に攻撃を仕掛けたが、そこには、藤原泰衡の姿はなかった。泰衡は一目散に逃走していたのである。平泉に止まることなくひたすら北を目指して逃げたのである。
 泰衡は、平泉を通過する際に、従者に命令し火をかけて逃げ去ったため、清衡、基衡、秀衡の三代当主が心血を注いだ黄金の都市はことごとく焼失し、わずか金色堂のみが焼け残ったのである。
 26日、泰衡から頼朝へ降伏の書状が送られてきたが、それを受け付けなかった。
 9月2日、泰衡は、藤原氏数代の郎党であった、肥内郡(秋田県鹿角郡)の河田次郎を頼っていったが、裏切られ討ち取られてしまう。
 6日、河田次郎は意気揚揚と、泰衡の首をもって頼朝の前にでて恩賞をねがった。しかし、頼朝は甘くなかった。
「汝のやったことは、累代の主人の恩を忘れたことで、その罪は八虐に値する。功などとんでもない」と即座に首をはねてしまった。
 泰衡の首は、前9年の役のとき、安倍貞任を梟首したときの例にならい、眉間に八寸の釘が打ち込まれた。
 全国を平定した頼朝は、平泉の戦功のあった三浦一党の佐原十郎義連(よしつら)に会津を与え、相模の豪族、山内通基(みちとも)には、会津郡伊北郷(南会津郡只見)を与え、下野国(栃木県)の小山氏の一族長沼宗政には、南会津一帯の長江庄を与え、さらに長沼一族の河原田氏にも伊南郷を与えたのである。

日本のジャンヌダルク板額
 鎌倉に凱旋した頼朝は、全国の平定にともなって、戦功のあった御家人たちに取り上げた領地を与え、これを荘園や公領の地頭に任命した。
 三浦一党の佐原十郎義連(よしつら)は会津の地を拝領し会津芦名の基礎を作る。
 相模の豪族、山内通基(みちとも)は会津郡伊北郷(いほうごう)(南会津郡只見)とその他の地を拝領し、里中丸城に居を構えた。山内一族は、ここを中心に会津郡や大沼郡の一部に広がってゆくのである。
 下野国(栃木県)の小山氏の一族長沼宗政は、長江庄を拝領し田島奈良原(下郷町楢原)など南会津郡一帯に勢力をふるうことになる。長沼一族の河原田氏も伊南郷を拝領した。
 木曾義仲に敗れ頼朝の藤原征討に加わった越後守護の城長茂は、梶原景時の庇護を受けていた。
 建久6年(1195)頼朝が東大寺再建供養のため入京したとき頼朝の家来と東大寺の僧侶が喧嘩をしてしまう。そのとき梶原景時が仲裁するが傲慢であったのでかえって大騒動になりかけてとき結城朝光(ゆうきともみつ)がうまくまとめてしまう。こんなわけで梶原は結城に対し反感をもってしまう。
 しばらくして突然破局がおとずれた。頼朝が落馬がもとで死んでしまい、まだ基礎が固まっていない鎌倉幕府内で有力御家人の反目と勢力争いが始まるのである。
 梶原景時は2代将軍頼家に結城朝光が謀反の疑いがあると報告したことが、かえって有力御家人66人の連署をもって弾劾されてしまう。梶原景時は鎌倉を追放され所領の相模一の宮に退くが身の危険を感じたため西国の兵を集めようと一族を連れて京に急ぐことにした。
 駿河国清見関にさしかかたとき地元の武士の一団とすれ違い、あっという間に合戦になってしまい景時は討ち死にしてしまうのである。
 梶原景時の庇護を受けていた城長茂は、この訃報を耳にすると京で乱を起こし上皇御所に押しかけ、後鳥羽上皇に関東追討の院宣を乞いましたが、結局は吉野の山中で捕まり京都で梟首されてしまう。
 この知らせが越後に届くと、城一族は、長茂の甥の小太郎資盛を総大将にして反乱をおこしたのである。
 その小太郎資盛の叔母が「日本のジャンヌダルク」といわれる板額(はんがく)で、会津慧日寺の僧兵頭乗丹坊(富田氏)に嫁した竹姫の姉である。
 吾妻鏡に「女の身たりといえども、(弓が)百発百中の芸ありて、ほとんど父母を越える。人みな奇特という。」とあります。即ち、強弓を引き百発百中の腕前で、これまた美人ときては、男が放っておくわけがない。
 応ずるものが多く、会津からも乗丹坊(富田氏)の一族が参加してかなりの勢いになり、鳥坂というところに本城を構築し抵抗することになった。
「それ、この地は要害の地であるので、周辺の木を一本残らず切り倒し見通しをよくするのじゃ」
「切り倒した木で川をせき止め水を満たし、さらに岩山を切り崩し道を塞ぐのじゃ」
 板額は一族を指揮して守備を固め幕府軍を待ち受けた。
 鎌倉幕府は、越後と佐渡の軍勢を差し向けたが、柵にとりつくと上から熱湯を浴びせられ、矢が雨のように降り注いだ。
「うわー、たまらぬ。」越後と佐渡の軍勢は、農民が多く当初からやる気はない軍勢であったので、攻撃されるとすぐに退却してしまう。さらに板額の弓は冴えを見せ、大鏃の矢をつがえ幕府の将兵を狙い撃ちにしていったので板額の弓の前に手も足も出なく攻めあぐねてしまった。
「えい、腰抜けどもめ」鎌倉から差し向けられた、軍師が苦りきった。
 幕府軍は、どうしても抜くことができず損害を重ねるのみであった。正攻法では攻めきれないとみると、付近の民家を手当たり次第に打ち壊しこれに火をかけたりしたが効果がなかった。
 そこで幕府の軍師は、上野国磯辺郷の佐々木三郎兵衛盛綱に命を下した。
「越後と佐渡の軍勢は軟弱であるので、そこもとの兵をもって切り崩してくれ」
 戦いは、午の刻(正午)にはじまり、酉の刻(午後6時)に及んだ。両軍入り乱れて戦い、兵士の怒号が絶え間なく響き渡り、剣戟の音が耳をつんざいた。
 しかし、板額は髪を童形にしてくりあげ、鎧の腹巻を着て楼にのぼり、寄せ手をひきつけ弓を射ったのである。このため、佐々木の郎党が多数死んでしまった。
 幕府の軍師は、主だったものを陣屋に集めていった。
「どれもこれも、腑甲斐無い連中だ」
「我らは、連合軍は遠征軍であるから、常に兵糧の窮乏に悩まされている」
「そのため戦いは一挙に決するほうがいい。何が何でも明日には落さねばならぬ。方々そう心得よ」
 その夜、30名ほどの奇襲隊を編成し、川面にたれさがる枝を利用してひそかに川を渡り、城に忍び込み火を放ったのである。陣中に上がった火の手を見て正面と背面から幕府軍が総攻撃をかけてきた。
 板額も弓を捨て、長刀をもって敵将をばったばったとなぎ倒したが、信濃国の藤沢四郎清親が城の山上から板額めがけて放った矢が板額の足を貫き倒れるところを藤沢の郎党に捕らえてしまった。
「板額さまが捕らわれた。もはやこれまで」と、城一族は降伏してしまうのである。
 板額は矢傷がよくならないうちに鎌倉幕府に連れてこられ、将軍源頼家のまえに連れ出された。
 吾妻鏡には「少しも恐れる色がなく、こびへつらう態度がなかった」と書き留められている。
 板額御前の武勇の程を聞いて、甲斐源氏で武田一族の浅利与一義遠が頼家側近の女房にたのんで、甲斐の国に連れて帰った。これで、越後の豪族、平の朝臣城一族は、壊滅状態になってしまった。

 「4巻、戦国大名芦名氏」
会津統治
 全国を平定した頼朝は、戦功のあった御家人たちに取り上げた領地を与え、荘園や公領の地頭に任命した。
 まず平泉の戦功のあった三浦一党の佐原十郎義連(よしつら)は、会津の地頭頭になり、のち和泉、紀伊両国の守護に任ぜられる。また、相模の豪族、山内通基(みちとも)には、会津郡伊北郷(南会津郡只見)を与え、下野国(栃木県)の小山氏の一族長沼宗政には、南会津一帯の長江庄を与え、さらに長沼一族の河原田氏にも伊南郷を与えたのである。
 建久1年(1190)9月15日、源頼朝は上洛し後白河法皇に拝謁、権大納言に任ぜられ、随従した佐原義連は左衛門尉に任ぜられた。
 三浦半島芦名郷の佐原十郎義連の館に一族の主だったものが集められた。
「皆に集まってもらったのは、他でもない頼朝様から賜った会津のことである」長の義連がおもむろに口を開いた。
「実は、会津に入れた草(間者)が帰ってきた。それが申すには、会津では国人衆や地侍達がかなりの兵力を保持していて、その中でも慧日寺衆徒頭の富田氏や国人の松本氏などが勢力をはっているようだ」
「そこで、彼らと争う事は得策でないので、なるべく彼らの土地を買い受けていくことにする。皆は如何かな」
「なんと、それは情けがありすぎる。会津はわれが領地ぞ」盛連の二男広盛が声を荒げる。
「いや待て、父上には何か考えがあるのではないか」当主の盛連が静かにいう。
「うむ、そのとおりじゃ。私は頼朝様から会津を賜ったが、会津の国人衆や地侍達と事を構いたくない。さらに、頼朝様が鎌倉幕府を起こし侍所を設けたのを知っておろう。本家の三浦氏や千葉氏、その他坂東の武者達が要職を欲しがり不穏な気配もある。この地を抜けて会津に向うわけにはいかぬ。」
「だからといって、自分の土地を金で買うとは、この広盛には解せぬわ。」
「広盛、たしかに会津は我らが領地ぞ。しかし、会津を力で押さえつけても、地侍たちは心から我らが臣になるとはおもわない。また、力で抑えても後々、彼らの謀叛に悩まされること畢竟、ここは懐柔策でいくのがよいのじゃ」
「そこで、会津に代官を派遣して、しばらく様子を見よう」
 三浦一党の佐原十郎義連(よしつら)は、三浦半島の芦名郷(横須賀)から会津の地に代官をおき、国人領主の地侍集団の富田氏や松本氏と事を構えない柔軟な領国経営を行うことにした。
 その時分、相模の豪族山内通基(みちとも)も会津郡伊北郷に里中丸城を築き移り住んでいった。
 さらに小山氏の一族長沼宗政は、会津長江庄に居を構え田島奈良原(下郷町楢原)など南会津郡一帯の管理を始めたので一族の河原田氏も伊南郷の移り住んでいった。
 佐原十郎義連の系図は、桓武平氏で高望王、平広茂、三浦介義明が先祖で、佐原義連(三浦十郎左衛門尉義連)の嫡子・佐原遠江守盛連の時代に会津に代官を置き着々と自分の領地の地固めを行ったのである。
 佐原盛連はその後6人の子供をもうけ、それぞれに会津の領地を分割することになるのである。
 長男・経連には猪苗代、次男・広盛には北田、三男・盛義には藤倉、五男・盛時には加納、六男・時連には新宮、そして四男(後妻の長男)・光盛が15歳で家督を継ぐことになる。
 後に佐原光盛は、三浦半島の芦名郷から名を取り「芦名左京太夫光盛」と名前を変え、さらに初代の芦名氏として芦名遠江守四郎左衛門尉として会津本家を継いでゆくことになる。 
 建久3年(1192)源頼朝が正式に征夷大将軍になり、鎌倉幕府が成立した。
 会津では、松本氏やそれに扇動された地侍たちが、あちこちで佐原氏の一族と衝突を繰り返していた。それでも佐原義連は、一族が血気にはやるのを抑えて慎重にことを運んでいた。
 会津に暑い夏がおとずれたある日、会津耶麻郡にすむ信濃源氏出の松本氏の居城綱取城に会津の主だった国人領主と地侍の頭が集まっていた。もちろん会津慧日寺の乗丹坊の子孫で衆徒頭の富田漏祐も参加していた。
 富田氏は会津国人領主として会津盆地中央の会津郡下荒井村(北会津村)と耶麻郡塚原村(喜多方市)に館を築いてすんでおり、一族郎党も多くかなりの軍事力を保持していた。
「おのおの方、よくきてくれました。本日集まっていただいた訳は、書状に示した通り、佐原一族が勝手に我が領土を鎌倉幕府とやらから下げ渡されたとして専横よろしくない所業多く、我らとしても我慢の限界にきている。」ぎょろりと一同を見回し、松本勘解由宗輔(かげゆむねすけ)がいった。
「そこで、皆の衆に忌憚のない意見を伺いたい」
「ではまず松本宗輔殿には、如何なるご所存でおりますか、お話いただけましょうか」富田氏が口を開いた。
「さよう、この会津は、会津磐梯山が噴火以来、荒地を我らが先祖が汗を流し耕作し、これまでにしたものである。それを、なんじゃと、平泉の藤原氏を滅ぼした勲功で、この我らが会津の土地を勝手にくれてやるとは、承知できぬ。」
「また、近頃聞くところによると、金銀に目がくらみ、先祖伝来の土地を手放す地侍がおるという。なんと、嘆かわしい次第だ。我ら松本一族は、決してこの土地を手放さぬ。」
「金銀に目がくらんだと申すが、放置してある価値のない荒地を手放しただけで、松本氏に非難されるいわれはない。」地侍の一人が叫んだ。
「まあ、待て、重要な事は今後佐原氏に対してどう対応するかであろう。万一、我らに敵対する意向があると見られては、鎌倉幕府の軍勢が押し寄せるやも知れぬ」富田氏がいう。
「さらに、我らが会津に住む国人や地侍の方々が、一つの心で鎌倉幕府に当れるか、如何かな」
「鎌倉幕府の軍勢が幾ら押し寄せようと我ら松本一族で撃退してみせるわ。嫌な者はここから去るがよい」松本勘解由は不機嫌にいった。それからの談義は、堂堂巡りで何も図る事がなかった。
 下荒井の館に戻った富田漏祐のもとに一族が集まってきた。
「して談義はいかにまとまりましでしょうか」郎党頭の荒井太郎左衛門が口を開いた。
 荒井氏は、源頼朝の藤原征討に加わったもと坂東武者・二科太郎光盛の後裔で、大沼郡横田村に中丸城(本丸、二の丸、三の丸の無類の要害城)に住む富田氏の2女の娘婿である。
「松本氏には困ったものだ。あのように荒っていては、何もはかどらぬ」
「戦となるのでしょうか」まだ幼い富田範祐がいった。
「わしは戦を好まぬ。一族郎党の者の中には、いままで戦で親や兄弟を失ったものが多くいる。これからも戦はあろうが、極力争いは避けたい。」
「しかし、相手が攻めてきましたら戦いましょうか」
「攻めてきたら、この富田一族の力を、目にものみせてやるわい。」漏祐はにっこり笑っていった。
「皆の衆も、此方からは戦を仕掛けぬが、何時敵が攻めてくるかも知れぬので、武具などの手入れと兵糧の準備を怠り無くしておくように。」漏祐は皆に命じ帰宅させた。
会津統治2(源頼朝死去)
正治元年(1199)源頼朝が落馬がもとで死去してしまった。源頼家が家督を相続したが、北條時政は頼家の親裁を停止し13人の合議裁決制を定めてしまう。
 そして、梶原景時が敗死し、庇護を受けていた城長茂の乱と死、板額の乱と鎌倉幕府はいそがしい時を経るが、建仁2年(1202)源頼家が征夷大将軍になる。
 しかし、源頼家の実権は北条氏に握られていたため、頼家は病んでしまい、とうとう関東を子の一幡に、関西を弟の千幡(実朝)に分与してしまった。しかし、実権は実朝が握り始めたので、おさまらないのは、北条政子。一幡を生んだ源頼家の妻の実家比企能員(ひきよしかず)を味方に引き入れた。
 比企能員は武蔵の豪族で妻は源頼朝の乳母で、娘が源頼家の妻であった。比企能員は、娘が生んだ一幡を将軍後継にするため北条時政を討たんとするが失敗して一幡とともに殺されてしまい、源実朝が征夷大将軍になった。
 しかし、北条時政が政所別当(執権)となると、源頼家を伊豆修善寺に幽閉してしまい、結局、源頼家は翌年殺害されてしまうのである。
 元久1年(1204)、諸国で地頭たちが勝手な振る舞いをして年貢を納めないなどの乱行が続いた。この年に芦名光盛が佐原盛連の4男として生まれる。光盛ら3兄弟は執権北条時頼の父時氏とは異父兄弟にあたり、会津四郎左衛門尉、左京大夫と称していた。のちの建保6年(1218)に15歳で黒川の城主になり三浦半島の芦名郷から名をとり芦名氏遠江守を名乗ることになるのである。
 元久2年(1205)北条時政は、女婿平賀朝政の将軍擁立をするため源実朝の暗殺をはかるが失敗して引退してしまい、このため北条義時が執権になる。
 承元1年(1207)専修念仏が禁止され、法然が讃岐に親鸞が越後に流される「承元の法難」などが起こり仏教弾圧が行われた。
 1211(建暦1年)佐原盛連が鎌倉幕府の北条執権の醜い争いを嫌い、いままでの代官制をやめて正式に一族郎党を引連れて会津に下ってきた。盛連が会津に下ったその年の6月幕府は三浦義村の奉行職を停止、後任に義連の長男佐原景連を充ててしまった。のちに景連は会津坂下で近衛家の荘園であった蜷川荘を拝領し蜷川氏の初祖となり太郎と称することになる。
 しかし、先住の土豪が各地に館を構え新参の不在領主の佐原氏に従うものはなかったので領地の経営に苦心していた。
 佐原義連は、頼朝より会津を拝領する際その跡を追って鎌倉より随従してきた赤沼内膳という陰陽師を利用する事を考えついた。当時の陰陽師は、軍師であったり敵退散の調伏をおこなう呪術師的な性格をもっていた。
 佐原義連は、彼に護身の像を与え社殿・神田あまたを寄進し神職としたのである。
 そして、この赤沼内膳の占いと調伏はなかなかの効き目があるという噂を流し、佐原氏自身も参詣をしたので周辺の土民はもちろん地侍達の尊崇を集めるに至ったのである。村人達はそれを赤沼稲荷と称するようになった。このように佐原義連は赤沼明神の加護で土豪の蜂起を鎮め、6人の子に所領を分割することになるのである。
 佐原十郎左衛門尉義連は、会津の山岩尾邑にまず小田山城を築き住んでいた。その翌年には、子の猪苗代経連が猪苗代に亀カ城を築き、佐原太郎兵衛尉景連が蜷河荘を築き移り住んできた。
 しばらくして老いた佐原十郎左衛門尉義連は、小田山城を長男の盛連に譲り、幼孫三浦遠江守盛連の5男・加納五郎盛時の居城である加納庄三宮半在家に隠居していったのである。
 加納盛時は耶麻郡上三宮に青山城を築き住んでいたが、建久4年、佐原次郎広盛が河沼郡北田に塁を築いたことにより同属である盛時と広盛との間に溝ができはじめた。後に、これが発端として長い同属争いが始まるのである。
 この頃、佐原盛連は、父義連が築いた小田山城は山城であるため何かと不便なため、会津黒川(今の会津若松)の平地に城を普請することにした。それは湯川を外堀としたかなりの工事で長い歳月を費やすことになる。
 また信仰心厚い佐原氏一族は寺社の建立を同時に行い、構築中の会津黒川城の三の丸の西側に日汁上人を呼び如法寺ならびに薬師堂を創建し岩沢(喜多方)に熊野本宮の二王堂を建立することになる。
 これら神社仏閣の建立のおかげで以来会津は佐原氏に敵対するものが少なくなり平安な時が流れるようになり、信仰心に目覚めた会津の民は、慧日寺僧兵に焼討ちされた山上の恵隆寺の焼け残った本尊の千手観音菩薩を、山からおろし現在地(会津坂下)に移したのである。
 1212(建暦2年)芦名遠江守黒川城主の6男芦名六郎左衛門尉時連が新宮庄に城を築く新宮時連と名乗る。同年、新宮熊野神社長床が建てられる。新宮右兵衛尉助成の3男が小荒井に住み小荒井治郎兵衛広高を名乗る。
 佐原氏に随従して桓武平氏・千葉胤常の一族佐瀬氏の兄弟も、一族郎党を引連れ会津に移り住む事になった。兄は佐瀬河内守と名乗り、会津耶麻郡大寺(磐梯町)と小田付(喜多方)に館を築いた。弟は佐瀬大和守源兵衛(げんのひょうえ)と名乗り、会津面川(会津若松)に屋敷を構え一族を住まわせた。
 佐瀬源兵衛は武力にたけていたので、その後、芦名氏の侍大将となり芦名四天宿老になってゆくのであるが、芦名盛氏の時代には、会津黒川に広大な館を構え常に騎士200、歩卒1000余人を備え急事に備えとした。この地は、今でも会津若松に大和町という名で残されている。
 あるとき、佐瀬河内が黒川の南、天屋邑(会津若松大戸町雨屋)の薬師堂の前なる湯川の深淵で一日釣りをしていた。日暮れに及び急に悪寒がするので、ふと頭上を見ると、大蛇やがまさに河内を飲み込もうとしていた。
 河内守少しも騒がず長刀を閃かしこれに斬りつけたが大蛇は傷つき湯川の山中に逃げていってしまった。日を経てその付近から死鱗3枚がみつかり、さらにそれからも鱗や蛇骨が見つかったので、それらを朝廷や太守に奉じられた。
 この長刀は、それ以来「蛇切丸」と号し佐瀬家の家宝になった。天正17年(1589)の伊達正宗と芦名義広の磨上原の戦いで、佐瀬平八郎常雄(芦名四天宿老の富田氏からの養子)が合戦で使用し、三忠臣の一人となるほど戦った平八郎常雄が戦死後、菩提寺に納められた。
 その後、佐瀬一族の分流は、耶麻郡大寺(磐梯町)、耶麻郡小田付(喜多方)、会津郡面川(会津若松)、大沼郡西勝(会津高田)に舘を築き、芦名譜代の家臣となってゆくのである。
 1213(建保1年)和田義盛が敗死。北条時政が侍所別当を兼任することになったが2年後の1215(建保3年)北条時政が死去してしまう。建保4年(1216)になると奥州は幕府知行国となり、大江広元が陸奥守となり、建保6年には源実朝が内大臣、右大臣となる。
 佐原盛連の子の3兄弟は執権北条時頼の父時氏とは異父兄弟にあたり、特に4男光盛は会津四郎左衛門尉・左京大夫と称していた。その後建保6年(1218)に15歳で黒川の城主になり三浦半島の芦名郷から名をとり芦名氏遠江守を名乗るのことになる。
 1219(承久1年)佐原盛連が鎌倉に戻ったその年、公暁が源実朝を殺害、源氏の正統が断絶するが、すでに北條義時が執権になっていた。
 北條義時は、右大臣九条道家の子・九条頼経を鎌倉に迎え摂家将軍とし、北条政子が尼将軍として政所を開く事になった。この年に後鳥羽上皇が幕府に摂津の長江、倉橋両荘の地頭罷免を要求したため朝幕関係が緊迫した。
 1221(承久3年)仲恭天皇が即位し、九条道家が摂政となるが、後鳥羽上皇が北条義時追討の院宣を下す。いわゆる「承久の乱」が発生した。北条軍は京に攻め上り討伐軍を打ち破り、以後六波羅に駐在し六波羅探題を設立する。会津からは、佐原義連の4男・佐原遠江守盛連と兄景連の子・景義を承久の乱に参加させるが、この年の4月佐原義連が没してしまう。  
 結局、仲恭天皇が退位し、後堀河天皇が即位。後高倉上皇が院政をしいて近衛実家を摂政とし、後鳥羽上皇を隠岐に、順徳上皇を佐渡に、土御門上皇を土佐に配流することによって承久の乱は終結した。
 1222(貞応1年)3月、会津小田山城主平四郎左衛門尉佐原(芦名)光盛は弟盛時と共に耶麻郡にある古刹慧日寺に花見にでかけた。
「兄上、慧日寺には昔、乗丹坊という千人力の僧兵頭が居たという話がありますが、本当でありましょうや」
「本当だそうだ。彼は越後の城氏に加担し会津4郡の兵を引連れ信州横田が原で木曾義仲と合戦したという。城氏が油断をしたため城軍が惨敗したが、乗丹坊の率いた会津の兵は勇敢に戦い、乗丹坊も討ち死にしたという。ほれ、そこに乗丹坊の墓がある。」
 二人は、乗丹坊の墓に額ずき合掌した。ふと後ろに気配を察したので太刀に手を添え振り返ると、そこに人品いやしからぬ人物が立っていた。
「これは、どちらの方か分かりませぬが、わが先祖の墓に焼香していただき誠にありがとう御座います。」丁寧に彼は頭を下げた。
「我らは、小田山城主芦名光盛と弟の盛時でござる。見知り置き願いたい」
「これはこれは、守護の芦名様でしたか、私は、慧日寺衆徒頭の富田漏祐(のりすけ)で御座います。どうぞよろしく願います」
「おお、衆徒頭の富田漏祐どのか、いつか会いたいと思っていた。」
 富田漏祐は、二人を宿坊に案内し、一献を差し上げた。芦名光盛は、しきりに自分への仕官を勧めたが、漏祐は固辞し、代わりに11歳の一子千松を出仕させることを約束した。
 千松は、5月5日に出仕し光盛の側小姓として仕えることになった。しばらくして千松は元服をすることなり平田益範を烏帽子親に戴き範の一字をもらい範祐(のりすけ)を名乗る。
会津統治3(北条政子死去)
1225(嘉禄1年)北条政子が死去すると翌年九条頼経が征夷大将軍となる。そのころ専修念仏が禁止され「嘉禄の法難」事件が発生した。
 法然の大谷墓堂は破壊され弟子隆寛は陸奥国に配流され死亡してしまう。このため隆寛の弟子実成は会津に下り、耶麻郡三宮村に願成寺を建立するのである。そのころ道元が曹洞宗を広めていた。
 1231(寛喜3年)鎌倉幕府は、地頭の荘園侵略が激しくなり、地頭請け(地頭が年貢徴収件権をもっていたが、しだいに滞納横領を行い土地侵略をはじめた。そこで中央に住む荘園領主が妥協し、一定の年貢を領主に納入することを条件に土地の支配権をゆだねた)や下地中分(荘園の土地を領主と地頭が2分し互いに干渉しないことにした)が盛んになったため守護、地頭、領家との訴訟法を制定した。
 この年の6月、甲州武田次郎義詮と鎌倉北条武蔵守義時との甲州内和田合戦に会津の山内俊衡の長子・山内俊秀が北条方として参戦23歳で討ち死にしてしまう。
 鎌倉幕府の地頭に対する締め付けに不安をおぼえた会津猪苗代の三浦四郎左衛門盛秋が猪苗代堤崎村に柵を築くと続いて国森俊包が会津郡木賊村に柵を築き数年後に平林主馬盛重が耶麻郡平林村に柵を築き領地の防備を固くすることが会津の各地で行われた。
 1246(寛元4年)北条時頼が執権となると北条一族の名越光時が前将軍頼経を擁し時頼討伐をはかる事件が発生したが、これは失敗し頼経は京都に送還されるがこれをきっかけに北条一族の結束が揺らぎ始めるのである。
 そしてとうとう1247(宝冶1年)に「宝冶合戦」が発生するのである。
 4月4日高野山に登った秋田城介入道(安達景盛)が下山して鎌倉の甘縄邸に帰ってきた。
 景盛は連日執権の北条時頼を訪問していて、そして息子の義景と孫の泰盛に向って三浦一族は武威を誇って傍若無人であること、それに対し我が子孫は武備を怠り奇怪であると刺激的な言葉を吐いた。
 5月21日鶴が丘八幡宮の鳥居の前に「三浦泰村は一人勝ってな行動をして厳命に背いているから、近いうちに誅罰を加えるという沙汰があった」と札が立てられた。
 また執権北条時頼は三浦亭に様子を探りにでかけ、雲行きがおかしいと急いで三浦邸を退去するしまつで、とうとう28日三浦一族は確たる証拠も無いまま反逆の汚名を着せられることになる。
 さらに既に内密に指示があったので、近国の御家人は鎌倉に集まり始めていた。
 6月3日、三浦泰村の庭に讒言の張り紙がはられたので、泰村は北條時頼に反逆の意思がないことを伝えたが、泰村のところにも一族郎党が集まりつつあり、もはや衝突は避けれない状況になっていた。
 6月5日未明、北条時頼は三浦泰村に使者をだした。内容は「貴殿を誅罰する考えはない、今まで通り異心はない」というものであった。
 三浦は喜んで返書を送ったが、既に安達泰盛や大曽根泰等は出撃し筋替橋から鏑矢を射かけてきたので、三浦側が防戦するという形で合戦は始まってしまった。
 三浦一族がいくら防戦しても多勢に無勢のため源頼朝の影像がある法華堂に一族は終結した。一族276人、その所従を含め500人が自害してしまうのである。このため未明から始まった合戦は昼頃終結したのである。
 近国の御家人が続々と北條時頼邸に集まってきたとき、三浦氏の一族である佐原盛連の6人の子全てが時頼邸に参集していた。理由は、佐原光盛三兄弟から見れば、北条時頼の父時氏は母を同じくする兄である。したがって時頼は甥にあたる。先妻の子3人は三浦一族に走りたいところを3人の弟達に説得されたのである。
 結局のところ一族は敵味方に別れ戦う結果となり、芦名光盛は惣領の三浦泰村方につかず、北条時頼のもとにかけこんで滅亡をまぬがれ、滅亡した三浦氏の称号は宝治合戦の論功行賞として佐原氏の一族の加納盛時に許されることになったのである。
 佐原遠江守盛蓮の子で北田広盛は宝治合戦に破れるが、会津に下って河沼郡北田(湯川)に隠れ住む。
 この乱後、会津が北条氏得宗領となると、逆に三浦党が佐原秀連を捕らえる事件が発生し、佐原五郎左衛門尉が三浦介に任ぜられ京都大番勤仕を命じられるなどめまぐるしい政権交代が続くのである。
会津統治4
 1249(宝冶3年)佐原盛連は子の光盛に家督相続させ、翌年、芦名光盛と弟時連が馬を幕府に献上し、将軍頼嗣の鶴が丘御参に供奉したり将軍に弓馬を伝習して鎌倉幕府に忠節をつくしていた。
 このころ河原田氏が会津郡和泉田村に河原田城を築くと、建長4年に九条頼経らの幕府転覆計画が発覚し、宗尊親王が将軍となり、鷹司兼平が摂政となり五摂家の分立が確定する事件がおきた。
 このように鎌倉幕府も揺れ動いていたが、鎌倉高徳院の大仏が造立されるにいたり民衆の動揺がやっと抑えることができたのである。
 この年、会津では藤倉伯耆守が小川荘津川に狐戻城を築く。この狐戻城は以後会津の重要な拠点の一つになり、戦国時代に活躍することになるのである。以来、会津黒川(若松)に続々と寺が建立され、10年間で約23箇所にも及ぶのである。
 1253(建長5年)日蓮が鎌倉に入り法華宗(日蓮宗)を開く。また建長寺が建立されるが会津に大地震が発生し大半の豪族の館が全半壊したのである。
 この年、大沼郡長岡(高田館ノ内)の国人・長岡景明は、赤館の主紅葉元佐の1女薄墨姫を迎えることになった。こんな折に、景明の二子、景丸と桜丸が相続を争う事件が発生した。
 「近頃の父上の所業は、ほとほと兄上の影丸に入れ込んでおり、気に食わない」次男の桜丸が家臣の佐々木鵜殿に酒の相手をさせながら赤鬼のように怒っていた。
 「桜丸様、声が大きい、誰が聞いているやも知れませぬ。小声で」
 「聞いていても構わぬわ。それに父上は、あの年になって、若い姫をもらうとは、何を考えているのだ。」
 長岡景明は、会津の大沼郡長岡高田館の主で今年52歳になっていた。長男の影丸は利発で争いは好まぬ性質で領地の経営は上手く郎党の気持ちをつかんでいた。このため、景明は何かと長男の影丸に事を託し、次男の性質の荒い桜丸を遠ざけていた。
 さらに、今回の景明婚礼の段取り全てを影丸に任せていた。桜丸は長男の影丸と七つ違いの21歳で腹違いの庶子であったこともあって、主の景明は行く末、影丸に大沼郡長岡高田館を相続させることにしていた。しかし、庶子の桜丸には目をかけていなく、かえってその粗暴の行状を憂い、近頃、出家をうながすことが多かった。
 「よし、俺の腹は決まった。やるぞ。」血走った目を、ギョロリと佐々木に向けた。
 「桜丸様、やるからには、必ず成功させる手だてを」
 「うむ、佐々木に何か策があるのか」
 その後、桜丸は、腹心の家臣を集め、謀略の密談を行った。
 翌日、桜丸の使者が、影丸の館にやってきた。
 「何、桜丸の使者がきたとのこと。用件は何だと言っている。」取次ぎの三田村寛衛門に影丸が不機嫌にいう。
 「この度の、父上の婚礼の御用、何か手伝いをしたいとのこと」
 「う~ん、出来すぎたことを言うわ。使者に言ってやれ、無用だと」
 「なれど、桜丸様は気性の荒いお方ゆえ、もそっと、やさしいお言葉を」
 「分かった、適当に言って帰ってもらえ」
 数日後、再び桜丸から、使者が来た。しぶしぶ、影丸は使者にあった。
 「影丸様には、ご機嫌うるわしく、・・・」
 「何を、ごたごた言っているのだ、早く用件を言ってくれ、忙しいのだ」
 「わが主、桜丸様はこの度のお館景明様の婚礼を大変喜ばれ、また、影丸様の采配、いたく感心されまして、お祝いと慰労をかね、桜丸様別宅で供応いたしたく願い出ております。」
 「いらぬお世話だが、父上のご意見も伺って返答しよう」
 景明は、桜丸の供応をいたく気に入り桜丸様別宅に行くことになった。これを聞いた、桜丸は内心ほくそえんだ。
 下男下女に、別荘邸宅の掃除をさせ。館に天幕などをめぐらし、近隣に山海の珍味を注文するなど、支度にかかった。この情報を聞いた長男の影丸は、安心したが念のため屈強な家臣10人連れてゆくことにした。
 3日後、長岡景明と影丸の一行が桜丸の館に到着した。
 「父上には、この度の婚礼、おめでとう御座います。前祝として本日山海の珍味を用意しましたので、ご賞味ください」
 「おお、ありがたいことだ。桜丸にこのような優しい心遣いがあったことをうれしく思うぞ」
 「やれ、やれ、父上には、そのような甘いことを。これ、桜丸、よもや珍味に毒など入れてないであろうな」
 「兄上、それはないであろう。この桜丸がそのようなことを」
 「あっは、はは、戯言よ。ゆるせ。」
 山海の珍味が運び込まれ、美しい女性が酒をついで回るころになると、座はにぎやかになり、長男の影丸も打ち解けてきた。
 「これ、誰か影丸様の従者にも、料理と酒を振舞うように、のう兄上、何も、しかめっ面して控えの間にいることもなかろうでな。あっはっはっは。」桜丸が命じる。
 控えの間にいた影丸の一行にも酒と料理が振舞われ、従者もほっとして、酒に酔いはじめた。
 「父上、兄上、この会津にこの間、都の白拍子の一行が通りかかりましたので、ここに呼んでありますので、一舞ごらんにいれましょう」
 「なに白拍子の一行とな、これはよい。舞をみたい。」
 「これ、舞をいたすので、座を設けるのだ。父上と兄上は、正面の板戸の前にいらしてください」桜丸がてきぱきと指図をすると、中央に舞台がつくられた。
 たち込める伽羅の香りに包まれ次々と白拍子が出てくる。白粉と酒の匂いが充満し、いよいよ興がのり、長岡景明と影丸もうっとりと見入る。
 桜丸が、家臣の佐々木鵜殿に何か耳打ちをする。佐々木は、そっと座を離れ、しばらくしてもどってきて、桜丸に耳打ちをした。
 「お館さま、影丸さまの一行は、あっさりと、眠り薬でねむっております。」にやりと桜丸がほくそえむ。
 白拍子の舞が一段落すると、桜丸と佐々木が長岡景明と影丸の前に進み酌を始めた。景明と影丸の後ろの板戸裏には、桜丸の家臣が槍を構え、太刀をぬき、息をひそめていたのである。
 「あっ、しまった酒をこぼしてしもうた。」桜丸は、空になった酒の器を持って立ち上がった。
 「誰か、誰か、酒をもて」桜丸が大声で叫ぶ。
 同時に、板戸を貫いて槍が繰り出され、景明と影丸に深々と刺さった。
 「うぬ、計ったな。」影丸が槍を抜き、立ち上がろうとする。長岡景明は即死であった。
 「兄上、お命頂戴仕る。」桜丸はゆっくりと脇差をぬき、影丸の腹に深々と突き入れた。
 桜丸が長岡景明と兄の景丸を殺し大沼郡長岡(高田館ノ内)の館主となる。
会津統治5
 1256(建長8年)北条時頼が出家し北条長時が執権することになった。時頼の出家にともない芦名光盛も出家して光盛の次男・芦名泰盛(21歳)に家督を相続させるが、芦名光盛の子経光が不服をとなえたのでその子とともに勘気を受ける。そのため弟泰盛に経光の所領が奪われようするが幕府がこれを安堵することでとりあえず決着がついた。
 1260(文応1年)鎌倉に大火があり、また、日蓮が立正安国論をとなえたので幕府は翌年に日蓮を伊豆に流してしまう。この年に北条実時が金沢文庫を創立した。
 会津では、芦名一族の骨肉の争いの芽が育ちつつあるので、芦名泰盛は、会津国人領主の富田範祐の軍事力を得るため、範祐の長男暢祐(13歳)を謁見し菓子を与えたりして接近し始めた。
 1265(文永2年)芦名頼盛は鎌倉にて北条時宗邸に臨む宗尊親王に供奉し、何とか会津に自分の勢力を伸ばす手だてを考えていた。翌年、これを聞いた佐原新左衛門尉実詮は、小川荘日出谷村に柵を築き領地の防備を固くしたのである。
 しかし、鎌倉幕府は、1268(文永5年)北条時宗が執権になると、蒙古襲来に備えて警固を御家人に命じることになり、三浦、佐原、芦名氏たちに軍役を科してきた。
 翌年、1269(文永6年)に蒙古が対馬で島民の財産を略奪する事件が発生する。1272(文永9年)このころ会津では、芦名泰盛に盛宗が生まれる。また鎌倉幕府は、蒙古との国交が急をつげているときなのに、2月11日執権北條時宗は、大蔵頼季に命じ名越教時と仙波盛直を討たせるのである。
 京都の南六波羅探題北條時輔が時宗を除いて執権職に就く陰謀に加担したというのがその理由であった。京都では北六波羅探題北條義宗が鎌倉からの急命をうけ南六波羅に火を放って首謀者時輔を討っている。佐原六郎左衛門尉盛信は鎌倉にいたが、この事件に連座して自害してしまう。
 1273(文永10年)3月、会津に再び大地震が発生し、6月には大沼郡佐布村長者江川常俊の娘が死亡する。常俊は悲哀のあまり長6尺2分の観音像を鋳造し、大沼郡根岸中田村に4門4面の観音堂を建立し観音様を安置する。これが中田の観音の始まりになるのである。
 1274(文永11年)後宇多天皇が即位し、亀山院政が始まると同時に元、高麗軍が博多に上陸し「文永の役」がはじまる。神風と言う暴風により元、高麗軍の軍船が壊滅したことは有名である。元寇の開始である。
 1276(建冶2年)大沼郡高田村の法幢寺に願主藤原氏の善光寺三尊が鋳造安置される。
一遍が時宗を開き各地を巡り踊り念仏によって時宗を広める折、1281(弘安4年)蒙古の東路軍と江南軍が博多に襲来し「弘安の役」が始まるが、再び暴風により壊滅してしまう。
 1282(弘安5年)日蓮上人江戸の池上で死去。この年、会津の芦名泰盛は、仏教に帰依して帰化僧覚円を会津に招き黒川に興徳寺を起こし、続いて多くに寺院を建立してゆく。
 1284(弘安7年)北条時宗が死去、北条貞時が執権となる。3年後の弘安10年には譲位により伏見天皇が即位し後深草院政が始まる。
 会津では、芦名泰盛(57歳)は、会津国人領主の富田暢祐(のぶすけ)の長男基祐(もとすけ)が15歳になったのを祝い城の庭園中にある離宮双鶴亭において謁見盃を与え、三条吉家作の太刀(3尺3寸5分)を与えたりして富田氏に接近の策を行う。このとき泰盛の嫡男盛宗は17歳であった。
 1289(正応2年)に一遍上人が死去した年に芦名盛宗は、大円禅師鏡堂覚丹を招き、黒川城下に臨済宗興徳寺を建て菩提寺とする。翌年、後深草上皇が出家し、院政が中止になる。
 会津の芦名譜代として、会津面川に舘を築いた佐瀬大和守源兵衛(げんのひょうえ)は、近頃、泉石を好み、庭に水と堰を入れ、池のそばに仮山を築き、朝夕の楽しみとした。佐瀬氏は千葉氏の一族で、先の源頼朝の藤原討伐に軍役し、会津の芦名譜代として会津に土着し、かなりの軍事力を保持していた。
 この佐瀬氏は時代を進ませること100年後の芦名盛氏の時代、家中の機密を掌(つかさどり)り、常に騎士200、歩卒1000余人を備えていた。当時、ここを大和殿町といわれ現在も会津大和町として残されている。(現在、佐瀬大和守が収集した、千貫石は西栄町6番、の中村燃料店の敷地から隣家の前川邸にまたがりあります。また、かなりの石が旧謹教小学校の庭石として寄附されました。)
 さて、この年の10月、富田暢祐(のぶすけ)は芦名泰盛の命により、国政に参加し掃部介を称することになった。富田氏が、この国政に参加したことにより後世富田氏は芦名四天宿老の一人となり重きをなすにいたるのである。
 12月29日、北條時輔の二男某が三浦頼盛(加納盛時の二男)を頼んで謀叛を起こす事件が発生した。
 時の執権は北條時宗の長男北條貞時で、謀叛人は従兄妹である。この謀叛人の父時輔は北條時頼長男で文永9年(1272)2月15日に誅殺されているのでこの復讐の意味もあった。しかし、北條貞時は事前に察知していたので、この謀叛は簡単に鎮定されその日のうちに首謀者は斬首されてしまう。
会津統治6
 会津では、益々国人領主や豪族、地侍に力がつきお互いに領地争いなどが其処彼処で発生していた。1291(正応4年)には小田切左兵衛政基が小川荘赤谷村に笠菅城を築き虚勢を張るしまつで、芦名氏は内政の沈静に追われていた。そんな折、1293(正応6年)耶麻郡新宮城主佐原頼連が芦名氏に謀叛を起こした。しかし翌日に降参するというあっけない幕切れであったが、その後、新宮氏は会津芦名氏に対し滅亡するまで謀叛を続けることになるのである。
 何故、新宮氏はすぐ降参してしまったのであろうか。その日の戦いのあらましは、芦名の軍勢が河沼郡笈川村まで進んだとき、先方より禰宜が鉾を荷って陣前を通りすぎたことから始まります。
 禰宜「それがしは、信州諏訪の社司なり、諏訪は軍神なれば、かく行き逢い奉ることは吉祥なり、今日の軍は必ず利あるでしょう」という。
 芦名氏おおいに喜び彼を先頭に立て進んだところ、この日、新宮氏は戦わず降伏してしまったのである。守護の芦名泰盛は、この神徳に感じ、永仁2年(1294)に黒川(今の会津若松)に、信濃国より会津諏訪大明神を勧請したのである。しかし、その年にも新宮助成は不穏な動きをして芦名泰盛の兵によって鎮圧されている。
 3年後の1295(永仁3)芦名泰盛は、隠居して家督を芦名盛宗(25歳)に相続させることを幕府に願い出て、盛宗を遠江守に任ぜる。
 その日、会津国人領主の富田暢祐の二男祐義(すけよし)が15歳で元服し左近と称し、芦名泰盛(63)・盛宗(28)父子に拝謁し盃と太刀を賜り、近習職に加えらる。この、国人の富田がやがて芦名家にとって大きな存在になり、四天宿老となってゆくのである。
 翌年1296(永仁4年)三浦石見守盛経が河沼郡古坂下の笠松館に住むころ、芦名盛員(もりかず)が芦名盛宗の嫡子として生まれる。その3年後の1299(正安1年)、鎌倉幕府は会津の以南の勢力を張っている長沼宗秀に父宗泰の所領陸奥国長江庄以下の地を安堵したことによって、会津芦名氏との勢力争いが始まり始めたのである。
 同じ年の正安1年、源頼朝の藤原征討に従った坂東武者の荒井信濃守頼任(よりとう)がついに会津に土着して、河沼郡野沢原町(西会津)に舘を築き住み始めた。館は、東西50間南北1町。その子孫に芦名侍大将の荒井新兵衛、重信、織田信長に拝謁した満五郎などがでるのである。
 その4年後の(正安3年)、京都では譲位により後二条天皇が即位し後宇多院政が始まる。そして北条貞時が出家し、北条師時が執権となるが、鎌倉幕府は、北条一族の内紛で揺れ動いた。
 5年後の1306(徳冶1年)芦名光盛の子・経光が勘気にあったのを見た弟泰盛は、その所領を奪おうとする内戦が始まったが、鎌倉幕府は、内紛の拡大を治めるため、経光の所領を安堵することでけりがついた。
 そして京都では1308(延慶1年)譲位により花園天皇が即位するが、1314(正和3年)伏見天皇が出家すると、後伏見上皇の院政伏見院政が始まるのである。
 鎌倉幕府では1311(応長1年)北条師時が死去、北条宗宣(むねのぶ)が執権となるが、翌年に死去してしまう。そして北条照時が執権となるという慌しい政権変化の渦になっていた。
 会津では、以南の長沼宗秀が庶子又五郎宗実に長江庄奈良原郷以下の地頭職を譲ると、これを警戒した蜷川将監俊景が河沼郡塚原村に柵を築くなどして勢力争いの兆しが見え始めてきた。紛争を心配した会津芦名氏は、河沼郡片門村から小川荘津川村にかけて多くの諏訪神社を建立して民の心を静めることにした。
 1316(正和6年)北条高時が執権となると、やっと鎌倉幕府は、落ち着きを戻したのである。
 翌年の、1317(文保1年)2月、会津芦名盛宗は、近習職の富田祐義(すけよし)に命じて鎌倉に至らせ執権北条高時に拝謁させた。富田祐義は、鎌倉に二ヶ月滞在し文武と仏教を学び取り会津に帰国するのである。その4月は文保の和談があったときで、会津芦名氏の幕府に対する貢ぎは、それと間接的に関連があったとおもわれる
 しかし、その後、北条高時は田楽や闘犬にふけり、京では、後醍醐天皇が院政を廃止し天皇親政をめざすなど不穏な空気につつまれる。そして幕府の政治に長崎高資が専横をふるうようになると民衆や周辺の地頭たちが不満を言い出し、再び鎌倉幕府は揺れ動き始めた。
 会津では、1323(元亨3年)北条貞時の13年忌に長沼宗秀らが北条高時に進物をしするなどして、会津の領土の安泰を図ると、芦名氏も負けじと再び富田祐義(すけよし)を鎌倉に至らせる。用件は左近将監北條時益と越後守北條仲時の死に対しする弔問であった。富田祐義は、中禅寺で度々法話を聴き仏門に傾斜してゆくのであった。
 3年後の1326(嘉暦1年)北条高時が出家し金沢貞顕が執権となった年に、芦名直盛が直員の3男として鎌倉大倉屋敷で生まれ、若狭守左京大夫を称する。
 鎌倉から帰った富田監物祐義は、さっそく会津荒井村に館を築き郎党を養い戦力の拡大に努め始める。
 千葉氏の一族で会津に土着した佐瀬安石も、耶麻郡見頃村(喜多方市)に館を築き地頭として勢力を誇示はじめてきた。
 1329(元徳1年)会津の芦名盛宗が隠居し嫡子・芦名盛員に家督相続した。盛員は34歳でようやく遠江守に任ぜられたのである。
 この頃から天下は乱れ、1331(元徳3年・元弘1年)「元弘の変」が起こった。これは後醍醐天皇の計画による討幕計画であったが、事前に発覚し首謀者の日野俊基・文観・円観らが捕らえられる。天皇は笠置山に逃れ、楠木正成が挙兵するが陥落し天皇は捕らえられ隠岐の島に配流されてしまう。陸奥・出羽以下西上の将士が鎌倉に集まるが北朝、南朝の分裂になり鎌倉幕府が北朝の光厳院を擁立することになった。
 1333(正慶2年、元弘3年)陸奥国の結城宗広に幕府追討の勅が下された。その5月、結城宗広は新田義貞に協力し奥州武士を多く集め鎌倉を陥すことに成功したのである。これによって北条高時は自害するが高時の弟北条時興は南部太郎・伊達六郎らと陸奥国に逃亡。元弘3年(1333)北條氏は、とうとう滅び「鎌倉幕府の滅亡」したのである。京都六波羅も陥され。後醍醐天皇は光厳天皇を廃し、正慶の年号を元弘に復する。
 7月天皇は岩松経家に北条顕業の遺領陸奥和泉・荒田などを与えると岩松経家は門司親胤の申請により会津郡上荒田村の所領を安堵されたのである。8月には、北畠顕家が陸奥守に任ぜられ結城宗広が陸奥諸郡検断を奉行することになった。そしてその年の10月、北畠顕家は義良親王に従い奥羽に赴き、陸奥・出羽を管轄することになった。

会津統治7
 1335(建武2年)7月14日、とうとう中先代の乱がはじまった。北条高時の次男北条時行は、信濃守守護小笠原貞宗を破って鎌倉を攻め、足利直義は護良親王を殺し西走してしまった。
 会津守護の芦名盛員と子息高盛(18歳)は8月17日夜、北条時行に加担して相模国片瀬川で足利尊氏の軍と戦いをはじめるが討ち死にしてしまった。重臣の塚原義景、栗村盛満(58歳)、栗村源盛(37歳)、富田宗祐(29歳)、宗祐の嗣子・祺助(よしすけ)らをはじめ、旗頭8、与力野士80、小頭8、足軽105、小人頭2、小人120、無役旗本26、雑兵300余人の多くの芦名勢が討たれたのである。
 葦名盛員の馬丁をつとめた平太は片瀬川で同じく忠死した功により、その子孫は芦名譜代の家臣にとりたてられ平田を氏とし、のち四天宿老に列した。
 8月19日、足利尊氏と直義の連合軍が鎌倉を奪還して、葦名盛員父子は建長寺に葬られる。
 芦名盛員の室で笹谷御前は、直盛の養母にあたるが盛員と子息高盛が討ち死にしたので、盛員の弟で叔父の北田行信としばらく政務をみることにして、会津に浄林寺を建立する。
 その後、芦名盛員の弟直盛が家督相続するが9歳で若すぎるため盛員の弟で叔父の北田行信が13年間執権にあたり、正平3年(1348)になってやっと直盛が家督を相続したのである。しかし芦名盛員は討ち死にするまえに遠江守盛宗の次男にすでに家督を継承していたため騒動がおきたのである。
 三浦氏に属した関東武士の荒井信濃守頼任は、芦名直盛に従って会津に移り幕内の西に館を築いて住むが、正安(1299~)のころ耶麻郡野沢に領地を賜り館(東西50間、南北1丁余、東北に大槻川廻り、南西に堀形土塁)を築いて、その地を荒井と改め代々住むのである。荒井信濃守頼任の長子新兵衛は豪傑で後に葦名氏の侍大将になり仙道の目付役として入間が与えられ3本松城の城主になるのである。野沢は末弟の満五郎が継ぎ、後に葦名氏の使いで織田信長に拝謁することになる。
 そのころ足利尊氏は北条時行を破るが帰京せず反乱を起こし、新田義貞の軍を箱根竹の下で破る。
 足利尊氏は、10月陸奥国衙は留守家任の勲功を賞し河沼郡高久村(現高指町)の伊賀弥太郎跡を与え、結城親朝に白河庄の欠所地を与える。
 12月には北畠顕家が足利軍追討のため陸奥を出発したので陸奥の国の御家人・会津野尻助房真勝は北畠の西上軍に加担して出陣していった。
 足利尊氏は北畠顕家の軍に敗れ九州に西走していたが1336(建武3年)、尊氏は光厳院の院宣を受け東上、湊川の戦いで楠木正成を破り入京して光明院を擁立することになる。
 8月豊仁親王が践祚すると足利尊氏は幕府を開き式目を定める。12月、後醍醐天皇がひそかに吉野へ移り南朝を開き北朝(京都)と分裂して南北朝時代が始まる。
 足利尊氏は石川蒲田兼光の戦功を称え岩瀬郡袋田村と会津稲河庄矢目村を預ける。さらに石川小平光俊に会津蜷川庄野沢半分を預ける。
 1337(延元2年・建武4年)越前金崎城が陥落し尊良親王が敗死すると、北畠顕家が義良親王を奉じ陸奥にこもったのである。3月、吉良貞家が北畠顕家・顕信と安積郡分地田川で戦った際、葦名盛宗は四天宿老の富田祐義に命じ、北畠氏に参陣させ吉良方を攻めさせる。この戦いで富田方は味方には3人の討ち死にをだしたが敵の首12級を取り、この戦功により祐義は北畠氏から駿馬1匹を拝領した。
 11月には越前黒丸城の城主角田弾正藤原憲光が落城により会津に逃れ来る。
 1338(暦応1年・延元3年)2月、したの嗣子・7歳の富田祺助(よしすけ)(7才)は祖父祐義に伴われ芦名行信(臨時の領主)に拝謁する。(四天宿老の富田宗祐は1335(建武2年)「中先代の乱」で芦名盛員と子息高盛(18歳)とともに戦死)。父宗祐の片瀬で討ち死にしたことを慰められる。
 8月、芦名遠江守盛宗(68)が死去したので盛員の二男・芦名直盛が家督相続して足利将軍に出仕する。父盛員と兄高盛とが討ち死にして3年目であった。8月11日、北朝は足利尊氏を征夷大将軍にして室町幕府を開く。
 9月、北畠顕家・顕信の軍勢が伊勢を出発し東国に出陣のため船で航行中遭難してしまった。東国から出陣した北畠有澄は仕方がなく会津小川庄に逃げ帰り高出村嶺寒村にしばらく潜むことにした。
 1339(暦応2年・延元4年)3月、会津地方の大洪水で大小の橋が落ちたため円済法印は大沼郡高田村に護国山清龍寺および運慶作の文殊像を安置する文殊堂を建立。翌年の春、鎮守府将軍・北畠顕信は、やっと陸奥に下向して政務を開始する。そのころ会津郡荒井村蓮華寺の僧祖元は耶麻郡一の戸村に真言宗如意山宝昌寺を建てる。
 1341(暦応4年・興国2年)石川・田村の検断奉行に補任された多田宗貞が会津で南朝方の味方をつのり始め、翌年には北畠親房、結城親朝に書状を送り来援を促したので会津の国人衆の間で不穏な空気が漂い始める。
 1343(康永2年・興国4年)足利尊氏が結城親朝の誘降に成功、親朝は尊氏に内応することになった。
 1346(貞和2年)芦名盛久のち詮盛(あきもり)が芦名直盛の長子として生まれる。
 1347(貞和3年・正平2年)7月、吉良貞家が南軍の陸奥藤田城を攻める。8月には蜷川庄勝方村の地頭真壁政幹の代官薄国幹が北朝方に味方し、伊達藤田城を攻めたりしたので会津地方も動乱の渦にまきこまれていった。
 芦名直盛は国政を請て主従道正しきもまだ壮年であったので、諸臣たちが危ぶみはじめる。そんなとき会津蜷河庄勝方村の地頭真壁政幹の代官蒲田幹が北朝方に属し、伊達郡藤田城の攻めに加わる。
 1348(貞和4年・正平3年)吉良貞家・北畠国氏が猪苗代城主の三浦盛通のために耶麻郡下利根川村の地の安堵を幕府に求めているとき、楠木正行が四条畷の戦いで戦死してしまう。
 芦名直盛(中先代の乱で討ち死にした盛員の3男)は、執権の北田信行から正式に家督を相続。三浦紀伊守時継の娘を妻にする。
 1349(貞和5年・正平4年)新宮氏と小荒井の石川氏が新宮で合戦し、また芦名直盛が新宮明継と耶麻郡小松原で戦うなど会津の国人衆のあいだで合戦が相次ぐ。そのため新宮氏との間に長い戦が始めるのである。新宮氏の祖は芦名直盛の祖光盛の弟で、明継はその6代目である。
 この年、足利直義と高師直が不和になるとともに足利基氏が関東管領となる(鎌倉公方)。

会津統治8
 1350(観応1年・正平5年)、足利尊氏・高師直派と足利直義派が衝突して観応の騒乱が始まる。
翌年の2月、奥州では吉良貞家が畠山国氏とその息子の高国が立てこもる陸奥国岩切城に攻めおとし畠山親子を自害させてしまった。これを機会に蜷川庄勝方村の地頭で真壁政幹の代官薄国幹が各地を転戦して多賀国府にこもりにらみを利かせたので、会津南山領の長沼高秀が結城朝常に尽力を依頼して守りを固めることになった。
 8月、足利尊氏と直義の対立が激化すると尊氏は南朝に降り一時謹慎するが、影では結城朝常に直義党を討たせる計らいをめぐらした。しかし、会津の新宮氏が抵抗したため足利尊氏は結城顕朝に会津新宮庄を与えることを条件に新宮氏を討つよう命じたので、会津で長い戦いが始まる。
 1352(文和1年・正平7年)1月、会津守護の芦名直盛が密かに新田義宗に加担し足利尊氏を討とうとしたため、真壁一族の薄景教が三浦若狭守に従い会津の河沼郡の浜崎城、蜷川庄政所盾などを攻め、さらに堤次郎左衛門尉の牛沢城を攻める。
 しかし足利尊氏は、直義を鎌倉で暗殺することに成功し、続いて後光厳天皇を擁立してしまう。
奥州では尊氏に対する反乱が続くので、長沼安芸五郎左衛門尉朝実らに忠節を誓わせ奥州兇徒の討伐を命じたのである。さらに、その年の5月には会津の佐原宗連と芦名一族は北朝に属して田村郡の宇津峯城を攻めたのである。
 騒乱を収めるため、奥州官領の吉良貞家が河沼郡佐野村を石川庄下川辺八幡社に寄進したり、芦名禅師に大沼郡雀林村の法用寺別当を安堵したりするが騒乱はおさまらなかった。
 年が明けて、1353(文和2年・正平8年)4月に足利尊氏は再び長沼氏に奥州兇徒を討伐する出兵を命じるとともに、優柔策として会津の芦名直盛を守護に任じた。このため、芦名一族の佐原宗連と三浦若狭守は、安積郡部谷田で処々の国人と合戦し、さらに要所であった田村郡宇津峯城を攻めるのであるが、こう着状態で明け暮れた。
 しかし、南朝の楠木正儀が京都を回復したため足利義詮が京都を奪回するが、足利尊氏は後光厳院を奉じて入京し対立する。
 会津では、1354(文和3年・正平9年)2月、安達太良山の奥、会津耶麻郡に隠れていた畠山国詮が二本松城に入り旗揚げをしたため、吉良満家は蜷川庄半分を結城三河守朝常に与え備えさせた。ところが兄の関東官領の吉良貞家が死去してしまい、難波家兼が奥州探題となると状況は逆転してしまう。この期を逃さず、会津守護の芦名直盛が黒川小田の里(現在の会津若松の小田山)に小高木館(小田垣館)を築いて勢力を伸ばし始める。
 京都では、1355(文和4年・正平10年)足利直冬が入京してきたので、足利尊氏と義詮が直冬を追って京都を奪回するが、せっかく奥州探題になった難波家兼が死去してしまい、奥州の騒乱が一段と高まってしまうのである。
 会津実相寺の僧釈宗己が足利尊氏に書をおくり世の中の平安をのべると、これを聞き及んだ後光厳天皇は僧釈宗己を京に召すが辞退してしまう。そして、とうとう1358(延文3年・正平13年)足利尊氏が死去してしまうのである。
期を狙っていた畠山国清は翌年、東国の兵を率いて京都にはいる。会津の芦名盛久の共に京に上り、将軍足利義詮に拝謁し「詮」の一字を賜り、詮盛(あきもり)と名を改めることになる。
 1361(康安1年・正平16年)南朝方が京都を奪回するころ、会津の芦名直盛の3男・芦名盛政が鎌倉の中屋敷亀谷に生まれる。修理大夫と称し信州諏訪亀島郷に住むが永和1年(1375)15歳のとき猪苗代三河守盛親の養子になって会津にきて、晩年は義安入道を称していた。この年兄の詮盛が30歳で会津の家督を相続するのである。このころの会津は、三浦氏の子孫の新宮小太郎時久が御山村三峰城に住み会津の騒乱ののもととなっていた。
 1362(貞冶1年・正平17年)芦名盛久(詮盛)が会津下荒井の富田祐義の館にある宝寿寺に鐘を奉納した。このころの寺は城館の守護にあわせもっていたがこの鐘の存在により一般領民の信仰をあつめ繁栄するのである。
 しかし、奥州もいつまでも安泰でなかった。難波義持が執事(管領)となると、三橋太郎義通が会津耶麻郡貝沼村に塁を築き虚勢をはるため、長沼宗秀が石橋宗義に従い石川庄内行方野で幾度か戦をいどんだ。
 1366(貞冶5年・正平21年)会津芦名の四天王の一人で国人の冨田監物祐義が死去してしまう。このためかとく争いが始まる。
 翌年には、足利基氏が死去すると足利氏満が鎌倉公方に就任する。そこで南朝側が葉室光資を送り和議をはかるも幕府は応じなかった。また足利義詮は結城顕朝に命じて、陸奥国の吉良冶家党を討たせようとした。 幕府では細川頼之が管領に就任すると、京都では将軍の足利義詮が死去してしまう。
 そのころ、南山九々布郷の地頭で星刑部少輔広成と白河領主の石塔民部少輔義高が那須板倉あたりで大きな合戦がはじまる。この合戦では最初、石塔方が敗走するが、しばらくして再び石塔方が下向し十文字合戦が行われ、双方に犠牲が多くでる。
会津では、曹洞宗の僧、源翁(げんのう)が全国行脚の途中で会津慶徳(喜多方)に草庵を結んで修行していると、会津黒川城主(今の鶴ヶ城)の芦名詮盛が狩りに出てこの地を通りかかった。芦名詮盛は、この庵のあたりに紫雲たなびくをみてただならぬ者として早速庵を訪れ、源翁和尚の知徳に感じいってしまう。これにはいくつかの逸話がある。
 1368(応安1年・正平23年)南朝の後村上天皇が死去すると、長慶天皇が即位して足利義満が将軍となる。
会津では冨田氏によって会津下荒井村宝寿寺に五重塔が建立され供養が行われた。
 この年、鎌倉に住んでいた鈴木兵内左衛門重義(道徳と称す)は細川相模守清氏にそそのかされ細川右馬頭頼之と戦うが破れて父の道清とともに会津に逃れ芦名盛詮に仕える。鈴木氏は河沼郡稲川荘に移り新田を開いて落合村と名づけたり、縄牽城という館を築き奴婢を免じて良民とすること3度、その人々恩を感じ近くに住み暫時賑わい富饒の村になる。そのころ柴城重行が耶麻郡柴城(塩川町)に館を築き移り住んできた。
 1369(応安2年・正平24年)南朝の楠木正儀がとうとう足利義満に降伏するのであるが、この年、台風により鎌倉大仏が転倒してしまう。
 1373(応安6)会津守護の芦名直盛は小荒井氏に加納庄大荒井村の所領を安堵したりして、国人衆の反乱を必死に押さえ込もうとした。
 1375(永和1年・天授1年)4月に会津に大地震が起こり甚大な被害をうけたので、耶麻郡小荒井村に信州より諏訪大明神を勧請し静めることになった。このとき、芦名直盛の3男で信州諏訪亀島郷に住む盛政(15歳)が猪苗代三河守盛親の養子になって会津にくるのである。この年兄の詮盛が30歳で芦名氏の家督を相続する。
 しかし、会津はいつまでも安泰でなかった、翌年、越後の加地四郎が新宮氏(芦名氏の姻戚)をたのんで挙兵するという噂があるという書状を長尾高景が和田茂実に送ってきた。このため芦名氏は合戦の準備中に芦名詮盛の長子が生まれる。幼名を春松丸といい、後に15歳で元服して将軍義満より、満の一字を貰って満盛と名乗るのである。
 1378(天授4年、永和4年)室町幕府の組織が完成する。
 翌年、会津新宮城主の芦名民部少輔明継氏が挙兵、まずは河沼郡北田城を攻めるが河水に落ち溺死するというドジな結果に終わってしまう。
 芦名氏は佐原政泰(まさやす)に命じ、耶麻郡小田村(猪苗代町)の北西9町ほどの山頂に音高城を構築させ守りを固めた。
 この年、足利義満が土岐頼康を討ち、鎌倉公方の足利氏満が乱を企てるが、関東管領の上杉憲春が氏満を諌死させてしまう。
 1380(康暦2年)5月16日、小山義政と宇都宮国綱が領地争いで裳原において合戦になるが宇都宮氏が敗れて討ち死にしてしまう。
 翌年、奥州の動乱を避けるため芦名詮盛は、娘を奥州探題の畠山国詮の子満泰に嫁がせ自家の安泰を図る。
 この結婚式に会津四天王の国人で富田宗祐の嗣子祺助(よしすけ)がこれに随伴し、畠山氏から安達郡玉井村が寄与された。玉井は天文年間(1532~55)に館が築かれ大河内日向守光盛の居城になった。
 芦名直盛の家臣で小田切弾正(石間、岡沢、焼山、太田、古岐5邑の領主)は、仏法に帰依し六堂沢にある荒廃した宝珠山松寿寺を村東に移し曹洞宗の僧関鶏を請うて中興開山する。
 11月16日、関東公方の足利氏満が小山義政を攻める。これは口実を捕らえ諸家を抑える方針であったがうまくいかなかった。
 しかし、度重なる攻撃のため、小山義政は鎌倉に降って自害してしまう。14年後、小山義政の遺児、若犬丸が関東公方に背き氏満がこれを討ち、若犬丸は会津に逃れ翌年自害するという事件に発展するのである。
 1383(弘和3年、永徳年)南朝の後亀山天皇が即位。
 会津守護の芦名直盛は小田山にさらに小田廓を築城し、小田山の麓に郭城を築き町屋を分け、士家・商家・寺社、石壁を掘り黒川町となす。さらに小田山の城を鶴城あるいは黒川城と称した。
 1384(元中元年)正月、小田山城をさらに新築して鶴ヶ城(黒川城)と名付け、老臣の安部氏にこれを監督させた。
 伊達正宗(先代の正宗)の居城である信夫郡の大仏城が完成し、城代に屋代勘解由兵衛が置かれた。芦名氏は四天王の富田宗祐の嗣子で祺助(よしすけ)を祝いに訪れさせる。さらに、伊達弾正宗遠が芦名詮盛の娘を嫁にして会津と縁組を結びたい意向を示した。これは芦名と伊達の接近策であった。

 新宮氏の乱1
1390(明徳1)年に芦名直盛が京都四条坊門油小路の屋敷で死去すると、芦名詮盛は出家して父の叔父日什の門に入ってしまった。芦名家では重臣一同が15歳の芦名満盛を元服させて当主にする。満の一字は足利義満将軍から賜ったものである。
 翌年(元中8年、明徳2年)に山名氏清が乱を起こした明徳の乱が勃発する。芦名直盛は山名時氏のこもる山城内合戦に参戦するが討ち死にしてしまう。(67歳)
 1392年(元中9年、明徳3年)幕府は有力守護大名を制圧して南北朝の合一。北朝の後小松天皇が出来上がる。
 1394(応永1)越後蒲原郡小手茂の地頭の地頭石井盛秀は、金川、三橋、深沢、田中、竹屋、下窪、小沼村のあたりは水に乏しく、耕地を拓くことができなかったので、平盛継朝臣の下荒井大和守盛継と計りここに堰を造り、痩せ地を皆肥沃の地とした。
 1396(応永3)2月28日、小山義政の遺児若犬丸が関東公方に背き謀判を起こしたが、足利氏満は小山氏の手勢を討ち負かしたため、若犬丸は会津に逃れてきた。たが、芦名詮盛は足利氏満に通じていたため翌年1月に若犬丸を自害させてしまう。芦名詮盛は若犬丸の7歳と5歳の遺児を鎌倉に送るが、足利勢によって途中の六浦の沖に沈められてしまう。
 1398(応永5)3月、芦名満盛は侍女(金田右馬允頼元の娘)との間に一子・芦名氏祐をもうける。妾腹の子であったため、芦名氏祐は富田氏に預けられ養育料として500貫が与えられる。氏祐は富田氏祐と名乗り、その子の頼祐が8代淡路守で明応元年(1492)謀反を起こすことになる。
 芦名満盛の正妻は畠山氏の娘で、一子徳松丸があったが離別してしまう。徳松丸は後に治郎大夫忠泰と名乗って畠山氏の分流となるのであるが。芦名満盛の後妻は伊達弾正忠宗の娘であるが子ができなかった。
 1400(応永7)24歳になった芦名満盛は、48歳の伊達政宗(会津に侵攻した政宗の九代前の祖)と鎌倉府に反逆を企てたのである。
当時関東公方家は足利氏満が応永5年に没し、その長男満兼が稲村御所として、4男満貞は篠川御所として、それぞれ岩瀬郡稲村と安積郡篠川に駐在し、関東、東北の諸豪族を強圧、抑制する使命を帯びていた。
 ただちに篠川御所の足利満貞は結城満朝に討伐を命令し、反逆を直ちに鎮圧してしまった。
 芦名満盛は若隠居を命じられたため、出家し紗弥祐仁と名を改め仏門にはいる。将軍義持は、次期会津守護を猪苗代三河守盛親の養子になっていた満盛の伯父修理大夫盛政を任命し実家に復縁し芦名氏を継ぐことになる。
 しかし、芦名満盛と伊達政宗は影で糸を引き、高田の伊佐須美神社宮司に乱をおこさせ会津黒川に乱入して狼藉を繰り返させた。怒った足利満兼は上杉氏憲を遣わし芦名満盛と伊達正宗を討とうとするが、耶麻郡新宮城主の芦名兵部少輔時康も芦名氏に謀叛し戦に参加してきた。理由は高田の伊佐須美神社宮司の大蔵少輔重範は時康の娘婿のため時康を援助したのである。このときから芦名主家と新宮氏の紛争は30余年に及ぶことになるのである。
 この乱に乗じ耶麻郡新宮庄の地頭・新宮次郎盛俊と北田政康が乱を起こし、同属の加納庄の佐原氏を滅亡させてしまう。今も会津塩川町に新宮氏が鎧を召した場所があり、鎧召が転じて鎧目として伝えられている。
 1403(応永10)1月に新宮城が落ちると芦名盛政は新宮城より城主芦名兵部少輔時康の家族を助けて越後に逃れさせるのであるが、同日、高田の宮司が自害を遂げてこの乱は収まった。翌年、芦名宿老の富田淡路棋祐が没すると、猪苗代盛親以下、信夫、田村、岩瀬、安積群の国人衆20人が連署して、篠川御所足利満貞に忠節を誓う連署を提出してきた。しかし、北田一族が芦名氏に叛き、芦名盛政はこれを討って小競り合いを繰り返すという事件が発生した。
 1409年(応永16年)足利持氏が鎌倉公方になる。しかし、足利基氏は足利尊氏の4男で兄義詮と仲がよくなかった。足利基氏の子・氏満も将軍職を望んだようだが第3代満兼は応永の乱に大内義弘と結んで討幕の計画を立てたが失敗し32歳で死去している。その満兼に二子があり長男を持仲、二男を持氏という。持仲は叔父満隆の養子になっていたが応永23年上杉禅秀の乱に叔父と共に自害してしまうのである。
 翌年(応永17年)6月3日、河沼郡の北田城が芦名氏に攻められ落城滅亡してしまう。この日、北田兵庫介通泰、同寅松、同三郎大夫通張治、大庭上総介政泰、伊勢仁兵衛盛季らの主だった人物は自害してしまうのであるが、新宮氏に滅ぼされた北田次郎広盛の後胤小次郎(7才)は、大沼郡横田の山内氏を頼って落ち延びていった。そして山内氏の家臣岩橋氏に養われ岩橋氏を名乗ることになる。
 1411(応永18年)上杉氏憲が関東管領になると、翌年、芦名宿老の富田氏の養子になっていた芦名氏祐は、実父芦名満盛の前で15歳で元服し、盃と重光銘の太刀を拝領し500貫が与えられ掃部介を名乗ることになる。
 1413(応永20年)幕府が陸奥・出羽を管轄すると、上杉氏憲が鎌倉公方の足利持氏と対立したため関東管領を罷免されてしまう。そして足利持氏は長沼義秀に畠山修理大夫と合力して上杉氏の太郎丸城に出兵を命じてきた。しかし、その年の11月、越後に逃れていた新宮兵部大輔時康が新宮に舞い戻り、再び芦名氏に叛いたので黒川の兵が新宮城を攻めることになったので長沼氏は動かなかった。
 とうとう、1416(応永23年)上杉氏憲が足利持氏と上杉憲基に抗して挙兵し上杉禅秀氏憲の乱が勃発した。それに上杉禅秀(氏憲)の軍勢に芦名氏と結城氏が加担したため幕府勢は苦戦に陥るが、翌年上杉氏憲が敗れて自害してしまう。
 会津では芦名盛久が誕生したが、耶麻郡の新宮氏が乱を起こし芦名氏は休むことが出来なかった。戦いは、1418(応永25)1月まで続き、黒川新宮、塩川、遠田、河沼郡塩坪などで戦いが繰り返された。その年の3月、徳一菩薩が建立した大伽藍の恵日寺が炎上し、丈六薬師像が灰燼に帰してしまった。この丈六薬師像は、今日、会津の恵日寺の資料館に描かれている。
 1419(応永26年)上杉憲実が関東管領になると。朝鮮が対馬を襲来(応永の外寇)するが撃退する。
 この年、会津では新宮氏と芦名氏は互いに属城を攻め落としていた。6月、新宮時康の舅で味方であった佐藤弾正が前年に芦名盛政に属したので新宮氏の兵が弾正の越後国小河城を攻め落としてしまう。7月には、舘の原の住人小布瀬原右京が新宮氏に属したので芦名氏の兵が耶麻群小布瀬城を落した。この期に乗じ、縁戚の猪苗代氏が芦名氏と戦う事件が発生した。
翌年の5月、大飢饉が発生、6月、長年続いた芦名氏と新宮氏の紛争は、芦名盛政が大軍をもって新宮城を攻め落とすことで一応けりが付いた。この合戦で新宮時康と次男時宗、小荒井広高とその次男盛任ほか186人が討ち死にしてしまう。それぞれの長男は越後阿賀野川を下って敗走するが、13年後1433(永亨5)9月に再び芦名の重臣金上盛勝の越後津川の狐戻城を攻めることになるのである。
 1421(応永28)芦名盛信は越後国耕雲寺の僧傑堂能勝大和和尚を会津に招き、天寧寺を開山。この天寧寺に新撰組の土方歳三が建てた近藤勇の墓が残されている。南朝復興のため若き日、戦場に経ち豪勇無双の人・楠木正成の3男で正儀の子能勝・傑堂(けつどう)が会津黒川東の庵を結び曹洞宗天寧寺の開祖となる。芦名盛信などが参禅したと伝えられる。正儀が会津に落ちする際、後醍醐天皇より拝領した錦の御旗を断ち切って軸部だけを持ってきたと伝えられている。
 1422(応永29)芦名盛政は、攻め落とした新宮氏の土地を耶麻郡熱塩示現寺に寄進して、ようやく会津盆地一円の領有化を推進したのである。


松本氏の乱
1423(応永30年)足利義量(よしかず)が将軍となったとき、足利義持が鎌倉公方の足利持氏を討つが、翌年、和睦が成立した。その11月に会津南山八郷の長沼氏が宇都宮持綱の家人を捕らえたため宇都宮氏との仲が不穏になる。
 翌年の4月、下荒井大和守盛継が没したため、一族の中で騒乱がはじまり、8月には磯部又二郎が塔寺八幡宮の門外で参詣人を殺害したため塔寺衆徒の訴えにより芦名盛政は磯部又二郎を追放してしまう。この年は、会津で大飢饉があり餓死するものが続出した。
1426(応永33)9月に大洪水が発生して黒川から赤沢まで田地は皆損してしまう。12月には、塔寺八幡宮で船窪の法性が河内阿闍梨の下人を刀傷させたため、芦名盛政が法性に科料を課し、それを塔寺八幡宮の修理料にあてる。
 翌年6月、9月と再び会津に大洪水が起こり死者多数となる。
1428(応永35年)1月18日将軍足利義持が43歳で没すると、天台座主として出家していた弟の義円が還俗し名を義教と改め、足利宗家を継ぎ第6代の将軍となる。10月足利義教は篠河御所足利満貞と芦名盛政以下の陸奥の所将に書をつかわし、その所領の安堵を約する。
1429(永享1年)4月、足利義教は故足利義持の遺品を笹川御所足利満貞と芦名盛政、伊達氏、白河氏、塩松氏に太刀1腰が送られた。しかし、6月、将軍職を期待していた足利持氏は激怒して京都に攻め上ろうとしたが、上杉憲実に諌められ辛うじて思いとどまった。
 しかし心収らなかった足利持氏は8月になって南朝勢力の中心であった伊勢の国の北畠満雅を扇動して、後亀山天皇の第3子良泰親王小倉宮を奉じて兵をあげた。幕府は伊勢守護土岐持頼に命じこれを討ため北畠満雅は敗死し、小倉宮は降参してしまう。
 足利持氏は、続いて陸奥白河の結城氏朝を攻めたため、足利義教は足利満貞と芦名盛政、伊達諸氏に氏朝を救援させたためこう着状態になる。
 会津ではこの隙に、松本伊豆守実輔とその子図書実政は大沼郡松沢に松沢寺を建立し、さらに岡部山城又五郎は猪苗代金曲村に館を築いてしまう。
1432(永享4年)春、芦名盛信は天寧寺2世南英謙宗大和尚から戒を授かり入道して道喜と称し、家督を子の盛久(19歳)に譲ってしまう。
 翌年、1420(応永27年)に芦名氏によって会津を追われた新宮時兼の子、尾張兼光と小荒井広高の長男小荒井盛常は、9月25日、芦名氏の重臣金上盛勝の居城である越後津川の狐戻城を攻めるが敗れてしまう。追われた新宮時兼は、一族と共に越後小川庄津川、蒲原郡橡堀(とちほり)の西1里の仁谷山(ひとがたにやま)で自害するが、抵抗した小荒井盛常は討ち死にしてしまう。
1434(永享6年)芦名盛政は会津守護職を子の盛久に譲り、盛久は将軍足利義教に拝謁し下総守を任ぜられる。
しかし、翌年、足利持氏が東国の諸将に陸奥の足利満貞を討つよう命令を下したことで東国は騒乱の巷と化してしまう。
1436(永享8年)の年、4月から150日間会津には雨が降らなく、さらに7月には、三日間連続で地震が16回も発生したため人心は怯え、略奪や暴行などが各地で発生した。さらに翌年(永享9年)に再び大飢餓が発生して、死するもの多く発生した。
1438(永享10年)8月、上杉憲実が足利持氏と争ったため、将軍足利義教は芦名盛久と猪苗代越後守など陸奥の諸将12人に書を送り、上杉憲実に合力するよう命じる。芦名盛久は芦名三郎左衛門尉盛久、猪苗代越後守を参戦させる。翌年の2月、上杉憲実は足利持氏を攻めて自殺させたため、鎌倉公方家が滅亡してしまう。
 1440(永享12年)3月、芦名盛政が69歳で没する。4月には結城氏朝が足利持氏の遺児・安王、春王を担ぎ反乱を起こしたため、幕府は上杉憲方、上杉定正、芦名氏、白河及び海道五郎の諸氏に出兵を命じ、結城合戦が始まる。しかし8月に大暴風、9月には大地震が発生して戦いは一時膠着状態となる。
 翌年(嘉吉1年)の4月にやっと結城城を陥して結城氏朝を戦死させる。その恩賞の意味で19歳の会津芦名盛詮(もりあき)が将軍足利義教に拝謁し左衛門尉に任ぜられる。しかし幕府では赤松満祐が将軍義教を暗殺するという事件が発生してしまう。結局、赤松満祐は山名持豊らに討たれてしまう。
1444(嘉吉4)芦名盛久が没(29歳)すると芦名盛詮(もりあき)は、奸臣佐々木三郎と成田右馬の甘言に動かされ政道が治まらなかったので忠臣小寺甲斐が諌めるが聞き入れられず、7月2日密かに毒殺されてしまう。室は田村利政の娘で家督は弟盛信が継いだ。
 1447(文安4)芦名盛信が出家。7月、大暴風、塔寺鳥居倒壊。よくとし、大地震、飢餓、疫病が続く。この年、芦名盛高、芦名盛詮の長男として生まれる。
 1449(宝徳1年)足利成氏が鎌倉公方になると、芦名氏に隷属していた岩瀬郡袋田、会津稲川庄矢田村石川氏一族が、白川氏に攻められ降伏してその家臣となってしまう。
 1451(宝徳3年)3月、芦名盛信が没したため、芦名盛詮が29歳で家督相続する。7月、会津の国人・松本右馬允が多々良伊賀を襲う。伊賀は芦名盛詮を奉じて小高木城に逃れるが、結果は両者の私闘であったため、伊賀は自害に追い込まれてしまう。

8月、猪苗代盛光が浜崎政頼の河沼郡浜崎城を攻めるが開戦10日後、浜崎城主の栗村右近親基の子、栗村兵庫盛方が戦死したため、白河の結城直朝が和解を謀り、猪苗代盛光は兵を収め帰る。
 この年から、芦名四天宿老の国人・松本氏輔は、1511まで6回の反乱を起こすのである。
 1452(享徳1年)畠山義就(よしなり)と政長が家督争う時期に、幕府は債務額の10分の1にあたる銭(分1銭)の納入を条件とする徳政令を出したため各地に徳政一揆が発生した。
 1453(享徳2年)3月、芦名盛詮の部将松本筑前守らが、かねて不穏な動きをしていた松本右馬允及び大沼郡藤川橋爪村の芳賀将監の館を二手に分かれ攻める(芦名盛詮の居城から直線で約7キロ)。右馬允は日光に逃げたが、芳賀氏は芦名一味の族であり芦名氏とは姻戚関係にあったが芦名氏に臣服しなかったために、戦は白河の結城氏が芦名側に加勢したため芳賀氏は戦いにやぶれてしまう。
 芳賀将監は下野の国に逃れようと南山を通過する際、田島鴫山城主の長沼出羽守政義に討たれ自害してしまうのである。
 松本右馬允もいったん日光に逃れ伊南の河原田重直を頼り、大沼郡中丸城主の山内俊光の臣堀金左京の小林館を攻める。しかし、城主山内俊光が出援したため、松本右馬允は猪苗代盛光の援助を得て浜崎の館を占拠することに成功した。
 9月17日芦名盛詮は結城氏の支援をうけ浜崎城を救うため兵をだし、浜崎と塩川の館を破り松本右馬允を自殺させるが、猪苗代盛光は逃れてしまう。
 1455(康正1年)足利成氏が上杉房顕(ふさあき)と戦い、下総古河に移り古河公方なのる。この年、上杉景勝が長尾政景の子として生まれる。
 1457(長禄1年)になると大田道灌が江戸城を築き、足利義政が弟政知を伊豆堀越につかわし堀越公方をなのる。
 蝦夷地では、アイヌ族長コシャマインが蜂起したが館主蠣崎氏の武田信広が、これを鎮圧して武田氏が蠣崎氏を継ぐことになる。
 1458(長禄2年)8月、芦名盛詮は家臣金上氏に兵7000騎を預け、伊達持宗をせめさせる。このとき山之内越中はその一族と謀り、白河の兵500騎とともに田島の城にこもり謀叛を企てるが芦名盛詮は金上氏を遣わし山之内越中館を囲み、自らは米代の法華堂に出陣する。
 1459(長禄3年)6月、南山田島城主長沼大和守政明が没すると、山之内越中が南山鴨山城に結城氏を攻めるが、将軍足利義政の斡旋により芦名盛詮と結城直朝が和睦する。足利義政はこれを賀し、かつ足利成氏を誅罰のため早く関東を進発することを命じるが、伊達、大崎、葛西、黒川の土豪と会津芦名盛詮と猪苗代刑部大輔、兵を出さず。
 8月24日、芦名盛詮、金上氏を派遣して再び伊達持宗を攻める。12月には芦名盛詮は山之内越中守を中野城に攻めてこれを敗死させる。
 1460(長禄4年)芦名盛詮の長男・芦名盛高が13歳で将軍足利義政に拝謁し修理大夫盛高を称する。盛高の兄弟に荒井盛信、富田為継、平田盛行がいた。
 10月、芦名盛詮の小高木館が焼けてしまう。
 1464(寛正5)猪苗代盛光が、芦名居城の黒川を攻めるがこう着状態になる。
 1465(寛正6)盛詮の子盛高18歳は伊達成宗の娘(15)と結婚するが、翌年(文正1年)芦名盛詮が没する。(芦名系図には、明応7年8月没とある)。盛詮の子は、芦名盛高、荒井盛信、富田為継、平田盛行の3人であったが、芦名盛高が19歳で家督相続したため一族の中で不満が起きる。6月には、将軍足利義政が諸将に足利成氏の追討を督促するが、芦名、伊達氏は兵を出さなかった。芦名盛高は家督相続すると黒川の城郭を整えることに専念する。
 1467(応仁1年)細川勝元(東軍)と山名宗全(西軍)に分かれ、京都争乱となり応仁の乱が始まる。
 1470(応仁3年)芦名盛高は、父の盛詮時代に家臣の反乱が絶えなかったため、まず安積群安子島に伊東氏を攻めるのを始め、再三外征し会津領内の統一を協力に推進する。
 1471(文明3)12月、将軍足利義政が芦名盛高(24)に足利成氏の追討を命令したため、芦名、伊達、結城の三氏が古川公方足利成氏の請けよって、白河に参会する。文献には「関東並びに奥州・羽州の諸大名衆、古川の公家家(古川公方成氏)を御尊敬の由」と書かれている
この年、会津では赤痢が流行し死亡者が多数発生する。古川公方と堀越公方が戦を始める。
1472(文明4)会津黒川(今の会津若松)に大火があり、3分の1が焼失してしまう。再建途中の1474(文明6年)4月に再び黒川は大火にみまわれ、諏訪神社が焼失してしまう。この年、加賀一向一揆が守護富樫政親と戦う。
1477(文明9年)応仁の乱が終結したため、所将が帰国し始める。
1478(文明10年)芦名盛政は将軍足利義尚に太刀と馬を献上する。
1479(文明11年)芦名盛高よって勝館、橋爪玉井館などが次々と攻略されたが、大沼郡高田館に住む小俣左京幸高は、芦名氏に従わず反抗していた。
 5月27日、小俣幸高と従弟の長嶺左馬助が宮川に船を浮かべて遊楽しているのを、小俣の家臣で日ごろ黒川に心を寄せている荒川数馬は、このことを芦名盛高に注進する。盛高はこれぞ好機と自ら馬に鞍をおき鞭打って高田城に火をかけた。さらに小俣幸高は黒川勢に攻められ討ち死にしてしまう。さらに芦名盛高は大沼郡高田城の小俣幸高を滅ぼし、その縁者である白井憲基(のりもと)の館(会津高田公民館辺)を陥して、小俣の地を芦名盛安に与える。
 このため、仙道五十峰城主の石川氏は芦名氏に叛くが、結城政親は石川氏を討つてしまう。5月には芦名盛高は渋川義基を大沼郡高田城に攻めこれを陥す。翌年の1480(文明12)には芦名盛高は高田城主小股氏を攻撃して殺してしまう。
 1482(文明14)芦名盛高は伊達成宗の娘を娶ると、猪苗代城に入り城の修理を行う。
 1484(文明16)8月24日、芦名盛高は兵を率いて黒川から猪苗代湖南に出て、741メートルの勢至堂峠を越えて長沼から須賀川に至り、(岩瀬)磐瀬郡に入り、須賀川の二階堂盛義と戦う。
 戦いは9月8日で終わったがかなり激戦で、芦名側の戦死者には、主な者15人(太郎丸氏、平田氏、小田切氏、伊藤氏、畑氏など)、雑兵150人であり、二階堂側は主な者戦死、36人、雑兵200人であった。10日には兵を収めたが、なおもこの地に1月駐留するが、10月には、兵を引き上げ黒川に帰る。この年、芦名盛滋、芦名盛高(37歳)の嫡子として生まれる。
1485(文明17)山城に一揆が発生して、畠山軍を国外に追い出し、自治制を敷く。
1486(文明18)芦名盛高は穴沢俊越中守俊家(常陸の国穴沢の城主山口忠政の子穴沢遠江守義光が先祖)に檜原の兇徒討伐を命じる。
 檜原の兇徒たちは、耶麻郡檜原の中ノ七里という難所の沢を根拠にして、文太郎を頭に無類の悪党を集め、往来の旅人を悩ましていた。この地は山深く木地師の集落が70軒あまりあったが、この者の妻子が山野に出ればかどわかし、売り飛ばすなどの無法ぶりに、木地師から黒川に訴えがでていた。
 芦名盛高は四天宿老らに議し、山岳戦に長じている仙道の穴沢氏に命じたのである。俊家は弟の常陸介通恒と郎党350人を引き連れ、四方より包囲して山賊270人を討ち取りその巣窟を一掃した。
 盛高は大いに感じいり、貞宗の刀と境野、寺入、道知窪の3ヶ村を与え、出羽国の押さえとした。俊家は弟の通恒を穴沢に帰し、自らは戸山に舘を築いて住み、檜木谷を檜原と改めた。
 1487(文明19)芦名盛高の次男・芦名盛舜が生まれる。兄の盛滋は4歳になっていた。この年、兵庫助政輔が山内信濃守に土地を譲渡し、佐瀬大和と子の式部は会津宮下村に柵を設ける。
 1488(長享2)加賀一向一揆が守護富樫氏を滅ぼしてしまう。
 1489(延徳1)芦名盛高は伊達尚宗、岩崎重隆、結城政朝と連合し常陸の国に侵入するが佐竹義治に撃退される。これは佐竹の家臣小野崎道綱が主君を偽称して討ち死にするという策略を用い、それに謀られた先陣の白河の軍勢が敗退したために起きた。
 1491(延徳3)足利政知の長子茶々丸が父を殺し堀越公方となるが、北条早雲が茶々丸を殺し、伊豆を領有してしまう。
 1492(延徳4、明応1年)3月3日、猪苗代弾正盛頼の家臣(金曲)猪苗代伊賀(猪苗代湖に注ぐ長瀬川の東、耶麻軍月輪村金曲にいた)が謀叛を企てたため盛高はこれを討つ。
 4月8日ころから会津黒川は次第に不穏な空気に包まれ、10日には、芦名盛高の臣で大沼郡永井野(会津高田)の松岸館主の松本藤右衛門輔忠(松本筑後守輔明の4男)が、黒川に住んでいた富田淡路守頼祐とその長男さらに北会津郡下荒井に住んでいたと富田氏の二男の荒井左京介祐道らが反乱をおこした。理由は芦名満盛の庶子で富田家に養われた芦名氏祐が、芦名家の当主としての主張をしたためである。松本氏の参戦は、松本筑後守輔明の姉が富田氏祐の妻になっていたから、富田淡路頼祐と松本藤右衛門輔忠は従兄妹の間柄であった。
 戦闘は11日から12日かけおこなわれたが、芦名盛高は伊藤中務の邸に難を避け、芦名宿老の佐瀬氏らと戦いになった。松本藤右衛門輔忠は11日に水尾山で討ち死にし、12日には富田淡路守頼祐と長男頼実が討ち死にしてしまう。荒井左京介祐道は矢傷を負いながらも下荒井の館に向かって逃げるが、とうとう小出というところで落命してしまう。
 松本輔忠と頼祐父子が討ち死にして、その6日後松本輔忠の長男主膳行輔と3男右馬允輔之が伊藤邸の芦名盛高に赴き降伏謝罪したことによって、芦名盛隆の黒川帰還でこの事件は一件落着した。
 富田家は戦いに参加しなかった3男盛実が家督を相続することになったが、富田頼実の妻は黒田治部重定の娘であるので、謀叛人の妻ということで遠慮してか、富田氏の屋敷がある黒川の西6キロの荒井村で葬儀を済まし黒川の実相寺に葬った。
 松本藤右衛門輔忠の兄・松本輔政は芦名城下の石塚館(中野館)に住むが、芦名氏への恭順の意味で翌年芦名盛高の名代として長江に出陣し竹森城(竹森丹波)を攻め落とすが、結局、後の明応9年盛高に攻められてしまう。
 1494(明応3年)伊達尚宗と稙宗父子が不和になり戦い、尚宗が敗れて猪苗代盛光に逃れてくる。原因は長男伊達尚宗が廃嫡されそうになったことである。
 5月15日芦名盛高は3200騎を率い伊達尚宗を助けるため長井にむけて出発した。芦名勢が長井にいたのは20日ばかりいたが伊達父子の和がなり6月5日黒川に帰着した。6月10日芦名盛高の名代として松本対馬(先の謀叛人の松本輔忠の兄)が長井に乗り込み竹森城(城将栗野十郎右衛門)を攻め落とした。芦名盛高の娘は伊達稙宗に嫁し、伊達稙宗の二女は芦名盛氏に嫁であったので親戚になっていた。
 1495(明応4)北条早雲が大森藤頼を追って小田原城に入ったこの年、荒井(富田)左京介祐道の嫡男荒井因幡守道信は、明応元年の乱で討ち死にした亡父富田淡路守頼祐のため1寺を建立、真言の僧宝泉を請うて荒伝山宝光院を開山する。富田淡路守頼祐は、芦名満盛の庶子氏祐を父とした。
 11月19日耶麻郡北山漆の要害山綱取城の住人松本輔豊が伊藤民部と呼応して黒川に謀叛するのが露見して、二人は宇都宮氏をたよって落ちるべき南山に入り、糸沢から山王峠に至り下総の国を目指すが、南山長沼氏の所領を通過するに怪しまれ長沼正義に尾行され糸沢で斬りあいになった。松本輔豊、民部の両名と郎党30余人はことごとく斬られ相果てる。糸沢村南一里のところに出戸陣場、入陣場と呼ばれる丘がそうである。
 1498(明応7)芦名盛高が古川の南岸にある弁殿館の松本豊前守を誅し、ついで松本右馬允輔之(すけゆき)とその与党を誅する。松本丹後とその一族が討って出て芦名の兵と戦うが討ち死にしてしまう。
 5月26日松本氏の嫡流で松本豊前行輔と3男右馬允輔之が、右馬允の館で父子ともども盛高に殺害される。ことの起こりは謀叛を繰り返す松本氏を証拠もなしに謀叛を予想して先制攻撃したことによる。次の27日伯父の松本丹後輔吉の子・大学輔治と小四郎輔住とが殺害される。ほか13人が殺され、19人が捕らえられた。しかし、彼らには謀叛の形跡がなかったのである。
 1500(明応9)1月、松本勘解由宗輔(耶麻郡北山漆;北塩原村)の要害山綱取城に、兄の松本対馬輔政が芦名盛高によって居館対馬館(中野館)を攻め落とされ逃げ込んできた。
 芦名盛高は耶麻郡漆を攻めるため三橋に至り、翌日1月15日綱取城を囲み、2月5日には綱取城を攻め落とし松本対馬を自害させる。松本勘解由は降伏してしまう。7月、芦名盛高は小田切小次郎に越後小川庄を与えて北の防備を固めた。
 1501(明応10)4月、芦名盛高は安積郡安子が島に出兵し岩瀬の二階堂氏と戦うが、6月、猪苗代盛頼が謀叛したため、芦名盛高は囚人の安子が島氏を許し、初陣した芦名盛滋(盛高の子)と共に参戦させて猪苗代氏を自害に追い込んだ。
 1502(文亀2)12月芦名盛滋は耶麻郡常世(塩川町)の土豪、常世右馬允時持を不服従を理由に討伐し、黒川の北(現在の喜多方)を中心にする地域にいた常世氏に随伴した西勝・三橋・新宮氏(新宮右兵衛尉助成)の支族小荒井治郎兵衛広高の国人3氏を追放してしまう。常世右馬允時持の初代は、会津加納頼盛の長男右馬允時持で8代続いていた。その騒乱を憂いた猪苗代盛実の子の猪苗代兼載は、連歌師として会津各地をまわり芦名同属間の争いを諌める。
 1503(文亀3)4月、黒川の北(現在の喜多方)から追放された三橋氏は伊達尚宗の助けを得て会津に攻め入るが再び追われてしまう。7月、芦名盛高は山ノ内左近が伊達尚宗に応じたため討伐するため安達郡本宮に出陣したが、長沼氏が所領下野国塩谷郡三依郷をめぐり宇都宮氏と争ったため情勢をうかがう。
 1504(永正1)天下は大飢饉にみまわれたが、芦名盛高は住民を酷使し黒川城を修復し、穴沢越中俊家に檜原口を守らせた。
 1505(永正2)芦名盛高は長男・盛滋と不和となり、盛滋は松本氏の拠点である北山漆の要害山の綱取城にこもる(次男は盛舜)。そもそもの原因は、芦名四天宿老佐瀬太兵衛と富田美作守森実の対立であった。
 父芦名盛高には冨田氏、佐瀬氏、松本宗輔が附き、子芦名盛滋には度々の外征に不満を持つ松本輔義と松本宗輔らが附いた。平田氏は中立を守り、佐瀬・富田の招きに応じなかった。そのため、佐瀬・富田氏は主君芦名盛高を残して白河に走った。もちろん白河結城氏(修理大夫天脩)に支援要請にいったのであるが、具体的な確約を得られず帰ってきた。一方芦名盛滋は松本氏の綱取城にこもって対抗した。
 10月中旬に塩川付近の日橋川をはさんで対陣する。白河の結城氏が中を持つが実ならず。10月10日ころから合戦、芦名盛高と盛滋は塩川を隔てて戦うことになった。
 芦名盛高側の陣立ては、先陣が室井七郎右衛門、2陣が富田盛美、後陣が富田志摩秀長であった。しかし富田秀長は12日の合戦で討ち死にしてしまう。14日芦名盛滋が敗れて米沢長井方面に伊達氏を頼って逃げる。従ったもの中の目氏、佐野氏、西勝氏、栗村氏である。22歳の芦名盛滋は宮崎城主の渡部民部少輔綱昌の娘と結婚してこの地に留まる。この冬、大雨雪と飢餓で多くの人が死ぬ。
 1506(永正3)8月芦名盛滋は出羽長井から出陣し、父・盛高の黒川城を攻めるが、11月、芦名盛高と芦名盛滋の和睦が成立する。
 1507(永正4)芦名盛高は伊達尚宗とともに上杉定実を助けるため越後国境に出兵しているが、越後の守護上杉房能が家臣の長尾為景に攻められ自殺してしまう。
 1508(永正5)2月越後蒲原郡岩谷城に立てこもって長尾為景と戦っていた竹俣清綱が敗れて会津に逃れてきたので、芦名盛高は上杉定実と竹俣清綱・色部昌長の間の和を斡旋した。
 1509(永正6)芦名盛高は、上杉顕定・憲房と上杉定実・長尾為景との間の和を斡旋する。このころ会津では病気多く発生し旅人が多く行き倒れになる。
 穴沢越中俊家の第2子で羽州長井荘延徳寺の住職をしていた俊直が還俗し会津穴沢家を相続する。ある日、穴沢俊直は檜原川下流6里で護岸工事をするため人夫30人、若党、中間10余人をつれてでかけた。すると仙道より賊どもが50人ばかり檜原川を渡ろうとしているのに出会い、斬りあいになった。穴沢俊直は長刀を操って25人を討ち取り、他の賊を四散させた。
 1510(永正7)1月、上杉憲房は岩代常隆と芦名盛隆親子に会津口より攻撃を依頼する。6月には猪苗代兼載が下総国古河で没し、伊達稙宗は芦名氏の加勢を受け最上義光と戦うなど東北全土が騒乱に巻き込まれる。
 会津では松本源蔵が長尾為景に応じて金上盛信らを小川庄狐戻城に攻める。金上盛信はこれを撃退し、7月には越後の兵を狐戻城から追い落とした。さらに9月には、結城政明が小峰政重に白河で敗戦し那須に走り、越後では上杉顕定が長尾為景と戦い敗死してしまう。
 1514(永正11)会津黒川が大火に見舞われ、芦名盛高は消失した伊佐須美神社を再興したが、5月から10月まで雨降らなかったため飢饉にみまわれ翌年の7月に会津に大地震が発生した。
 1516(永正13)北条早雲が三浦義同(道寸)を滅ぼし相模に進出していたとき、会津では芦名氏方が、芦名盛舜の子として生まれる。母は川野の前という白拍子で、初名を吉祥丸といった。庶子であったため富田義実に預けられ養育され、長じて東殿と呼ばれ山城守氏方と称する。しかし実質的な後継者は芦名盛氏であった。
 そのとき富田家でひと騒動が起きた。富田実持の長女が家督相続者に弟滋実がいるのに、松山和泉助十三の子を迎えて婿とし、富田監物義実と名乗らせて富田家の分家を創立してしまう。 1517(永正14)6月越後・会津に地震が発生して家屋多数が倒壊してしまう。この年、芦名盛高が70歳で没し、芦名盛滋(34歳)が家督を相続し、将軍義稙に拝謁し承認を得る。
 1518(永正15)7月、会津大洪水が発生し、家屋多数が流させる。翌年、1519(永正16)北条早雲が死去。
 1520(永正17)4月、長沼実国が背き芦名盛滋を攻めるが和睦することで落着。6月、陸奥の伊達稙宗と芦名盛滋が出羽の最上義守を攻撃する。
 1521(永正18)2月、芦名盛滋が没す。盛滋には子がないため弟の盛舜(35歳)が家督相続し遠江守を称する。この相続をねらって4月芦名盛舜(もりおき)の家臣松本大学が反乱を企てるが異心が露見して自害してしまう。
 また芦名盛舜はかねて異心のある弟の大学藤左衛門を自害させてしまう。4月29日松本大学と藤左衛門とが謀叛を起こすが、芦名盛興は直ちにこれを誅する。さらに南山の長沼実国が芦名盛舜に背いて田島を発し大沼郡火玉村(のち福永村)に出陣し火を放つが芦名盛舜は実国を直ちに攻め降参させる。
 伊達稙宗の斡旋により和解して兵を返すが、5月に再び芦名盛舜は長沼盛秀を南山城に攻める。6月になると猪苗代盛光は松本新蔵人や塩田刑部とともに芦名盛舜を黒川に攻めるが敗れて退却してしまう。このとき芦名盛舜に芦名盛氏が生まれる。
 この年、会津耶麻郡中田付村(喜多方)に開祖不明の大沢山龍泉寺という廃寺があった。鎌倉光明寺にいた浄土宗の僧・隆実がこの地にくだり寺を再建することになったので、領主佐瀬大和の寄附する田地により堂舎の修理怠らなかった。そかしその後、天正13年(1585)伊達勢の侵攻で火をかけられたが村人これをよく防ぎ災害を逃れた。


芦名盛氏

1521(永正18)会津守護芦名盛舜に四郎丸(のちの盛氏)が小田山城で誕生する。
翌年、芦名盛舜は父盛高の像を黒川高厳寺に納め、その屋敷と門前の田を守護不入りの地とする。11月佐瀬安石は耶麻郡見頃村に長泉寺を建立して新宮氏や松本氏の備えとするが、松本長門は耶麻郡関柴に館を築き牽制する。この年に伊達稙宗が陸奥守護に補任される。
1524(大永4)北条氏綱が江戸城に入ったこの年に、会津黒川の馬場町が焼け、ついで15日に大町が焼けるという事件が発生した。芦名氏はこの原因を山内兵庫介の火付けとみて誅してしまう。
1528(享禄1)小田原城下が繁栄する頃、4月伊達稙宗が芦名盛舜の助けを得て葛西氏の石巻城を攻め落とす。
1530(享禄3)10歳の芦名盛氏は時の将軍足利義晴に拝謁したこの年の11月に越後守護代長尾為景の将上条定憲が背いたため、為景は定憲討伐のため柏崎に出向き、陸奥の山内舜通(きよみち)に定憲党の寺内氏らの討伐を要請して合戦が始める。上杉謙信が生まれる。
1531(享禄4)3月、河沼郡の坂下の西明寺渡りに大蛇がでて河をふさぎ一昼夜水が流れないという事件が発生。5月には山内俊安が沼沢に丸山城を築く
1532(天文1)法華一揆が一向衆徒と争い山科本願寺を焼く合戦が発生した頃、芦名盛舜が長沼実国を攻めるため南山に出兵し陣中で越年する。長沼氏は関東小山氏の出で結城氏とは同属で会津南山、田島を領し極めて独立性の強い人であった。会津の手薄なこの時期に耶麻郡檜原に盗賊50余人が現れ領主の穴沢俊直と戦う。
1534(天文3)芦名盛舜が伊達稙宗を助けて白河新城に出兵し、芦名・二階堂・石川・伊達の連合軍が岩城と白川の両氏を攻める。ついで、(天文4)芦名盛舜は越後の本庄房長らに応じ同国菅名庄に出兵する。
1536(天文5年)1月1日天海が生まれる。父は二本松畠山氏家臣の末裔で舟木景光、母は高田の館主芦名盛常の娘である。夫妻は永らく子ができないのを憂い、伊佐須美神社近くの清龍寺文殊堂に祈ったという。幼名を兵太郎、剃髪して隋風、無心、院室号は南光坊・智楽院など称した。11歳で高田龍興寺に入る。
この年、天文法華の乱が発生し延暦寺の僧徒が法華一揆と対立し、京都法華寺院を焼く。会津では大洪水が発生し、鶴沼川は本郷岩崎より北に決壊するという天災に会う、これを白髭の大水と称する。
1537(天文6)17歳になった芦名盛氏は伊達稙宗の娘を娶ることになった。伊達稙宗の室は父芦名盛舜の妹ですから従兄妹同士の結婚ということになる。また姉は相馬顕胤に嫁していた。芦名盛氏は田村隆顕と同盟誓書をかわす。
 この年、桓武平氏・千葉胤常の流れで下総国佐瀬郷出身の佐瀬大和守源兵衛(げんのひょうえ)は、会津面川(会津若松)に屋敷を築いた。芦名氏の侍大将として芦名四天宿老の座にあったため、会津黒川に広大な館を構え、家中の機密を常に掌(つかさどり)騎士200、歩卒1000余人を備え急事に備えとした。当麻丁の末に長4町33間、幅4間余、家屋敷80軒、郎党を置く。今でも会津若松の大和町として残っている。
 その後3年間は平和で事件はなく経過したが、1538(天文7)3月15日黒川に大火が発生、城楼及び家士の邸宅多数が焼失してしまう。松本図書、同伊豆、常世、西海枝氏などの屋敷も燃えてしまい、芦名盛舜と盛氏父子は平田石見守盛範、佐瀬大和守種常の居館へ避難するという事態になった。
 この頃、後奈良天皇の宸筆の般若心経が諸国に安置されたが、そのうちの1巻が芦名盛舜のもとにもたらされた。盛舜は従五位下遠江守に任ぜられ奥州を代表する守護大名として認められる存在になった。
 黒川城の居館が造営された7月、芦名盛氏は耶麻郡小荒井に諏訪神社を再興する。また焼失した黒川の諏訪社も再建落成するにいたった。そのときの棟札名には、西海枝(さいかち)盛輔、塩田源輔尚、平田左京、平田左衛門、平田石見守、佐瀬信濃守常和、佐瀬大和守種常、荻野左馬允、栗村下総守、松本伊豆守、松本図書、富田左近将監滋実の名が記された。
 12月芦名盛舜は将軍足利義晴に遠江守任官の礼物を贈ると足利義晴は書をもって謝する。南山の山内攝津守俊政は小川村に館を築き芦名氏をけん制する。
1539(天文8)2月芦名盛氏は従五位下修理大夫に任ぜられると、芦名盛舜は会津郡下荒井の蓮華寺泉坊祐順の飯豊山先達職を安堵する。この年、小田山城造営のため木材が不足したため、耶麻郡北方に乱が起こり芦名氏は軍勢を送り2ヵ月後に鎮まる。
 この年、芦名盛舜の子の芦名氏方は23歳になり山城守氏方と名乗り公の場にでる。氏方の母は川野の前という白拍子であったので生まれて間もなく宿老の富田義実に預け養育されていた。
1540(天文9)芦名盛舜は将軍足利義晴に盛んに贈り物したため、後奈良天皇宸筆の般若心経を賜る。
1541(天文10)武田晴信が父信虎を追放した年に黒川城の棟上が行われる。この年の12月に猪苗代盛頼が芦名盛舜に背き反乱を起こしたため、芦名盛舜は富田氏と佐瀬氏を派遣し猪苗代城を囲んだが戦は翌年に及んだが猪苗代盛頼はついに討たれてしまう。
1542(天文11)斉藤道三が下克上。伊達稙宗は2男6女をもうけそれぞれ相馬、芦名、大崎、二階堂、田村、懸田、葛西氏に入嫁して勢力を伸ばしていたが、子の伊達実元の上杉家入嗣を契機に、これに反対する嫡子晴宗と争い、天文17年(1548)に和解するまで中南奥州を席巻する大乱に発展してしまう。
 伊達晴宗が父稙宗を桑折の西山城に幽閉した際、小梁川宗朝(こばりかわむねとも)は、この危急を相馬顕胤、田村隆顕、二階堂輝行、芦名盛氏らに告げ来援を求め、自らひとり西山城に忍び込み稙宗を救い出してしまう。
 9月になるとこの事件は東北地方の南部、福島、宮城を中心とする広域の各地に拡大し、これから5年間に渡り文字通り麻の如く混乱した。
 大沼郡の山入り(金山町横田)の富口城主諏訪氏4代の信宗は山内氏の家臣となり諏訪姓を須佐と改め六郎左衛門信宗と称した。この年芦名盛氏の軍勢が横田に侵入するが須佐勢のはたらきにより山内氏が大勝する。
1543(天文12)鉄砲伝来。4月田村隆顕が安積郡郡山に兵を出し片平まで押し寄せたので会津の兵が参戦する。7月芦名盛舜自身が出陣し伊南奥山の館を攻める。7月には芦名盛氏が大沼郡横田に出兵し、山内舜通の中丸城に攻める。また山内氏に同調していた伊南の河原田も討ったが、深山幽谷に慣れた河原田の軍兵は巧みに山間に隠れ攻撃したため芦名勢はかなり苦戦した。河原田氏は山腹の塁に立籠ってしまう。この戦いで芦名の将種橋藤十郎が河原田氏の将杉岸伯耆に討ち取られる。
翌年、山内俊清は大沼郡川口村に玉縄城を築き、小田玉城もことごとく改め堅固に築きなおす。さらに山内左馬助氏信も大沼郡西方村に城を築く。
1546(天文15)北条氏康が上杉朝定、憲政を破る。
1547(天文16)6月芦名盛氏は岩崎重隆とともに伊達晴宗を助けて安積口に出兵する。伊達晴宗は本宮宗頼にも書を送り信夫城攻撃の出兵をうながす。さらに8月芦名盛氏は伊達晴宗に加担し出羽長井のも出兵する。
 この年に芦名盛興(もりおき)が生まれるが、再び猪苗代氏が背いたため芦名盛氏が攻める。
 この会津合戦の時、安積郡三代(郡山)城主の小桧山縫殿之助は伊達方に寝返り、鵜浦甲斐守の郎党と争って斬り死にし、双方の死傷者おびただしく、このとき駆けつけた芦名方の赤津弾正のために詰め腹を切らされ三代城は廃城となった。
1548(天文17)二階堂照行は結城晴綱と和し、さらに芦名盛氏の勧めにより田村隆顕と和睦する。8月には足利義輝は芦名盛舜に伊達父子の和睦調停を命じる。この年、舟木兵太郎(天海)は高田の龍興寺に入り剃髪して弁誉舜幸の弟子となる。のち叡山、園城寺、興福寺などで修行。
1549(天文18)8月、伊達晴宗が最上義守と戦う。芦名盛氏は晴宗を助け再び出羽長井に出兵する。この年に芦名盛興が小田山城で誕生する。
1550(天文19)6月、芦名盛氏は安積郡中地に出兵し田村隆顕と戦い、2ヶ月後の8月黒川に帰る。
1551(天文20)二階堂盛義の長男に幼名福王丸が生まれる、後に芦名氏の養子になり芦名盛高と称することになる。
田村隆顕との対立が続いたので芦名盛氏は畠山尚国及び結城晴綱の仲介により田村隆顕と和睦する。田村隆顕は、所領郡山などを芦名氏に渡し、盛氏の子某に安積氏の名跡を継がせる。芦名盛氏は、執拗に謀叛を繰り返す猪苗代氏の嫡男平太郎に「盛」の諱をあたえ融和させるとともに猪苗代盛国と称させ元服させる。足利義輝は再び伊達稙宗と晴宗父子の和解のため聖護院道僧を遣わす。
1553(天文22)信州深志城(長野県松本城)の小笠原長時は、長年武田氏と雌雄を決していたが、武田信玄との桔梗原の戦いに戦死するもの多く出たため、長時遂に力屈し越後の上杉謙信を頼ることになり、いったん将軍足利義輝の庇護を受ける。
1565(永禄8)将軍足利義輝が弓馬の師範として仕えていた家臣三好長慶によって殺害される事件が発生し、小笠原長時は難を逃れて会津伊南の河原田盛継を頼り、さらに芦名の四天宿老の富田美作守の客分として会津に逗留する。
 上杉謙信と武田信玄の川中島の戦いが始まる。佐瀬常昌の二男で佐瀬信濃守常和(つねかず)は、大学助と称し堂島館に住んでいたが武田信玄とよしみを通じていた。さらに佐瀬若狭は、大沼郡西勝(会津高田)に館を築いていた。
 8月越後の大熊朝秀・城資家らが長尾景虎に背き、武田晴信に降り、芦名氏の家臣山内舜通に書を送り越後を攻めるよう依頼してきた。山内舜通は赤谷城将小田切安芸守に津川を襲わせる。8月21日 芦名盛舜が死去。
1555(弘冶1)松本与右衛門輔敦(すけあつ)(明応元年に謀叛を企てた松本輔忠の3男)と猪苗代氏支族の小桧山藤八及び小桧山盛季とが謀叛を企てたが、芦名盛氏は直ちにこれを討伐したため二人は敗死する。
上杉謙信と武田信玄が再度川中島で戦う。芦名盛氏の娘が結城義親に嫁する。芦名盛氏は松本与右衛門・小桧山藤八を誅する。
1556(弘冶2)8月、再び越後の大熊朝秀らが武田晴信に応じて長尾景虎に背き合戦になる。会津の山内舜通も武田晴信の誘いにのり赤谷城将小田切安芸守に朝秀らを助けさせる。さらに芦名盛氏も武田晴信と結び小田切安芸守を越後に侵入させる。
1557(弘冶3)芦名盛氏は佐瀬氏を小田原に遣わし北条氏康に願い、白河、佐竹の和睦を周旋させる。氏康これを承諾する。
1558(永禄1)4月16日山内治部少輔俊清の子・山内俊政と弟俊範が松本図書助の大沼郡滝谷村岩谷城を攻め落とす。このとき松本氏は在城せず代官の井上河内が居た。河内からの報告を受けた芦名盛氏は山内兄弟を攻めようとしたところ、丁度来ていた山内一族の沼沢出雲守政清が弁明につとめ今後の忠誠を誓ったので芦名盛氏の討伐を免れ、山内兄弟が芦名盛氏に降参したことで一件落着した。
 芦名盛興は伊達晴宗の娘を嫁することを約す。芦名盛氏は長尾景虎と和睦し侵略した土地を返す。岩代軽井沢で銀山が発見。
 芦名盛氏は、二階堂盛義の長男、盛高が甚く気に入り、養子に欲しがる。富田家に養育されている盛氏の腹違いの兄で芦名山城守氏方は、45才になっていたが、この盛氏のやり方に不満をもらしていた。
1559(永禄2)大槻伊東氏の家臣佐柄勘解由らが田村隆顕に通じたため芦名盛氏は1万の軍勢を出し伊東氏のために大槻城を攻める。8月芦名盛氏は佐柄勘解由・大河原弥平太を安積郡大槻城に攻めこれを落し日和田に転戦していった。
 この戦いの目的は、二階堂氏が岩瀬郡の大部分、田村氏が安達郡と安積郡の一部を勢力下においており、安積地方を侵略した田村氏や二階堂氏との戦いに目的があった。しかし、1万の大軍を目の前にした地侍や国人衆は戦わずして従属するものが多くでて、現在の福島県中通り地方はほとんどが芦名氏の麾下に従属した。武田信玄の家臣で小池実次は芦名盛氏に仕え弓大将となる。
1560(永禄3)桶狭間の戦いで織田信長が今川義元を破る。2月芦名盛氏は佐竹義昭・田村隆顕と石川郡松山で戦う。3月芦名盛氏は松本備前を軍将として派遣し那須の合戦は8月まで断続した。さらに芦名盛氏は結城晴綱を助け、白河南郷で佐竹義昭・那須資胤と戦い、ついに那須資胤を陸奥白河小田倉において破る。
 この合戦は棚倉城の東北約2キロにある南郷赤館(結城氏の支流赤館源七郎)で行われた。関八州古戦記では芦名修理大夫盛氏と武者奉行佐瀬源兵衛と嫡男源七郎が参加し、嫡男源七郎が討たれている。10月足利義氏は盛氏に佐竹と結城の争いをやめるよう調停してきた。
1561(永禄4)2月、芦名盛氏が南山丹藤の長沼実国を攻める。富田家では当主の冨田美作守滋実が従軍していたが、この間に会津では滋実の姉婿監物義実と子主膳義祐に奉じられた芦名氏方(芦名盛舜の妾腹の子)が乱を起こした。急報に接した芦名盛氏は急いで黒川に引き返しこの謀叛を鎮圧することになる。
 富田実持は嗣子滋実がいたのに、長女の婿に松山和泉助十三の子を入れ富田監物義実(けんもつよしざね)と名乗らせた。義実は富田氏の分家を創立し主家芦名盛舜(もちきよ)の庶子氏方を養育していたのである。
 24日に監物義実が先ず討たれ、子主膳義祐は捕らえられ3月5日東山奴郎ヶ前川原で斬られる。芦名氏方(47歳)と謀叛に参加した松本大学、松山和泉、三橋左衛門、常世次郎左衛門と氏方の家臣78人は東山の山中で自害する。このとき氏方は46歳で妾と一男があったが、この謀叛のため盛道山高厳寺の僧となる。
 芦名盛氏は平城の小田山城より堅固な岩崎城を大沼郡向羽黒山に築城させる工事にかかる。この城が完成するのは1568(永禄11)で芦名盛氏48歳のときである。
3月29日、芦名盛氏は佐竹義昭と田村隆顕の連合軍と石川郡松山で戦う。この合戦で無類の働きをした新宮吉田新庄衛門重秀、川嶋越中憲俊、慶徳善五郎盛勝、石塚十郎兼盛、小荒井平馬範秀、高久金五衛門頼弘、伊東大和忠興、磯部左馬允有信、佐藤権頭季道、風間十郎実頼、青木勘解由宗俊、樋口頼母兼秋ら12名の者に感状を与え加増する。
3月26日那須野合戦が始まり、芦名盛氏は松本備中の軍勢を派遣するが8月まで断続的に合戦が続いた。
4月、芦名盛氏の庶兄氏方が自害。8月芦名盛氏は上杉政虎に加担し羽前大宝寺氏の応援を得て、斉藤朝信、山本寺定長、藤田五郎左衛門の軍勢を越中に派遣する。また、佐竹義昭・那須資胤の連合軍が白河南郷赤館で結城春綱と戦ったとき、結城氏をたすけるため芦名盛氏自身が出馬する。10月に入ると足利義氏の依頼を受けて、佐竹と結城の和を計る。12月になると那須資胤も調停に参加したため、芦名森氏は北条氏康からその功を賞される。
 12月会津伊南郷河原田盛次の家中で騒動が発生したため、芦名盛氏は長沼実国を南山田島に攻めるが、小川庄津川が焼失してしまう。
 この年、長尾景虎、越後を頼ってきた関東管領の山内上杉憲政を保護したことから上杉の家を譲られる。この年、再び武田氏と川中島で戦う。
1562(永禄5)9月芦名盛氏は領内の醸酒を禁ずる。理由は嫡男の盛興がアルコール依存症になったためである。この年、上杉景虎(謙信)が関東管領になる。
1563(永禄6)4月25日、武田信玄は芦名盛氏に要請して越後に侵入させ、自らは信濃に出撃して野尻城を攻めることになった。芦名盛氏は金上氏と松本氏の兵を派遣し小田切弾正忠政清を中蒲原郡の管名に攻める。小田切氏は藤倉氏の一族で金上氏より分かれて会津の西域と越後の東部に勢力を張っていた土豪である。
7月には芦名盛氏は田村清顕と二階堂照行を攻めるが、二階堂氏を伊達輝宗・岩崎親隆らが助けるため合戦は膠着状態になる。
1564(永禄7)1月、芦名盛氏は上杉輝虎と結んだ伊達輝宗と連年戦うことになる。芦名盛氏は武田晴信と北条氏政、今川氏真と結び越後を牽制侵略しようとするが、上杉輝虎(謙信)は常陸の小田城を攻め、さらに3月には下野佐野城を攻める。
 4月、伊達輝宗は石川但馬に2500の兵をつけ会津檜原を攻める。檜原の穴沢信徳は会津と米沢の国境檜原峠で迎撃して破るが、翌年9月にも伊達勢の侵攻にあい再度大打撃を与えこれを撃退してしまう。芦名盛氏は恩賞として耶麻郡大荒井村(喜多方)を与える。
 上杉謙信の多忙の隙をねらって武田晴信は信濃野尻城を攻略する。その日、芦名盛氏は武田晴信の誘いにより、金上、松本の兵を派遣して越後国中蒲原郡管名の小田切弾正忠政清を攻める。小田切氏は藤倉氏の一族で金上氏から分かれて会津の西部と越後の東部に勢力を張り当時は上杉方についていた。
 5月武田信玄は芦名盛氏と連携し信濃野尻に再度侵入する。さらに芦名盛氏は越後菅名荘にも侵入する。また芦名盛氏は二本松の畠山国冶と戦い殺害してしまう。この年、芦名盛氏は領内の醸酒禁止令を解く。
1565(永禄8)5月19日、松永弾正久秀が足利将軍義輝を殺害したとき駿河安部郡領主安部大和守実信はその難に殉死した。その子坂内実乗(22歳)は本領を失い会津に落ち芦名盛氏に請うて馬場町に住み氏を坂内と改める。
 耶麻郡中部の領主で佐瀬大和守源兵衛の養子、佐瀬大和守種常(たねつね)は、領土の93ヶ村を領していた。中田付村に六斎市をたてたが、不便だとして各村から人夫を徴発し、南の出戸田付村に町割を行ない、周辺の集落を集め小田付村と称し、中田付村の六斎市を此処に移した。さらに富田美作守の子、平八郎常雄を養子にした。(この佐瀬氏と平八郎は伊達政宗との磨上げ原(猪苗代付近の斜面)の戦いで勇敢に戦い戦士したため、三忠碑としてたたえられている)
 6月伊達稙宗が没したため、岩崎親隆が上遠野常陸介をもって二階堂盛義を助け、芦名の領地長沼を攻め取る。7月15日伊達晴宗の兵800が耶麻郡檜原城を再び攻めて敗れる。当時ここを守備していた会津方は、遠藤源次郎、高橋彦左衛門、二瓶内蔵助、赤城内匠、鬚四郎左衛門、穴沢新十郎らで彼らは見事に伊達勢を撃退したが会津側にも70余人の討ち死にをだしてしまう。
 芦名盛氏は本質的には伊達氏との戦いであったが岩瀬郡長沼城の奪還のため須田氏を攻めるが成功せず多くの戦死者をだしてしまう。
1566(永禄9)岩瀬郡の二階堂盛義が黒川に年賀に来たため芦名盛氏は伊達輝宗と和睦し、子の芦名盛興(20歳)と伊達輝宗の妹との結婚を約束する。その誓約書に芦名四天宿老の富田滋実、佐瀬常雄、平田実範、松本氏輔が署名した。
2月、芦名盛氏・盛興父子は岩瀬郡に出兵し二階堂氏の有力な支城の横田城を攻め横田氏を捕らえたため二階堂氏は降参し、長男盛隆(16歳)を人質に差し出す。
 6月上杉輝虎が関東から越後に帰国したため、芦名家臣になっていた山内舜通はこれを祝ったため疑心を残す。この年、芦名盛氏父子は白河南郷に出陣し8月には岩瀬郡から黒川に凱旋する。この地の長沼城は藤倉氏の一族の新国上総介貞通(さだみち)を配置させた。


伊達政宗誕生
1567(永禄10)、伊達正宗(梵天丸)が出羽米沢で誕生した。
1568(永禄11)3月、芦名盛氏は石川晴光を攻めることになる。ことの起こりは結城義親が佐竹義重に石川郡沢井の地を望むが、盛氏は赤館左衛門尉に対しこれに関与せざることを述べ今後も結城氏に同地を渡さざることを誓いさせた。
 しかし沢井と白河は直線距離で20キロたらずで沢井には有光の3男沢井三郎が住んでいたので、結城氏の石川郡侵入を恐れた赤館左衛門尉は、芦名盛氏に訴え石川晴光攻撃となった。
 越後では本庄繁長が武田信玄に応じ上杉謙信に対抗しつつあった。そのとき小田切孫次郎が本庄繁長に応じ越後に出陣し、さらに芦名盛氏に応援を請うたが。芦名盛氏は石川氏との戦いがあるためこれを断ってしまう。
 4月芦名盛氏は永禄4年に着工していた向羽黒城が完成したので家督を子の芦名盛興(22歳)に譲り46歳で隠居することになった。さらに5月、芦名盛氏は結城義親に対抗して上館左衛門と盟約して会津を堅固にする。このため8月、長江庄の長沼氏が証人をだして芦名氏に服属する。
 12月、武田信玄が越後村上城の本庄繁長を誘い上杉輝虎に叛かせるが、芦名盛氏は伊達輝宗と密かに繁長を助ける。後に芦名盛氏と伊達輝宗は本庄繁長と上杉輝虎の間の講和を仲介することになるのである。
1569(永禄12)3月、越後村上城の本庄繁長は芦名盛氏と伊達輝宗に頼み、子顕長を人質にだすことで上杉輝虎に降参する。上杉輝虎これを許す。
1570(元亀1年)5月、伊達輝宗が父の晴信を信夫に攻めようとするのを芦名盛興が諌める。この年、芦名盛氏は畠山修理大夫義国の二本松城に戦いを仕掛けるが、沼沢左近、山内政勝が戦死してしまう。芦名盛氏はその家臣の佐野と赤井を追放してしまう。
 この年、上杉輝虎が入道して上杉謙信と名乗る。会津芦名盛興は政務の重責を担っていた芦名四天宿老の富田美作守氏実(うじざね)に命じて上杉との間の境相論の調停をさせる。
1571(元亀2年)2月、佐竹義重は白河の小峰義親を攻めるが、芦名盛氏と田村月斎が結城晴綱を助け佐竹義重を退ける。芦名盛氏は、これを伊達輝宗に安堵するよう告げる。これを聞いた北条氏照が書を送りこれを褒める。
 5月、北条氏照と氏政は芦名盛氏と共に佐竹義重を挟撃するため下総の国結城に出兵した。6月、佐竹義重が白河の南郷に出陣したため、白河(小峰)義親は田村氏と芦名氏に応援を請う。
 田村月斎が芦名盛氏の命令を受け出兵することを告げるとともに、北条氏政が佐竹義重を討つため芦名盛氏に支援の出兵を要請してきたため芦名盛興を岩瀬郡長沼に出陣させた。芦名盛興は東白川郡寺山に進出した佐竹義重と戦い8月に帰陣してきた。
 芦名盛氏は芦名盛興の戦いに満足せず岩瀬長沼に出兵し佐竹義重と戦うことになった。芦名盛氏と田村清顕が白河郡寺山の羽黒を攻め佐竹軍を破る。
 しかし、この芦名盛氏の出兵を狙って伊達稙宗が田村隆顕に書を送って行動の準備をしていた。
 10月、芦名盛氏は子盛興の病気により領内の造酒を禁ずる。病気とは、子の盛興が酒害(アルコール中毒)になっていたことが原因である。
 このころ天海は武田信玄のもとにいた。天海は伊藤薩摩守の支族で、伊藤氏は安積郡郡山の山頂に周囲6町30間余の鞍馬城を築き、常夏川を隔てて築かれていた朝日城に対比して別名を「夕日城」とも称していた。天海は、天正17年の磨上原の戦いに戦功ありて芦名義広から感状がでることになる。
1572(元亀3年)4月、芦名四天宿老の富田美作守滋実が没したので、富田氏実は、かねて懸案の耶麻郡新宮の田村両村の境界の調停を行う
 上杉謙信が芦名盛氏と佐竹義重との間を斡旋しようと乗り出してくるが、芦名盛氏は田村清顕とともに白河(小峰)義親を助けて佐竹義重と白河郡寺山に出陣してゆく。
1573(天正1年)3月、芦名盛氏は白河で佐竹義重と戦いこれを破ると、上杉謙信は手のひらを返しこれを祝してきた。
 芦名盛氏は再び佐竹義重を攻めるため北条氏政に書を送るが氏政は出兵できない旨を告げてきた。しかし、22日、北条氏政が下野の国に出兵してきたので、芦名盛氏はこれに応じ佐竹義重を攻めるよう要請する。
 7月、北条氏政は、芦名盛氏に下野の国宇都宮出兵の遅れを謝り、また佐竹義重との断行を勧めてきた。しかし、翌月の8月、伊達輝宗が二本松の畠山義継を攻めたため、畠山義継は芦名盛氏に援軍をもとめる。
 芦名盛氏は出兵し二本松城を守るとともに田村清顕に依頼して援軍をさせたが、田村氏が芦名氏と佐竹氏との間を調停して一時的に和睦させる。また白河氏と佐竹氏の間も和睦となった。
 しかし、茶臼館(郡山城)の郡山太郎右衛門朝祐は、田村氏の安積攻略に加担していたにもかかわらず田村清顕の没後、伊達正宗に属してしまう。
 伊達晴宗の4男に生まれ永禄6年(1563)に石川晴光の嗣子になっていた石川昭光(あきみつ)は、佐竹、芦名、二階堂、白河の連合勢力と結合し、実家の伊達氏と郡山地方をめぐって対立していた。
 このとし、天海は芦名盛氏の請に応じて会津に帰錫し、黒川稲荷の別当として芦名義広が落ちる16年まで在住することになる。
 会津の国人衆の荒井一族は、荒井因幡守が会津下野(北会津村)の舘(東西19間、南北33間)に住み、荒井左京之介が会津上荒井村(喜多方)に舘(本丸東西30間、南北50間、二の丸東西42間、南北28間、三の丸東西34間、南北30間)を築き住んでいた。別名を、荒井満五郎といった。さらに、荒井丹波が河沼郡古坂下(会津坂下)に舘を築き住んでいた。
 この年、田島鴫山城主の長沼氏の譜代大竹肥前が長沼盛秀に従ってたびたび戦功をたてていた。
 宗派では曹洞宗の快元が越後よりきて耶麻郡竹屋村(塩川町)の北方山下に、観音堂を建立し運慶作の如意輪観音坐像を安置する。慶安4年(1651)に寺地が中屋沢の現在地に移され寺名も大雲山観音寺と改名された。本尊の木造如意輪観音像は87.5センチ、桧の寄木造りで玉眼をいれ6臂像としては会津最大のもので、昭和30年、福島県の重要文化財に指定された。
 この本尊の木造如意輪観音像には、竹屋のおはる伝説という物語がある。
 天正元年陰暦3月、世は織田信長が比叡山を焼き払うなど下克上の戦国時代の真っ只中、越後街道をそのたけ7尺肩幅3尺もあろうかと思われる大入道が歩いてきた。その坊主、体に似合わず目は童眼、顔は穏やかで慈悲に満ちていた。そのうえ背負っていた笈からは、燦然と金色の後光が射していた。
 竹屋にさしかかる頃、陽もだいぶ西に傾き、そこここの家からは炊煙が立ち上りはじめた。坊さんは、しばらく周囲をみていたが、やがて我が意を得たりとにっこり微笑んだ。この地こそ、わが終焉の地と悟ったのだ。
 地元民の協力を得て、妙峰山明蓮寺という1寺を建立、運慶作の如意輪観音像を安置した。
 法堂は荘厳を極め、木翁快元の高徳をしたって各地から人々は集まった。それからしばらく時が経ち、戦国乱世の世もようやく終止符がうたれ年号も文禄になると、人心は平安の安らぎに甘んじるようになり、心驕り、いつしか上下を問わず生活が贅沢に走るようになってしまった。
 快元はこの世の風潮に心を痛め、衆生の迷いを正そうと堂内に21日間籠り、かくて摂心黙座した。
 やがて満願の日の夜、座禅を組んでいる快元のもとに妙なる楽の音が聞こえ、曼荼羅が降り注ぎ、香華の紫煙の漂うなかに観音経が聞こえてきた。快元は夢見る気持ちで読経に聞き入っていると、須弥壇上の観音菩薩が忽然と消えていた。
 そのとき竹屋の庄屋の屋敷に夜半だというのに、ひとりの卑しい女が門をたたいていた。庄屋が会って見ると、名を「あはる」といい、いやしい身なりなのにどことなく気品に満ちていたので、その夜から下女として住み込むことになった。
 庄屋が見込んだ通り、おはるは、次の日から小鳥のめざめに先がけて起き、箒と箱をもち村中の道より馬糞を集め、川べりに捨てられた野菜くずも一緒に肥料として田畑に撒き、夜は夜で仕事が終わると捨てられている衣類を縫い合わせ再生し、その無駄の無い働きは目を見張るものがあった。
 しかし、庄屋は満ちたりた生活のなかにあって、おはるのすることは、あまりにも汚らしく思われた。ある日、庄屋は、おはるが台所の流し口に袋をつけ、そこに流れこんだ残飯を洗って食べている光景を目にした。
 「これ、おはるよ、お前はなんと情けない真似をしている。そんなものを食べなくても、おまえには食べ物を十分に与えているではないか。村人が見たら、庄屋の家では下女にろくに食うものを与えていないのかと言われる。もう二度とそんな馬鹿な真似はしてはならぬ。」としかりつけた。
 すると、おはるは「ご主人様、五穀は人間の命を支える大切な糧。布帛は人の体を覆う大切なもの。例え一粒の米や端布といえども無駄にしたり、奢ったりしてはなりませぬ。常に倹約の心を忘れず、足りては布施を忘れず、日々の行をなおざりにしてはなりませぬ。 光陰は矢よりも早く、人の命は露よりもはかないものです。今生のわが身は二つなく、三つありません。速やかに仏、法、僧の三宝に帰依し奉りますように」という。
 おはるの声は厳かに澄み、眼差しは慈愛に満ちていた。庄屋は思わず知らずのうちに頭が下がり自然と膝が折れ、気がついたときは、おはるの足元にひざまずいていた。
 おはるの姿は、忽然と五色の雲に座した如意輪観音のお姿に変じ、金色に輝きそのまま天に上っていった。おはるのいたところに、3寸ばかりの観音菩薩が残されていた。それから竹屋の村は、庄屋を手本に元通り奢らず、偽らず、そして施しのある平和な村になり、何時戻られか、明蓮寺の須弥壇には観音菩薩が再座されていた。これが会津の「おはる伝説」である。


芦名盛興の死、上杉謙信の死
1574(天正2年)1月、芦名盛氏は田村清顕をたすけて須賀川に二階堂盛義を攻め、2月には佐竹義重が白河に出陣するという混戦状態を呈していた。 芦名盛氏は白河(小峰)義親をたすけるため結城晴朝、田村清顕、那須資胤と手を組んで長沼に出兵していった。
 まず戦いは佐竹義重の白河義親の属城赤館をせめることから始まったが、芦名氏などの参戦で佐竹義重は白河より敗退していった。
 3月、芦名盛氏は、伊達輝宗に芦名、田村、佐竹の三者の和議仲介を斡旋して、赤館で会し和睦することになった。
 しかし、芦名盛氏は、伊達輝宗の斡旋に不満のため、この日から僅か17日後の3月23日に出兵して田村清顕を岩瀬郡越久及び安積郡富田に攻めたてた。しかし、越久の合戦で芦名方の鵜浦氏の45騎が 討ち死にし、富田氏では関脇氏が討ち死にしてしまった。
 続いて5月13日、芦名方の松本氏興らが安積郡福原で田村氏と戦ったが敗北してしまう。主な芦名方の重臣のものだけでも松本到輔、富田新太郎、富田源三、平田一味斎、大場新介、大田彦六、青木与太郎、今泉右衛門、酒田備中、古耶野主膳らが討ち死にしまい大敗してしまう。
 この期を見ていた石川の民部少輔晴光が佐竹の援助で再度謀叛を起こした。芦名盛氏は、兵4000を率い仙道に出陣し、妹婿にあたる須賀川城主の二階堂氏の援軍を受けてこれをやっと絶滅させることに成功する。
 芦名盛氏は仙道の統制と防備強化のため軍議し、譜代の重臣の中から野沢の荒井右馬允重信を抜擢して安達郡入間の城主を命じるとともに、仙道目付の役を仰せ付けた。荒井重信は入間城に入ると、村名を荒井と改め、入間城を改築し三本松城と改称した
 この年、二本松城主の畠山左京大夫義継(よしつぐ)は、50騎の軍役を差し出す条件で伊達輝宗に服属してしまう。
 8月、芦名盛氏は安積郡河内城を攻撃しようとするが畠山義継の請をうけ許すことにした。しかし芦名盛氏は田村隆顕と清顕父子を寺山における佐竹義重に備えさせ、自らは東義久を羽黒において戦い、那須資胤が大関高増を派遣して盛氏を応援したためこれを破ることができた。
 さらにこの日、二本松城の畠山義継が塩松城主大内定綱と謀り、伊達実元を八丁目城に襲ったが思うようにいかないため援軍を芦名盛氏に求めてきた。
 芦名盛氏は、那須資胤と結城(白河)義親を白河で会し、佐竹義重を討つ計画をたてた。この情報に接した佐竹は機先を制して白河の赤館を襲うが、芦名盛氏が迎撃し破る。3ヵ月後の11月に芦名盛氏、結城(白河)義親、田村清顕の間に和議が定まる。
1575(天正3年)1月、上杉謙信は養子の顕景を景勝と改名させ、弾正少弼の官途を与える。3月4日、先に伊達実元が二本松の畠山義継の攻撃を受けたことにより反撃にでる構えをみせた。そこで畠山義継は背後に伊達輝宗のあることをおもって芦名氏の応援をとりつけながらも和議を申し入れてきて和睦してしまう。
 5月、芦名盛氏の兵と大沼郡屋敷(会津高田)船岡城主で芦名四天宿老の松本図書勘解由氏興らが安積郡福原(郡山)で田村清顕の兵と戦ったが敗北して討ち死にしてしまう。松本勘解由の嫡子、太郎実輔はまだ3才であったが、芦名盛興の思し召しで俸禄を父の代と変わりないこととし、家之子郎党にも太郎を大事に育てるよう指示した。しかし、その後芦名盛氏がなくなると芦名盛隆に疎んじられ、これを恨みに謀叛し敗れて自害することになる運命にあった。
 その年の6月、盛氏の子の芦名盛興(39)が酒に溺れ没してしまう。芦名盛興には永禄(1558)頃、伊達晴宗の8女が嫁していた。しかし、芦名盛興には庶子の芦名力丸がいた。母は片平助右衛門氏範の女で、本妻の嫉妬を避けるため実家の氏範のもとで生まれた。しかし、老臣の合議で18代芦名の当主が二階堂盛隆に決まってしまい力丸は、かえりみられなかった。
 芦名盛氏は須賀川の二階堂盛義の盛隆をいれて跡を継がせることにした。
1576(天正4年)1月、芦名重臣の金上平六と針生民部が座の上下で争い険悪になったので天寧寺東堂と妙法寺住持の意により芦名氏が仲裁した。
 二階堂盛隆(26)が芦名盛興の未亡人(25)と再婚し、ほどなくして1子、亀王丸をもうけることになる。
 3月、芦名盛氏は佐竹義重の白河進出をにくみ、岩瀬親隆、田村清顕と連合して佐竹を討とうとするが伊達輝宗が仲介を計る。佐竹義重は喜び伊達輝宗の言をいれ盛氏と講和する。
 8月、芦名盛氏と盛隆は伊達輝宗と組んで相馬盛胤を打ちに行くことになっていた。その隙に乗じ佐竹義重は田村清顕と組んで芦名の将で新国上総を岩瀬郡長沼城を攻めにかかる。そのため、芦名氏は、その旨を伊達輝宗に伝え戦に参加できないことを謝す。
 芦名盛氏が田村清顕と和睦したため、佐竹氏は戦い利ならず白河城に兵を返してしまう。
 9月、芦名盛氏は伊達輝宗に相馬盛胤との講和を勧告するが失敗。さらに、10月、芦名、田村、北条氏政が伊達と相馬の和を計るが成立しなかった。
1577(天正5年)2月、芦名盛氏は伊達輝宗に田村清顕との講和をすすめるとともに、芦名盛隆に実父二階堂盛義と安積郡に出兵するよう命じた。
 7月、上杉謙信は越中に出陣中であったが佐竹義重は謙信と北條氏政に備えていた。芦名盛氏は北条氏政に応じて佐竹氏についていた結城義親を白河に攻める。
 7月、日野中納言家元卿の裔で川島憲定が芦名盛氏に使えるため会津にくる。盛氏は川島憲定に大沼郡赤館小俣清水を与える。
 10月、芦名盛氏は領内に移入する商品に課税を定めるとともに田村清顕と佐竹義重と同盟することにした。
1578(天正6年)1月、芦名盛氏は上杉謙信の能登、加賀平定を祝賀する使節を送る。しかし、その年の2月、河沼郡野沢大槻館主大槻政通と大沼郡西方館主山内重勝は上杉謙信に通じて芦名盛氏に背いてしまう。
 芦名盛氏は大変怒り、柳津で合戦を行うことになった。
 大槻政通の遠祖は佐原十郎義連の孫で本姓は北田氏である。大槻正通の5代まえの大庭駿河守政泰と3人の弟、北田氏は応永17年(1410)6月芦名盛政に滅ぼされているが、長男、大槻国通は死を免れ血統を伝えていた。
 大槻政通は野沢大槻城に住み、大庭姓を大槻姓に改めていた。しかしこの大庭氏が歴代の功労を誇って驕りの行為があったため、芦名盛氏は、その禄を削り野沢原町の大槻舘に蟄居させられていた。この処置に大槻政通は不満をもって、ここにいること3年、ひそかに娘婿の西方(三島町)の地頭山内重勝と謀って越後の上杉謙信に内応し恨みを報ぜんとしたのである。
 山内重勝も一族の河口(金山町)玉縄城主の地頭、河口左衛門佐を誘うつもりで、斎竹という盲人を使者として遣わしたが、左靭というところで使者がこの密書を落としてしまった。密書は拾われ黒川に送られ芦名盛氏の知れるところとなった。盛氏は直ちに政道を討つため兵を出す。
 大槻政通はこの知らせを聞くと、山内重勝と協議して下野尻、小島、夏井などの地頭と示し合わせ、片門の渡しに兵をだした。
 一方、芦名盛氏も平田舜範、佐瀬不及(河内守常昌の長男大和守常教)、富田美作守(滋実の二男氏実)、伊藤大膳らに命じ片門(会津坂下)の渡しに向わせ、自らは金上盛備、生江基氏、松本輔光、新国頼基らの武将を率いて柳津の渡しに向った。
 互いに只見川の嶮岨に陣を構えて二日ほど戦った。山内勢が微勢であったので壊滅に瀕し、これを助けるため政通は手勢を分けて授けようとしたが、援兵が到着しないうちに山内勢は敗れ、西方に退いて自害してしまった。
 大槻政通は力を落とし、一族郎党ら30人を密かに山内の領に行かせようと思ったが、この日はいたく雪が深く降りしきりそのうえ皆飢えていた。
 一味は種子池淵(宮崎)の岩屋にこもり雪の止むのを待っていると、そこに猟師の孫兵衛と名乗るものが通りかかった。
 大槻政道は彼に飯と鞋(わらじ)を乞うと、こころやすく引き受け、甲斐甲斐しく走り回り賄をした。
 大槻政道は礼に判金1枚を与え、さらに上條の方へ案内を乞うた。孫兵衛はその足で芦名盛氏方の河口左衛門佐のもとに行き、これこれしかじかと密告してしまった。
 河口は即座に衆を集め猟師を先頭に押し寄せた。大槻政道は思いもよらず岩屋の四方から鬨の声が上がったので、防戦するが河口勢がびっしりと岩屋を取り囲む。そのとき突然、猟師の孫兵衛が足を滑らせ岩屋の政道のまえに転げ落ちてきた。政道は怒って一気に刺殺してしまった。
 しかし、河口勢の防戦もむなしくことごとく討ち取られ、その首は盛氏に届けられたのである。
 2月にも安積郡大槻城主の伊東行綱が謀叛をおこしたので、これを鎮圧すべく芦名盛氏とともに芦名盛隆は安積に初陣し行綱を誅した。
 上杉謙信は、この年の3月13日、病気で死去してしまう。謙信は妻帯していなかったため北条氏政の7男で景虎、その弟の長尾政景の子の景勝の二人を養子にしていた。謙信の死によりこの二人は家督を争うことになる。


芦名盛氏の死と芦名盛隆
 1578(天正6年)3月、上杉景勝が越後春日山城に入り養父謙信の家督を相続する。
 しかし、北条氏照は謙信の死を信じられなかったので書を芦名盛氏の家臣荒井釣月に託し上杉謙信自殺の虚実を問うたため、芦名盛氏は謙信の死去の安否を小田切孫七郎に探らせるため、会津の兵を越後に侵入させた。
 4月、上杉景勝は芦名盛氏に謙信の死去を報じ、今後も懇意になることを誓う親書が寄せられる。しかし、芦名盛氏は景勝から親交の親書をうけていたにもかかわらず、上杉景虎に応じ越後に攻め入るが小田切玄蕃允貞満、金上氏の家臣で瓜生三郎・長谷川織部・坂内清右衛門・大槻清兵衛・矢部宮内など40人ほどが討ち死に敗北してしまう。
 5月、また小田切冶部少輔が蒲原郡菅名に攻め入り同じく敗北してしまうが、9月14日、小田切弾正忠と金上盛備が再び北蒲原郡に侵入し安田城をようやく攻め落とすことが出来た。
 しかし、上杉景虎は春日山城を追われ上杉憲政を頼るが、天正7年(1579)3月、鮫尾城で自害してしまう。
 天正7年(1579)4月、西方の侵略を開始していた田村清顕は鬼生田を攻めたため、富田新九郎が田村清顕に内応し、ついで安積郡の久保田を攻める。
 この年、芦名氏の重鎮で入間の三本松城の城主である荒井重信が、老齢に耐えずということで嫡男新兵衛政頼(杢之丞)に家督を譲ることの許しを芦名盛氏に得て、野沢に帰り仏門に入り道隋と号す。(天正10年(1582)3月、76歳で没)。
 荒井新兵衛(杢之丞)政頼は嫡男の荒井経政(つねまさ)を仙道にいる立場を考慮して芦名盛氏のもとに人質としてだしたので、松田外記、後に富田将監に養育される。
 佐竹義重の次男である義広が、佐竹勢力の白河征服に伴い白川義親の養子になっていたが、芦名盛氏は、この義広を養子として向かいいれ芦名盛隆と名乗らせた。
 芦名盛氏、6月、60才で死去する。盛氏は死に際し、1575(天正3年)松本図書勘解由氏興が安積郡福原(郡山)に田村清顕の兵と戦い敗北し、勘解由の嫡子、太郎が松本家をついでいたのを呼び出し「このものが15歳になったら四天宿老の列に加えよ」と遺言した。
 このとき田村大膳大夫清顕は西方への侵略行動をはじめていて、まず反旗を掲げていた田村の重臣・鬼生田弾正顕常を攻め、ついで安積郡の久保田を攻める。この挙兵に芦名の家臣である富田新九郎が田村氏に内応する。
 この田村氏の西進は芦名氏を刺激し芦名盛隆は1580(天正8)4月に田村口に兵を出す。
 14歳になっていた、松本勘解由の嫡子、太郎は芦名盛隆が黒川を出陣するさいその軍の一員としてお供を願い出たが、盛隆は幼いという理由で黒川に残し、さらに松本氏の領地を召し上げ沼沢出雲に与え、三の丸にあった松本氏の屋敷も幼少では役にたたぬと近習の者に交代させられた。さらに太郎の屋敷は南丁の稲荷側に移された。

このことを松本氏は遺恨に思うようになり、のちに謀判を繰り返すのである。
 三本松城主の荒井新兵衛(杢之丞)政頼の嫡男で芦名盛氏の人質になっていた荒井経政(つねまさ)は代田荒木の舘を賜り、盛隆の側用人として仕える。
 芦名盛隆は、養父の喪に服するいとまもなく7月には安積郡の多田野を攻める。多田野は安積郡の郡山市で東西南北への交通の要衝で西進すれば三森峠を経て猪苗代湖南の中地に至り、そこから赤津を経て会津領に至る。東進すれば約4キロで大槻に達するのである。
 大槻城には応永のころから伊藤氏の一族大槻氏が住んでいるが、長男の行綱は天正6年(1578)2月に芦名氏に対し謀叛をおこし誅殺されており、その妹が田野城主の多田野十郎の妻であったため芦名氏に攻められたのである。
 芦名盛隆のいでたちは、緋縅の鎧に三階傘の馬印、近習の者のいでたちも全て緋の鎧を着、四天王は卯の花の鎧に大半月の前立ての甲を冠っていた。戦いは多田野氏が敗れ、その妻は捕らえられ会津に送られ天寧寺下南川原で磔にされてしまう。
 1581(天正9)5月、芦名盛隆は佐竹氏と共に田村氏を攻めた。
 盛隆は8月には織田信長に荒井万五郎(耶麻郡野沢の地頭)を使者としてたて馬10匹と蝋燭1000を進献した。荒井万五郎は中の目式部大輔の組士で北会津郡上荒井村にすみ、本丸が東西30間南北50間、二の丸が東西42間南北28間、三の丸は東西30間南北30間の館を持っていた。
 この礼に報い織田信長は芦名盛隆に三浦介の称号を許したのである。三浦介の称号は加納盛時以来、330年ぶりに戻ってきた称号であった。この栄光はすでに過去のものであったが、芦名盛隆は御礼言上のため金上兵庫盛備を再び使者として上洛させた。金上兵庫盛備は使者の功により従五位下遠江守に任ぜられたのである。
 金上氏の作法を指導したのが小笠原長時であったといわれる。長時は武田氏に攻められたあと越後の上杉氏を頼ったが、最後は会津に入って芦名盛氏の客分となり、ときの芦名盛氏はこれを軍師として待遇していた。
 さらに織田信長は荒井満五郎を主計頭に任官せしめた。帰国した満五郎は別に宇津野に50貫文の地を賜り、以後、荒井主計頭頼成を名乗ったのである。
 この年、松本勘解由の一子、太郎は15歳になったが、芦名盛隆から何の音沙汰もなく、天正3年の父松本勘解由の討ち死に、1579(天正7)の盛氏の遺言が守られなかったこともあって、このことを恨みに思っていた。
 この年、会津国人の将監、富田隆実(13)が芦名盛隆に仕える。

このころ上杉景勝は越中富山城を陥し、さらに森長可を攻めていたので、小田切弾正忠が上杉景勝の不在を利用して侵入の意とを報じたが芦名盛隆はその行動を抑制し、逆に上杉景勝に書簡を送り新発田重家との和睦を斡旋したのである。
 上杉景勝は、5月には魚津城を攻め、7月には川中島を確保した。

芦名盛隆は佐竹と同盟して5月、田村清顕と安積郡御代田で戦っていたが兵力の二分を恐れたため、芦名の優位もあり伊達輝宗が仲介に入り合戦は終わる。
 この合戦に参加したものは、高倉城の高倉近江、高玉城の高玉太郎、玉井の太田主膳、杉田の杉田豊後、椚(くぬぎ)山の新城弾正などが参加した。このころの芦名領は岩瀬郡だけで成田、瀧、長沼、江花、勢至堂、上牧の内、下牧の内であった。
 しかし7月にはいると田村氏が守山で二階堂氏と戦いをはじめたので、芦名氏の四天宿老の富田氏が第3陣として出撃していった。
 11月、上杉景勝(28)が芦名盛隆に同盟の誓詞を要求してきたので応じることになった。その誓詞の旨を富田氏実が越後の上條政繁に報告している。上杉景勝は富田氏実の忠貞を賞して越後国堀を氏実に与えた、即ち懐柔策である。
 1582(天正10)2月、結城氏、芦名氏、佐竹氏の盟約が成立したのである。
 しかし会津では4月に大荒井村の年貢徴収問題で小荒井村(喜多方)の地頭小荒井阿波と穴沢信堅が戦い穴沢氏が勝つ。芦名義広は私闘であると判断し、信堅の父信徳が恩賞で拝領した大荒井村を没収した。
 ことの起こりは耶麻郡小荒井(喜多方市)の隣の大荒井・檜原の地頭穴澤新右衛門信堅の年貢の徴収は、里から離れているため非常に不便があった。小荒井阿波は自らこの年貢収方をかってでて、穴澤氏のもとに届けていた。ところが同村の農民が、阿波が中間で私利を貪っていると中傷し穴澤氏に訴えた。阿波は穴澤氏に厳しく詰問されたが、もとより濡れ衣であったので、これを無視した。
 このため穴澤信堅は小荒井阿波を攻めたのである。小荒井阿波の郎党の万部院、大善院らが討ち死にし、さらに阿波は坂井館に立てこもるが火をかけられ、やむなく黒川に走り芦名盛隆に訴えたのである。
 芦名盛隆は阿波の不義にして勇なきを怒り、また穴澤信堅も私闘の罪で双方の所領を没収したのである。
 5月、田村清顕が二階堂盛義の喪に乗じ、その領地新田を侵略し始めたので、芦名盛隆は佐竹義重、白河義親と共に安積郡田村の属城御代田を攻撃したが伊達輝宗の仲介で田村清顕は侵略地を返還することで和睦した。
 この年、織田信長は津田信益と蒲生賢秀に安土城を守らせ、近臣数十人を従え京都本能寺に入る。越後の新発田重家が織田信長に意を通じ間接的な臣従となった。芦名盛隆も重臣金上氏を使者にたて瀧川一益に違約のないことを申し入れた。その3日後、織田信長は明智光秀に攻められ本能寺で自害してしまう。
 越後では上杉景勝が織田信長勢の攻撃を受け一時は苦境にたったが信長の死去に伴い信州の大半を平定した。芦名盛隆はこれに祝意を述べ、新発田を攻略する賛意を示した。
 8月、上杉景勝は新発田重家と八幡で戦い之を破り9月に帰陣し、芦名盛隆に報告し援兵を感謝した。(その後、慶長3年に上杉景勝は会津120万石の領主として赴任することになるのである。)


小笠原長時暗殺

1583(天正11)2月25日、芦名重臣の富田氏実の屋敷で予期しない事件が発生した。
長年、武田氏によって深志城を追われていた城主の小笠原長時は、芦名四天宿老の客分になっていた。この年、豊臣秀吉の計らいにより深志に帰ることになり、長時の家族と、その家臣坂西勝三郎夫妻が稲ノ台(米代)の富田邸に招待された。
 このとき酒に酔うあまり、坂西勝三郎は、小笠原」長時が勝三郎の妻にたわむれたという言いがかりをつけ、いきなり抜刀して小笠原長時と妻そして3人の息女を斬ってしまった。勝三郎は、将監の家臣星安芸忠兵衛と日出山又二郎詮次によって富田邸門内で討ち取られた。
 ことの理由は、坂西夫妻が仕組んだ謀殺であった。今の会津若松東山にある宝雲山大龍寺(前身、慶山寺)に小笠原長時の菩提寺が建立されている。現在、大龍寺には三基の位牌が安置されており、小笠原氏の息女が愛玩していて同時に斬られた人形(尼母様)の首と左手とが保存されている。
 その後、小笠原長時の子の貞慶が信濃に帰り、譜代の家臣を集め松本城を取り戻し子孫を繁栄させた。
 5月になると上杉景勝の使者、鴎閑斎なる人物が会津に来て援軍の要請をしてきた。上杉景勝は小田切弾正忠に領地を与える条件で盛隆に斡旋を依頼したのである。芦名盛隆は景勝の督促に負け新発田氏討伐に兵を出す約束をしたため、小田切氏に対し会津からの命令に従うことを再度指示している。
 5月15日何度かの上杉景勝の督促で芦名盛隆は塩松に出陣する計画で小田切但馬守(弾正忠の一族)を呼び寄せ景勝に援兵を送る。
 この頃芦名氏と上杉氏との老臣同志は書簡を通じて秘密裏に交渉を持っていた。会津側は富田氏実、上杉側は直江兼続である。6月とうとう上杉景勝に内応した栗村氏と松本氏が黒川で謀叛をおこしたのである。
 7月には芦名盛隆は田村氏と戦をはじめこう着状態になっていた。9月、白河結城氏の支族白川右近大夫なる人物が白河を逃れて会津にやってきたが柳津村の八満堂で病死してしまう。
 1584(天正12)4月、伊達政宗はとうとう相馬義胤を攻め始めた。芦名盛隆は須江弾正衛門尉を派遣し、当初、伊達政宗を支援したのである。このことで伊達氏から感謝の書簡が届いた。このころの芦名盛隆は、伊達氏と関係浅からぬ田村氏と戦い、一方で佐竹義重を応援するなど戦国大名らしいかけひきで多忙であった。
 しかし伊達氏は5月10日、檜原の大森四郎左衛門に2000騎を預け檜原を出発し正宗自身も500騎をつれ入田付村に入り芦名領の侵略を始めた。
 芦名の関柴備中が伊達政宗の寝返り100余騎を従え近村24村に火を放った。芦名勢は黒川の北方約3里の浜崎に布陣したのが11日の昼頃で機敏さを欠いていた。
 芦名勢の意見がまとまらない中に、佐瀬河内守の兄の中の目式部大輔が慶徳館の慶徳善五郎を孤立させておけないと、予想される戦場より西方へ一里以上も離れた慶徳に後退するという不可解な行動をとった。従うものは騎馬武者30騎と足軽200人。
 中の目式部と慶徳の二人が関柴備中守の館へ押し寄せんと東北へ2里弱の下柴に500人が進出した。これを知った佐瀬はその応援のつもりで300余人をつれて浜崎から下柴に向ったが、統一されたものでなく各自の勝手な行動であった。
 11日、残された四天宿老の3人(富田氏、松本氏、平田氏)は既に詮議の余地はないとして総勢2000余騎をつれ日橋川を渡って漆村に布陣する。
 一方、関柴備中は黒川勢の攻撃を知って伊達成実を総大将として同じく下柴に集結していた。伊達成実が2000騎、関柴・片倉小十郎・原田左馬助で2000騎、合計4000騎の兵力であった。そのころ芦名執権の金上遠江守盛備は10日夜に兵力500余騎をつれ所領津川を出発、本領金上村に立ち寄って3里強の下柴に向っていた。
 伊達勢と芦名勢の合戦は5月12日の午前9時頃から午後3時ころまで行われた。まず芦名の慶徳善五郎の150騎と伊達の原田左馬助の500騎とで始まった。原田左馬助は破られ3町ほど後退してしまう、さらに慶徳が追うと、片倉小十郎の軍勢が横合いから慶徳軍を襲った。そこで芦名の佐瀬河内守、中の目式部大輔、金上遠江守の兵が片倉勢を攻めたので片倉は原田とともに北西約20町の中田付村に退いた。
 しかし、そこに伊達成実の本隊が合流してきたため、会津勢は下柴に集合、中田付村攻撃を前に休息することになった。
 味方の敗戦を知った伊達正宗は500騎をつれて中田付に着き龍泉寺に布陣する。(現在龍泉寺裏は林になっているがその中に布陣するのは守勢のためと思われる)果たして会津勢に攻められ、5、6度は斬り合いになったがついに伊達勢は入田付に後退し正宗はさらに檜原まで後退した。
 謀叛の張本人の関柴備中は、一時期は伊達勢の先鋒を勤めていたが、何故か諸合戦に参加していない。伊達勢が入田付や檜原に後退した後どこからか家臣45人をつれて下柴に現れ伊達勢の敗れ様をみてあきれ果てているところに、高柳の地頭戸石四郎兵衛がきて伊達正宗に降参したい旨を告げたので、関柴は喜んで行動を共にしたが二人の残兵はあわせても100人程であった。

そこへ、さしたる軍功がなかった沼沢出雲と中の目式部大輔の手勢が、その日の戦場整理に現れ、関柴備中勢と切りあいになった。既に夕暮れになっていたが関柴備中と戸石四郎兵衛は6、7騎になるまで防ぎ戦ったが、関柴備中は沼沢出雲に、戸石四郎兵衛は中の目式部大輔に討ち取られてしまう。
 金上盛備は太郎丸掃部に300騎を与えて檜原に備え、浜崎に帰り、また会津勢も黒川に帰る。
 しかし、その夜、太郎丸掃部は入田付を棄てて檜原の伊達氏に寝返ってしまった。またその夜、関柴備中守の父親宮内少輔は91歳で歩行困難であったが、城を焼かれ逃げ出したところを会津勢に捕らえられ黒川に送られ、翌日天寧寺川原で串刺しの刑に処せられた。



松本勘解由の謀判
 1584(天正12)6月3日、芦名盛隆は城東の羽黒山東光寺に登り雅楽を遊覧していた。
 この期をうかがっていた松本勘解由到輔の一子、松本太郎左衛門行輔(16歳)が湯川村笈川館(本丸50間四方、二の丸東西20間、南北10間、三の丸東西8間、南北16間というかなりの規模)の地頭、栗村下総盛胤(長沼城の新国貞道の子)としめしあわせ800の兵を率い反乱を起こし、一時は芦名盛隆の黒川城を占拠してしまう。
 ことの起こりは、松本勘解由到輔が天正3年に安積郡郡山で討ち死にしたとき、一子、太郎が15歳になったとき、芦名盛氏の遺言により四天宿老に列することが決まっていたのに、芦名盛隆から何の音沙汰もなく、このことを恨みに思っていた。さらに松本勘解由到輔が討ち死にしたとき太郎が7歳であったので、芦名盛隆は松本氏の所領を召し上げ、それを沼沢出雲にあたえたので、そのときから、恨みをもっていたのである。
 この反乱をいち早く知ったのは、屋敷が二の丸にあった本名右衛門佐であった。本名氏は東門から本丸に入り、芦名盛隆の妻を助け出し米蔵に隠し、林甚次郎・森台文治郎・大場平五郎の3人の小姓に警護を命じ、事件の発生を東光寺の盛隆に急報した。
 一方事件を察知した近郷の地頭や黒川に居合わせた武士たちが甲冑をつけ武器をもって続々と黒川城に駆けつけてきた。芦名盛隆も側近に中の目氏がいたので、その手兵を従え城下に戻り城攻めを始めた、
 まず佐瀬大学助常和の子佐瀬河内守伝兵衛常成が足軽をつれて奮戦し三の丸に突入し、本名右衛門佐がこれに続くが負傷して後退してしまう。しかし夜に入って、まず松本太郎左衛門行輔(16)が討たれ栗村下総盛胤も深手を負ってうずくまっていた。
 暗闇の中で赤塚定景が松本太郎の所在を尋ねるのを聞きいきなり立ち上がり赤塚定景を刺し重傷を負わした。赤塚定景は気力をふりしぼって栗村下総盛胤の首をはねて芦名盛隆の前に持参した。
 赤塚定景は、河沼郡笠目(湯川村)を領した定則の子で、芦名盛隆の勘気にあい村に蟄居中であった。芦名盛隆は自らの羽織の袖を切り与え勘気をゆるす。定景は感涙にむせび館に帰り酒をくみかわしながら、そのまま不帰の人になってしまった。
 芦名盛隆は忠心を哀れに思いその子、藤太郎に諱の一字を与え、信隆と名乗らせた。耶麻郡松野の勝(すぐれ)次郎も松本行輔に通じていたとして芦名四天宿老の平田舜範(きよのり)長子、慶徳善五郎範重に討ち取られたのである。さらに、栗村下総の兄、新国刑部通基と父、新国上総介頼基は、岩瀬郡長沼にいたが芦名盛隆に討たれる。
 その3ヶ月後の9月18日、芦名盛隆(34)と彦姫の間に亀王丸が生まれる。室は伊達晴宗の女、彦姫で先代の盛興の正室で盛興没後再婚したものであった。次いで芦名盛隆の側女万子に庶子(徳丸)が誕生した。万子は芦名氏の家臣、高橋昇右衛門の娘であった。
 芦名盛隆は三浦の姓と盛隆の一字をもって三浦末盛と名乗らせ加納針生の館に住まわせた。三浦末盛はその後芦名氏の滅亡のとき須賀川の二階堂氏をたより蒲生氏郷の入府ご再び旧領にもどり帰農するのである。さらに芦名盛隆の子女(亀王丸の姉2名)は、それぞれ相馬盛胤の室と佐竹義宣の室になることになる。


 芦名盛隆の暗殺
1584(天正12)10月6日、芦名盛隆は縁側で鷹に餌付けしていたとき家臣の大庭三左衛門(須賀川諏訪神社の神職の子:初め畠山左京亮に仕えていた:盛隆が須賀川在住時代に譲り受け家臣にした)に背後から切りつけられ暗殺されてしまう、年36歳であった。
 大庭三左衛門は、須賀川諏訪神社の神職の子で初め畠山左京亮に仕えていたが芦名盛隆が須賀川在住時代に譲り受け家臣にしていた。
 大庭三左衛門が血刀をさげ門を出ようとしたとき、登城の種橋大蔵(耶麻郡大塩村の柏木城主、大番頭・種橋藤十郎の子)と遭遇し切りあいの末、打ちとられてしまう。
 事の起こりは、芦名盛隆の小姓に代田荒木舘の荒井経政がいた。芦名盛隆には男色の趣味があり、大庭三左衛門は、その寵が衰えたのを恨み凶行におよんだのだ。この事件によって亀王丸は乳飲み子でありながら、芦名家19代を継ぐことになる。父と祖父の一字をとって隆氏と称することになった。
 偶然にもこの年月に伊達正宗(18)が家督を相続したのである。猪苗代盛国が相続のお祝いのため使者を送り祝辞を述べる。伊達正宗は喜び、3人の家臣(鮎貝忠宗、浜田景依、原田宗綱)に日を異なって猪苗代盛国の祝意に書面で答えた。
 しかし天正14年4月、芦名隆氏はわずか3歳で天折してしまう。城内では、重臣会議がおこなわれ、猪苗代氏と富田氏・平田氏は伊達家から政宗の弟の小次郎を迎えることを主張したが、重臣の金上氏が佐竹義重の次男義広を迎えることを主張した。結果は金上氏の主張が通り義広は芦名盛興の女婿として天正15年(1587)入嗣し、代田荒木舘の荒井経政が再び義広の小姓となったのである。
 芦名盛興の庶子で力丸の伯父、片平氏範は、今度こそは芦名の世継ぎになれると思っていたが、安に相違して佐竹から義広が養子として迎えられたので、憂憤に堪えず病と称して己が所領の舘にこもって、伊達政宗に通じるようになる。
 この家督相続をめぐって芦名家では、外に伊達氏との対立を深め、内には家中の対立を起こすことになった。こうした事態の中、義広は自ら豊臣秀吉のもとえ伺候することができず、翌年金上氏を名代にして石田三成を通じて義広入嗣のことを言上した。このとき三成は、義広が芦名の家を継いだうえは、平氏代々盛某と名乗るべきであるので、改めて盛重と名乗せたのである。
 芦名義広は米沢の押さえとして耶麻郡大塩(北塩原)に柏木城を築き、北辺の武士150騎を添え三瓶大蔵を城番としておきお伊達政宗のおさえとした。城は村の南5町の山頂にあり、南の麓には馬場が置かれていた。
 義広は、佐竹より入り芦名氏を継いだが、若年の理由で佐竹より大縄讃岐守、刎石駿河守、平井薩摩守などが追従、国政に参与し往々慣例を無視、専横多く、芦名譜代の四天宿老ともしばしば対立していた。さらに猪苗代盛国のごときは義広を恨み意図するところがあった。
 そのため内憂外患多く、芦名氏の支族で中目(塩川町)の地頭で佐瀬源兵衛の子で佐瀬河内守の兄であった中目式部大輔助常は執権金上遠江守盛備及び族将慶徳善五郎らと大いに憂いた。中目式部大輔は世継がなく、佐瀬源兵衛の子助常をもって継がせていた。
 佐瀬河内守は、ひそかに式部大輔助常に伊達氏に通じるよう説いたが、式部大輔おおいに怒りこれを退ける。

伊達政宗と大内定綱
 このころ伊達政宗は、会津攻略をねらって南下策をとり、安達郡の小浜城と二本松城を次々に攻略し、一方で芦名の諸将に内通をそそのかした。
 一昨年、小荒井と争い大荒井の所領を没収された穴沢信堅に伊達政宗は七宮伯耆を送り込み内応するよう勧めたが信堅は応じなかった。
 しかし、耶麻郡檜原(北塩原)の信堅の従弟で、地頭の穴沢四郎兵衛と風呂又五郎が一族を裏切り、伊達正宗に内応して密かにその兵を引き入れた。それとは知らない穴沢信堅は、風呂の饗応に招かれ謀殺され、檜原は伊達勢に占拠されてしまった。さらにこの戦いで穴沢加賀守信徳、同新右衛門、穴沢家清と子の信春、赤城利弘、大竹平内、佐藤次郎左衛門たちが討ち死にしてしまったのである。
 このとき穴沢信堅の子・広次は、相州小田原の北条家の様子を視察しようと関東に向っている途中で父の横死したことを知った。広次は急遽大塩に帰り叔父信清のもとに寄食し兵を集め穴沢四郎兵衛と風呂又五郎のあだ討ちを狙っていた。また加賀守の六男善五郎も敵地羽州小野川にあって死をまぬがれ密かに大塩に帰ったのである。
 芦名義広は阿武隈川沿いに南下する伊達軍と戦い敗勢となって父の佐竹義重に援軍を求めた。やがて佐竹、白川、芦名の連合軍3万をもって郡山城を包囲した。豊臣秀吉は状況を知り芦名氏に鉄砲100挺を送ろうとしたが、岩城常隆らが調停にでて合戦にいたらなかった。
 1585(天正13)正月、穴沢広次は一族を率い賀詞言上のため黒川に伺候し、父祖一族、謀計にあって不慮の死をとげたのでぜひ先陣を承り、檜原の伊達勢を追い落としたい旨申し上げた。だが芦名家では昨年に芦名盛隆が殺害され、亀王丸もわずか2歳で天寿していたので、四天宿老らは広次に対しひとまず大塩に帰り、地頭三瓶大蔵の柏木森の舘に拠り大塩を堅固に守ることを命じた。そして、黒川から伊東大膳と20騎馬、足軽100人を差し向けた。
 4月、大内定綱と田村清顕が戦う事件が発生し伊達正宗が介入してきた。このことが長く尾を引くことになるのであるが、事の起こりは、応永3年(1396)に吉良満家が京都に召還されたとき、その後任に宇都宮氏広が安達郡小浜の上館に住んでそれを四本松城(塩松城)と称した。
 ところが、宇都宮氏広が応永7年(1400)南朝側についたので、難波詮持と石橋棟義とに攻められ滅亡した。そして足利家氏を祖とする石橋棟義が四本松城に入り石橋棟義の子満博が陸奥守になり、また家臣大内内膳(多々羅氏の出身)が小浜城に住むことになり、天正13年(1585)には四本松城(塩松城)の城主として、大内備前定綱が住むことになったのである。
 伊達正宗が家督相続したとき、大内備前定綱は祝儀のため米沢まで出向き積極的に行動した。このときの猪苗代盛国と大内備前定綱の共通点は内応であったが、伊達正宗は、先代義綱の代から伊達氏に奉公したいと聞いていたが、最近は必ずしもそうでないとみていた。
 そこで大内定綱を米沢に軟禁してしまう。そして体制上は大内定綱の妻子を呼び屋敷を与えるという形にした。
 しかし大なり小なり大内定綱は四本松城の主であり、城主が居城を離れ妻子とも他国で生活することは屈服以外のものでなかった。大内氏は石橋氏の家臣でもある。
 しかし天文年間に塩松式部大輔の政道が正しくなく家臣が多く離散したところを、大内備前義綱が石川弾正の応援を得て尚義を追放しその領地を奪い安達郡小浜城に入っていたのである。また大内備前義綱の子、定綱は向背が常ならず、芦名と伊達とのあいだを往来していた。
 そのころ、会津は大内定綱を案内に伊達正宗の米沢を攻める計画を立てていた。定綱は伊達に偽りの帰参をして伊達の情報を提供する案を示したので、芦名の四天王はそれに賛成した。小手調べに日ごろ親しくしていた片倉意休斎に使者をだし甘言で臣従を申し入れたのである。正宗は大内備前定綱の帰参を許し、さらに一月家族を連れてきたいという理由で一時四本松城に帰した。
 また大内定綱は,米沢に屋敷を賜ったたが、大雪のため建築が困難であるという理由で塩松に帰り、軟禁状態を脱した。しかし、雪が消えても大内定綱は米沢に戻らなかった。
 伊達正宗は、遠藤基信をして手紙で督促したけれども大内定綱は一向に動く気配がない。さらに宮川一毛斎と五十嵐慮舟斎とが使者として大内定綱に会い生命財産を保証するからと米沢帰参を説いたが、定綱はたとえ滅亡しても参候しないと言い切ってしまう。大内の利用価値を高く評価しなんとか味方につけたいとした思った正宗はさらに片倉以休斎、原田旧拙斎を使者として派遣した。 

しかし大内はその足許をみて弱小の割に尊大であり、また一族の大内長門は大内討伐など、とんでもないと口走り二人の使者を怒らせる。そのため田村清顕は大内定綱を討つべきであるいう意見を伊達政宗に伝えた。
 大内定綱は芦名氏と接触を続け、さらに会津に直接出向いて伊達の現況を報告した。情報を得た会津側は檜原の国境を厳重にし、また、定綱は後日の援兵を条件に佐竹氏にも情報を洩らしたのである。
 大内定綱が田村氏と手を切って芦名氏に属することになった理由は、田村清顕の娘と伊達正宗との婚約が成立したので、田村氏が伊達に接近すると予想したためである。そして、背後の固めのため自分の娘を二本松義継の長男義綱と結婚させた。
 大内定綱はかっての同盟者である田村氏を攻めるため攻撃目標を百目木(どうめき)城としたことを会津芦名、須賀川二階堂、二本松畠山に連絡して応援を求めた。この三氏は田村氏と戦って一度も勝ったことがなかったので、この要請に応じて兵をだした。
 四本松に参じたのは、浜尾善斎、須田美濃守、矢部周防守、畠山近江守、遊佐丹後守、遊佐丹波守、鹿子田和泉守、伊藤太郎、伊藤平左衛門尉、箕輪玄蕃頭、大内助右衛門親綱、その他360騎であるが、会津からは参戦しなかった。
 百目木城主石川弾正との間に合戦がおこなわれたが大内側は60人が討ち死にしてしまった。さらに大内定綱は田村氏の国境を侵すことになったので、田村清顕は四本松を攻撃するため、田村月斎などを将とした部隊2000人を派遣した。
 案内役の石川弾正が四本松の領内に陣を張ったので、大内定綱は夜中に居城宮森を出て十石畑に陣を張った。まず鉄砲による射撃戦で始まり互角に戦っていたが、午前10時頃から午後4時ころまでの間に田村側の討ち死には160人、大内側は30人であったので、ついに田村勢は兵を引いたので大内側も帰陣した。
 田村氏は国境を固めるため初森式部少輔に命じて初森に砦を築き始めたが、大内定綱は未明に打って出て攻めたため初森砦は破れてしまう。
 田村氏は二度の敗戦に鑑み稲沢の滑津に砦を築き始めたので、定綱は再び攻撃し火を放った。また田村氏は千石森にも砦を築いたが、そこにも大内勢5000人が押し寄せ合戦になり、田村側の橋本刑部少輔、常葉伊賀守をはじめとする将が討ち死にし、さらに田村清顕の弟善九郎はじめ60人が討ち死にしたのである。
 田村氏は、度重なる敗戦の理由は、会津、二階堂、二本松が大内側についているからと、二本松、畠山氏を攻めて味方にすることが先決であると決定し、夜中に阿武隈川を渡って、畠山近江守の守る高倉城に押し寄せた。このとき観戦していた高倉の百姓が戦況を二本松義継に報告したので、義継は新城弾正と芳川帯刀をつれて出陣した。さらに本宮の氏家親兵衛が20騎で駆けつけ、また玉井城からも100人が応援に駆けつけたため、田村氏の攻略は失敗に終わるのである。
 
伊達輝宗の拉致と会津攻略
 前年、伊達正宗にしたがっていた四本松城主の大内定綱が芦名氏に転じたため、正宗に攻められる。二本松城の畠山氏に援けられ会津に走った。10月8日、伊達輝宗を拉致して二本松にむかうが正宗の鉄砲に射殺される。その子国王丸は翌14年、正宗に攻められ、二本松城に火を放って会津に走る。
 伊達正宗による大内定綱討伐は、やがて東北の南部を戦乱の渦中に巻き込み、伊達、田村と芦名、佐竹、石川、二階堂、岩城の対立となった。この間岩城城主の岩城常隆は佐竹に連合従属し各地に転戦し伊達氏と戦う。
 伊達正宗は、伊達成実に会津の檜原侵入の相談をした。成実は、檜原城の堅固なることを説明、一案をだした。それは、穴澤加賀の時代に伊達輝宗の侵入を防いだ功により芦名盛氏から、耶麻郡大荒井村(喜多方)をもらった。その後その所領の事で小荒井阿波守と争ったことがあった。そのとき小荒井氏は追放、穴澤氏は私闘の理由で大荒井村を没収された。穴澤氏はこのときの恨みをもっているだろうから巧みに誘えば芦名を離れて伊達に附く事も考えられる。この使者に七宮伯耆というものが選び出発させた。七宮は穴澤新右衛門俊光に面会し次のように話した。
 先月、芦名盛隆は家臣に殺され、その子亀王丸はまだ1歳、このまま放置すれば四隣の諸侯は会津を押領するのは必至、芦名の所領が他家に渡って芦名氏の名跡が絶えることは嘆かわしい、幸い伊達正宗公と亀王丸は従兄妹であり、その母君は正宗の叔母上で血縁的にも近い。従って芦名氏の所領を伊達正宗が一時お預かりして亀王丸殿とお母儀とを扶持し参らせ、亀王丸が成長され芦名氏を継ぐ器量の方ならば一切をお返しする。さらに、貴殿の武功はかねてから正宗にも知れ渡っているから、正宗の会津出陣の時、先陣をしていただけるならば、貴殿の所領は望みのままというものであった。
 穴澤氏はその甘言を一言のもとに拒絶し、本来ならばこの場で斬り捨てるところであるが特別許すから立ち去れと七宮を米沢に帰した。
 米沢では七宮の報告により、雪が降る前に檜原を攻略する意見が強くでたので、綱木村の地頭、遠藤孫左衛門と関村の地頭、遠藤新助を呼んで意見を訊いた。二人の意見は穴澤氏は武勇計略を兼備する者であるから、今すぐ押し寄せても勝利は難しい、色々知略をまわして明年夏出陣するがよいと進言した。幸い穴澤新右衛門の弟四郎兵衛が犬のかみ合いのことで兄と不和になってるので、これを誘って案内させ、夜襲をかけたら成功するだろうと付け加えた。
 遠藤新助は最上から来た綿商人に変装して穴澤四郎兵衛をたずねこの秘計を話した。四郎兵衛はこの話にのり風呂屋の又五郎を使って、欺いて風呂の馳走をしていると、密かに伊達の1500騎を導き寄せた。
 この謀略により穴澤一族11人は討ちとられ、その首は米沢に送られた。恩賞を期待していた四郎兵衛は伊達の足軽大将に補されただけであった。さらに雪が消えたら檜原の小谷山に築城することを命じられた。

このころ大内定綱が一時四本松に帰り伊達氏の行動要請に応じなでいたときである。説得の使者にたった片倉小十郎と原田左馬助は米沢に帰り伊達政宗に次のように報告した。
 原田左馬助は今、大内定綱を攻めるのは得策でない。先に会津さえ攻略すれば大内は自然と降参すると進言した。そして、檜原の小谷山の築城のため長井から多くの人夫を集めた。
 穴澤助十郎俊次は、その伊達の築城の兆候が見え始めたころ、叔父左馬允と従兄弟次郎兵衛を黒川に派遣し報告させたが、黒川から何の回答も無かった。領主がまだ2歳で四天王も同格で簡単に意見がまとまらなかったからである。さらに、四天宿老より家格が上の金上氏と針生氏の動きが不明であったので、穴澤氏は独自で防衛体制を引き、伊藤大膳を大塩村に三瓶大蔵を萱峠に配置した。
 5月、伊達正宗は、原田左馬助の家臣で会津生まれの平田太郎左衛門を使者にたて松本輔弘に内応の工作をすすめた結果、輔弘はその子弾正輔起とともにこれに応じる決定をした。
 芦名は、正宗の占領している耶麻軍檜原への備えとして耶麻郡太郎丸村(喜多方市)の地頭、太郎丸掃部部に兵300余騎を添えて入田付村(喜多方市)へ派遣したが、太郎丸はそこを捨てて正宗に降伏してしまった。(そののち天正17年(1589)6月5日の会津磨上原の戦いで伊達の家臣として鉄砲隊200を率いて参戦したため芦名の富田将監に討たれることになるのである。)
 5月10日未明、正宗の家臣新田常陸と原田左馬助は兵3000余騎を率い米沢を出発、その夜の内に会津領に侵入し足軽を先行させ関柴付近の村に火を放った。それは50余村にわたり、その先導をつとめたのがもと芦名の家臣であった松本輔弘であった。
 黒川勢(芦名)は直ちに反撃し始めた。まず大塩の地頭中島貞利が萱峠に柵を設け穴澤、三瓶、伊藤氏と力を合わせ防守した。
 しかし伊達政宗は、これを知らず、檜原に出陣して白石若狭守を先鋒に大塩に兵を進めた。ところがこのとき広次は、黒川の本陣とともに浜崎にあったので、黒川城の防備していた芦名勢の三瓶大蔵と伊東大膳は驚き急いで防戦に努めた。
 5月13日、関柴の地頭松本備中(松本長門の嫡子)が伊達政宗に内応し、入り田付村の山道を切り開いて伊達の新田常陸と原田左馬助を引き入れた。このことは、ただちに芦名氏の黒川に知らされたが、黒川城内は松本輔弘一人だけの内応か、他にも同調者がいるのか判然としなかったせいもあって、中の目式部大輔の即戦派と平田善五郎・冨田氏実らの慎重派に意見が分かれた。
 結局出陣論が事態を制し加納氏で中の目式部大輔・平田善五郎・富田義祐の二男、冨田美作守氏実・佐瀬河内守源兵衛常成・山之内氏の支族で丸山城主の沼沢出雲守実通・本名杢之丞らの出陣となった。
 新田常陸は耶麻郡岩月村(喜多方)の白山社まえに原田左馬助は惣社原に布陣した。其処は関柴備中の居城よりは前線基地となっていた。
 芦名側は浜崎まで前進して軍議を開いたが意見がまとまらない。慶徳善五郎の居城慶徳は稲田の南約7キロ、浜崎と稲田とは直線距離で約8キロの距離である。
 中の目式部大輔は敵陣とは最も近い地点にある慶徳氏と無二の親友であったので援軍するのは当然と本名杢之丞をつれて川を渡って慶徳に向った。中ノ目氏と慶徳氏の連合軍は700余騎をもって小荒井(喜多方)を経て岩月村上岩崎の寺窪に布陣した。寺窪から稲田は見下せる地形で約2キロの距離である。
 伊達の先鋒新田常陸と原田左馬助の陣地がよく見えた。しかし、軍勢の差があるので突撃は控えていた。
 しかし中ノ目式部大輔の弟・佐瀬河内守源兵衛は浜崎から稲田に向かい、稲田白山社前に進撃して弓鉄砲を放った後、抜刀して斬り込んだ。伊達勢は各地で敗退するなかで、伊達にねがえった松本輔弘の婿伊藤蔵人は踏みとどまって戦った。
 新田常陸は中田付に退いたので、芦名の3軍は大用寺川を渡って惣社原に進出した。このため浜崎で軍議が決定しなので、まだ進撃していない会津勢も止む無く進撃して中田付村の龍泉寺林を攻めたので、伊達勢は崩れて惣社原に退いていった。残りの会津勢も熊倉に向い合流したため、この付近が主戦場になった。
 関柴の松本備中は館の東の柴原に出て望見していたところを、味方を装った沼沢出雲に接近され足軽の矢を浴びたので姥堂川まで逃れたが、ここで沼沢出雲守に追いつかれ組討になり首を掻かれてしまった。松本輔弘の弟は関柴村の門光寺の住職であったので同じく討たれてしまった。
 このとき芦名の中目式部大輔は黒川に在番していて四天宿老とともに急遽浜崎(湯川村)に出陣し攻守について議したものの一向に決断がでない。式部大輔進み出でて、昨今北方方面の人心は測りがたいものがある。唯頼むのは慶徳善五郎が慶徳を固守してくれることだけである。余は年来、彼とは親交を結んできた。今、彼を危地において助けなくては、何の面目あって後日彼と顔を合わせることができようぞと、手兵200余人を率いて急遽援けに赴いた。
 中目式部大輔は善五郎とともに正宗の軍を迎撃すれば、金上盛備も津川よりはせ参じ、また四天宿老や沼沢出雲守もまた塩川より進み、3面より伊達勢を衝いた。なかでも善五郎と式部大輔が力戦し、式部大輔は四郎兵衛を斬り、沼沢出雲守は松本備中と備中の父宮内少輔を捕らえ、会津東山の天寧寺河原で斬首にされた。さらに備中は討たれ、長門は捕らわれ同じく天寧寺河原で獄門かけられる。
 伊達正宗は新田と原田の敗北を知らぬまま檜原を発ち大塩に向かった、先駆は白石若狭である。しかし、三瓶大蔵と伊東大膳の抵抗に会い檜原に50日余いたが、会津の沼沢出雲、慶徳範重らがさらに奮戦し、伊達軍の将原田左馬助を破っため、政宗は朝霧が深く状況がつかめず慎重を期して柏木森の舘を攻めず引き返してしまった。
 会津の広次が浜崎から帰り、これを聞き、せっかく政宗を討ち取る機会があったものを、残念がることしかりであった。このとき伊達政宗、檜原の小谷山に新たに城を築き、河岸に馬場を構え、日々乗馬して陣中の慰めとしていた。
 広次、これを聞き、6月14日、助十郎、善七郎、太郎兵衛、左馬允の4人で檜原に潜入、馬場の端の木陰に潜み、政宗を射殺しようと隙をねらった。しかし、政宗はこの日、軽く2、3度走らせただけで、馬場の端まで来なく帰ってしまった。広次は無念に思い、矢立を取って一文をしたため矢に結び馬場中に射放った。
 やがて、この矢文は政宗の兵に見つけられ正宗に届けられた。その文には「今日穴澤善七郎に中差一筋可為進と存し是迄参控候處に終に馬場末迄不騎給箭頃遠く且御馬駿く候故不遂本意罷帰り候追って得時節一矢可為進にて候天正13年6月日穴澤善七郎元清、同左馬允恒基、同太郎兵衛恒清、同助十郎広次、進上伊達左京大夫殿へ」と書いてあった。政宗、是をみて穴澤の者どもはかくも不敵なる者か、危うく一命を落すところであったといって、後藤孫兵衛に檜原を守らせ米沢に引き揚げていった。
 伊達正宗は檜原にいること50日余のとき伊達成実と謀って猪苗代盛国に使者を送って内応をすすめた。盛国は3ヶ条の条件をだした。1つ成功したならば会津の北半分の所領を認める。二つ伊達氏への降臣中第一位の地位を与える。三つ失敗しても伊達郡内にい300貫の領地を保証する。しかし、猪苗代盛国の長男・盛胤は内応に反対で父子の意見が対立してしまった。
 6月14日伊達氏と国境を接する最上義光が岩城常隆の武将三坂越前に書を送って芦名亀王丸を助け、伊達に抵抗することを申し入れてきたが具体的には発展しなかった。
 佐竹義広、芦名の養子となる
1586(天正14)4月、磐梯山のふもと大塩にいた芦名の穴澤広次は再度黒川(今の会津若松の鶴ヶ城)へ援助を申し入れたが許されず、やむなく穴澤の一族300人を2隊に分け、1隊は岩山の西の林中に伏せ、一隊は4月10日の朝霧に乗じて伊達勢の守る谷山城に迫った。
 伊達の城兵は穴澤勢の衰微なるをみると500余人が城から打ってでてきた。穴澤勢は戦いながら退き、味方の伏せているところまで伊達勢をおびき寄せ、急に反撃し、伊達勢の首級50余人を得る大勝利をおさめた。(しかし、穴澤の一族は天正17年6月、芦名義広が磨上原の戦いに敗れたとき大塩村から退去し、道地窪の山中にひそんだのちに蒲生氏郷が会津に就封するときこれに仕え檜原に帰ることになる。)
 さて二本松城の畠山氏が伊達政宗に滅ぼされ、安達、安積の諸将多く伊達氏に属する中で、三本松城主の荒井杢之丞政頼は、妻の兄、高玉太郎左衛門と力を併せ芦名を守り通していた。(のちに荒井杢之丞政頼は天正17年高玉城の戦で伊達勢と華々しく戦い討ち死にをするのである。)
 この年の11月20日、芦名19代芦名隆氏(亀王丸)が3歳で死亡してしまう。芦名20代の当主をどこから迎えるかで芦名方では伊達政宗の次男小次郎を擁するものと佐竹の義弘を擁するものとが対立していた。
 しかし1587(天正15)になると佐竹義広が、芦名の養子と決まりして黒川に入城してきた。
 そのころ、上杉景勝の家臣で新発田因幡が主に叛いて芦名に属し五十公野というところに立籠っていた。さらに新発田の城には因幡の一族で源太というものを籠らせた。上杉と新発田の合戦は会津より援兵がきたこともあってややもすると上杉景勝の軍は敗勢にあった。
 上杉景勝は、この戦況をみてまず会津よりの援軍の道を塞ぎ、赤谷に小田切三河を攻め、その後新発田を誅しようと策をたて10月中旬に兵を動かし始めた。
 赤谷に向う上杉勢の動きを知った小田切勢は俄かに関峯塁に要害を構えた。塁は村西3町ばかりの山上にあり東西40間、南北50間周囲二町にも足りず兵糧にも乏しかった。そして100人ばかりが心を一つにして景勝の大軍を引き受けたのである。上杉景勝は一旦東南の山上に陣をとった。
 芦名では平田五郎、安部理非内(りない)小田切三河の籠る赤谷城に津川より兵糧を送ろうとしたが、一渡戸というところで上杉勢の攻撃を受けた。一旦引き返したが、上綱木の細道で再び追撃を受け、味方が多数生け捕られてしまった。
 足なの安部理非内はこれを追いかけ奪い返したのである。安部理非内の指物は長さ7尺3寸、幅3尺4寸、紅染の布地に白く塔婆の形を2行に染め抜き、その下に契天理當人心在運天争何之案部理非内と書かれていた。彼は芦名氏滅亡後、蒲生氏に仕えることになる。
 しかし小田切も三日の戦闘でついに力尽き、敵の手にかかることをいさぎよしとせず、腹かっ切って相果てたのである。
 1588(天正16)4月、人取橋の合戦が始まる。伊達政宗に仕えた中村城主の嫡男伊東重信は加倉城の戦いで有名を轟かせるが、7月政宗とともに佐竹、芦名、白川、石川、岩城、二階堂の連合軍と久保田で合戦を行い政宗の身代わりとなり討ち死にしてしまう。また茶臼館(郡山城)の郡山太郎右衛門朝祐は、伊達正宗に属し、郡山合戦で武名を表す。
 そのころ会津にいた四本松城主の大内定綱は弟の片平親綱とともに伊達成実の守る二本松に侵攻したが、まもなく伊達氏に服属するという腹黒いことをする。
 5月、芦名盛隆の室で彦姫が10余年のあいだに3度の不幸(夫、盛興没、盛隆殺害、亀王丸死去)に心身とも弱らせ11日死去してしまう。37歳であった。
 7月4日、芦名義広と佐竹義重の連合軍が郡山で伊達正宗と戦うが、岩城、石川両氏の仲介で和議が成立し戦いは一時中止となった。
 同じ頃、猪苗代盛国の郎党で秋谷平右衛門は壷下口の抑えとして大堀土佐景長とともに金曲館(猪苗代町)に配置されていた。後妻の讒言を信じた猪苗代盛国は嫡子盛胤を廃すべく5月10日、盛胤が黒川に伺候した留守をねらって猪苗代城を乗り取る。このとき大堀景長は、猪苗代盛国に従うときは不忠にくみしたと同じく、子の猪苗代盛胤に従えば不孝の人に従うにも似て進退きわまった。
 猪苗代盛胤はやむなく猪苗代湖の南岸横沢(郡山市湖南町)から小船4、5艘に分乗し湖水を渡り不意に金曲館に押し寄せ、秋谷平右衛門、大堀土佐景長を散々に攻め追い落とす。景長は秋谷平右衛門と共に舘を落ち、芦名四天宿老の富田将監のもとを頼り、名を体夢と改めた。
 8月13日、小沢和泉の内応により越後の兵が小川庄に攻め入ったとき、越後蒲原郡石間(三川村)の領主小田切豊前は、谷沢、石間の諸士よくこれを防ぎ戦った。
 9月山口の馬場若狭なるもの小立て岩村の因幡某に対し夜討をかけた。この際民家に火をかけたため、折からの川風にあおられ八方に飛び火し、せっかく伊南郷から移築した大桃山瀧岩寺(改名龍岩山光明寺)が焼かれる。
 天正14(1586)に芦名亀王丸が亡くなり、芦名の男系が途絶えたとき、芦名重臣の猪苗代、富田、平田各氏は伊達正宗の弟小次郎を推したのに対し、金上盛備の重臣が佐竹義重の二男義広を迎える事を主張し対立し、これを実現した。
 金上盛備の一族で、河沼郡金上(会津坂下)の上野勝左衛門あり。
このため家中の対立を深め、外のあっては伊達と対立を深めた。こうした状況のなかにあって自ら秀吉のもとに伺候することならず、天正16年10月14日、盛備を上洛させた。上洛すると西国の使者とともに秀吉に謁見したが、退出後、秀吉の家臣の中に会津の使者は東国の田舎者だけにことごとく無骨にみえるといった。これを聞いた秀吉は、西国の使者は小身なるもの、常に腰をかがめるのが習慣になっているが、会津の使者はその身が大身なだけに、常に屈みなく、それが野鄙にみえるだけであると評した。
 1589(天正17)石田三成は芦名義広の上洛を促す書状を富田氏実におくるが、その年の5月、仙道入間の三本松城主の荒井杢之丞政頼は、妻の高玉城主高玉太郎左衛門と力を併せ、安子島城主伊東祐高を助け伊達軍と激戦を交え、城落ちるに及んで高玉城に入り、高玉太郎左衛門とともに伊達軍と戦い、乱戦のうちに壮烈な討ち死にをとげる。妻も同日自害。政宗、石川実光に命じ山麓の大久保に厚く夫妻を葬る。陰暦5月5日のことであったので、端午の節句であるのに旧荒井村の人々は、領主夫妻の命日ということで、この日を祝わない風習が戦前まであった。
 6月、芦名領を侵食する伊達政宗を抑えるべく義広は軍を須賀川に進めた。6月4日この隙に猪苗代盛国が伊達氏に内応し、猪苗代城に伊達軍を引き入れた。磨上原の戦いで先陣をうけたまわり、芦名氏滅亡のあと盛国は耶麻郡の北方の半分を与えられ伊達家の準一家に列せられる。伊達正宗に内応した猪苗代盛国は先陣をたまわり攻撃してきたとき、嫡子盛胤は父盛国の旗をみていったん兵を引くが、再び取って返し兵を進め伊達の陣へ突入するが、深手を負って横沢村に退く。さらに、入間の三本松城主の荒井新兵衛も、伊達政宗の軍勢と戦い壮烈な討ち死にをしてしまう。
 その戦の最中に力丸の伯父片平氏範が芦名家に叛き伊達政宗に降伏してしまう。力丸は母と共に民家に隠れ難を逃れ、のち紀氏の家に育てられ長じて當山派の修験となり盛法院と号し、蒲生氏のとき城内稲荷社の別当職になり、舘下に宅地を賜り、中荒井組舘村、田村山村、南青木組慶山村、滝沢組牛ヶ墓村などを社領する。
 この報を受けた、義広は急遽黒川に兵を引き返し、その夜のうちに耶麻郡大寺に出陣した。軍評定を行うと夜の明けるのを待って磐梯山磨上原に出陣し決戦の火蓋は切って落とされた。
 芦名軍総勢1万6千、伊達軍2万3千。芦名義広17歳、伊達政宗は23歳であった。
 午前6時(卯の刻)芦名の先鋒富田将監(21歳)と伊達の先陣となった猪苗代盛国の勢が吹渡で遭遇。芦名譜代の家臣、神田助六郎季運の子で季順(ときあり)は猪苗代盛国の手に属していたが、主家に反逆した猪苗代盛国に義憤し、中途で戦場を離れ塩川村に隠れていた。
 先鋒をつとめた富田将監の500余騎は、伊達の先鋒猪苗代盛国を破り政宗の本陣に迫り、さらに二陣の片倉景綱をも破って圧倒的優勢に見えた。しかし、二軍、三軍は何故か動かず。
 このとき、芦名を寝返った太郎丸掃部が200の足軽を指揮し鉄砲を撃ちかけてきたので多くの戦死者をだしてしまう。将監は怒り太郎丸掃部ない猛烈な攻撃を加えとうとう討ち取ることに成功した。
 しかし、そこに伊達政宗が迂回作戦にでてきた。また、おりから風向きが変わり砂塵を芦名軍に吹きかけたのである。内紛の疑心暗鬼から味方の謀叛と誤認した芦名勢はにわかに浮き足立ち、伊達勢は情勢の変化に乗じただちに反撃にでたため、芦名勢は大敗を喫し義広は辛うじてわずかの家来を伴って常陸に落ち延びる。このとき七宮憲勝の子、弾正左衛門憲俊(のろとし)は義広の麾下で討ち死にしてしまう。
 この戦では、富田美作守氏実の子息実勝の戦功が大きい。耶麻郡中部の領主で佐瀬大和守源兵衛の養子、佐瀬大和守種常(たねつね)は、養しなっていた富田美作守の子、平八郎常雄とともに磨上原に出陣、味方総崩れになり、日橋川橋を落とされ退路を絶たれ難渋するさまをみてとって返し、敵を散々追い散らしたが入倉村で討ち死にしたのである。
 いまでも村の北西5町40間、大谷川の辺に高さ3尺余の五輪があり、前方に文化2年(1805)に建てられた碑がある。
 佐瀬大和守種常(たねつね)に養われていた、富田美作守の二男、平八郎常雄は、耶麻郡大寺(磐梯町)を領していた。舘は村の北東3町にあり、東西40間、南北35間であった。養父佐瀬大和とともに、磨上原の戦いに参加するが、味方総崩れに、郎党渡辺伯耆の諫言で常雄とって返し、敵中に駈け入って散々に戦い深手を負う。
 辛うじて仲間に負われて落合村の東まで引いたが、敵の追撃は急で遂に田の畦の小溝を越えられず討たれてしまうのである。
 佐瀬大和守の麾下として出陣した、南山長江庄葦野牧邑(会津芦ノ牧)の地頭で鹿目伊豫(しかのめいよ)は、弟八郎左衛門、家の子胸割源十、伊勢間右衛門、秋田五兵衛の主従5人で大和守養嗣子の平八郎の手に属し戦った。
 平八郎が戦死すると弟八郎左衛門とその遺品(鞍、太刀(粟田口吉光)、脇差(国後)、長刀(来国光)など数品)を菩提寺に届け、さらに大和守と西蓮寺村に踏みとどまり、かの地で戦死するまで戦った。
 弟八郎左衛門は、芦名義広が黒川から落ち延びる際、これを護衛し佐竹までゆき、後会津に立ち返り伊達正宗の形勢をうかがうべく、名を五郎左衛門と改め、川谷(川渓)あたりに潜伏していた。しかしその後、正宗と秀吉の怒りを買って会津を去るにあたり、加塩邑の住長面川備中の養子となりかろうじて家名を継ぐことになる。
 この戦いで中目式部大輔は手兵を率いて伊達の陣営に突入し奮戦し壮烈な戦死をしてしまう。
 会津伊南郷の領主で河原田治部少輔盛継は耶麻郡大塩にあって檜原の守りをしていたが、伊達の侵攻がこの地にないため、磨上原に転戦し、片倉景綱と一戦を交えることになった。
 磨上原につくとすでに味方は総崩れであったので、盛継は兵を一箇所に集め敵味方の機をうかがっているとき、伊達の陣より鐘の紋を染め抜いた旗差物をなびかせ片倉小十郎の勢が進み出てくる。
 盛継、三つ右巴の旗を進めて合戦するが、義広が敗走したため、しかたがなく盛継は兵を引き、ひとまず黒川の西にあたる中荒井(北会津村)に引く。ところが、10日夜、芦名義広は伊達勢が黒川城を攻撃する聞き、また家中では芦名譜代の宿老が不穏な動きを示したので急遽城を捨てて実家佐竹のもとに逃げ帰るという異常な事態になった。
 このときの戦で慧日寺の歓喜院玄弘は、伊達勢の兵乱で坊舎が兵火に罹り衆徒皆退散しても、玄弘は踏みとどまりよくこれを防ぎ金堂のみ火災を免れることができた。そのご霊跡というところで、その後、伊達氏より常世、三橋、竹屋と300貫の地を寄進された。蒲生氏郷のときこれを失うが蒲生秀行のとき再び50石の寺領を賜る。
 芦名義広が黒川を落ちたとなれば、河原田盛継一人ではどうするすべくもなく、ひとまず伊南に引き返すべく高田に退いたが慷慨に耐えず郎党の伊南源助を正宗のもとに使いに立て一戦を挑んだ。だが正宗は盛継の義気を誉め源助を帰し取り合わなかった。盛継はやむなく伊南に帰り青柳の久川城に立てこもった。
 しばらくしてから、南山鴫山城主の長沼盛秀から書状が届いた。「芦名譜代の富田、平田らをはじめ皆正宗殿に帰順なされた。そなたも味方になられてはどうか」という内容であった。
 盛継「武士の家に生まれ二張りの弓を引くような真似はできぬ、」とにべもなく返事した。怒った盛秀は、事の次第を黒川に報告し、盛継討伐の許しを得て河原田氏を攻めた。しかし、河原田氏の戦い勇ましく、盛秀は手痛く撃退されてしまった。
 塩川古町の柏木城の城主七宮憲勝(のりかつ)の子栗村弾正左衛門憲俊も、芦名義広に従い磨上原で討ち死にしてしまう。
 芦名四天宿老の平田左衛門輔範の長男舜範(きよのり)は耶麻郡の勢5000余騎を率いて戦うが、一族の周防守は逃げ帰り正宗に降参してしまった。
 芦名義広が佐竹に落ち延びるため会津加塩(会津若松大戸香塩)に差し掛かると月もすでに没し真っ暗闇であった。この地の住人、加塩甚内は、一行のため家々に火を放ち林間を白日の如くに照らし一行の落去を助ける。このとき義広に天海が付き添い、また小姓の荒井経政も義広に追従し常陸の江戸崎に落ち延びていった。
 その後、豊臣秀吉により佐竹が秋田に国替えになったとき、荒井経政は会津に戻り蒲生氏郷に忠誠を誓って荒木舘と代田村高畠400石を賜り、荒木十郎左衛門経政と名乗ることになる。このとき28歳であった。荒木館は文安(1444~9)のころ、芦名一族の北田広盛の後裔荒木四郎宗胤の築いた舘で、東西53間、南北68間、内坪3500余、周囲に塀を巡らせ中堀もあった。経政は蒲生が去り上杉の世となると家督を長子に譲り隠居。号を筑後と称し茶道、俳諧の道に入り悠悠自適で寛永8年(1631)69歳で没したのである。
 その後、芦名義広は兄義宜にしたがって秋田に移り、角館に1万6000石を領し名を義勝ち改め寛永8年(1631)57歳で没するのである。
 芦名義広が黒川を落ち延びるとき、黒川城の三の丸にある妙法寺の僧願誓(がんせい)は、鹿目八郎左衛門らとともにこれを護って同行する。願誓は白川でお暇を給わり黒川に帰るが、太子守宗の僧玄海の讒言によって義広を護送したことを知られ父了善とともに追放される。
 大沼郡小山(会津高田)の領主坂内憲勝も芦名義広の護衛として常陸に行き、別れにおよんで佩刀を賜った。
 猪苗代湖の南岸を領していた伊藤支族の横沢彦三郎は磨上原の戦いに役に立つべく、同じ支族の安積郡中地(郡山)の伊藤盛恒(もちつね)を誘った。しかし、盛恒はこれに応じなかったため彦三郎は、戦いの後ひそかに湖上から己が在所に引き返し手勢を率いて盛恒を襲撃し、盛恒の鶴島城を攻め落とし、鶴山城に逃れる伊藤盛恒を遂に討ちとってしまう。しかし横沢彦三郎は、天正18年蒲生氏郷にしたがって大崎に赴き11月19日の名生城の合戦で討ち死にしてしまう。
 この戦ののち、伊達晴宗の4男に生まれ永禄6年(1563)に石川晴光の嗣子になっていた石川昭光は、政宗が仙道を平定するにおよび対立を解き、誓紙をかわし服したため須賀川城を与えられる。しかし、翌18年小田原不参のため豊臣秀吉から所領を没収されたが、伊達政宗に従い志田郡松山に6000石を領し、のち角田2万1300石に移ることになる。
 伊達の会津侵攻のとき山内氏勝譜代の重臣で菅家太郎左衛門善高は、越後の押さえとして大塩(金山)に配されていた。村北7町の山頂に中山城があり、善高が城代として住んでいた。伊達軍の将大波玄蕃が横田に侵入するに、氏勝は布沢に逆寄せしたが松坂崎において敵の伏兵にあい散々に敗れた。善高は諸卒を励まし大いに奮戦したため、氏勝はかろうじて死地を脱することができた。
 大沼郡富口城主の須佐信清と子の信重は伊達軍が侵攻すると、山内氏勝を助け家臣の今井平八以下35名をもって伊達方の将大波玄蕃に夜襲をかけた。
 伊達勢は一時混乱になったが、多勢をたのむ伊達勢は大反撃に転じた。その位置は小沢が本流に注ぐ地点で今の意賀美神社の裏にあたる。しかし、松坂峠の戦いで山内勢は利あらず氏勝すでにあやうきに見えるが信清、信重父子は命の限り防戦につとめようやくふもとの大岐川の合流点に逃れた。
 しかし、伊達勢の追撃にあい追い詰められるが信重・基信(弟)の働きでようやく横田に脱することができた。 
 8月になって越後の上杉景勝に救援を請うべく人質の高根沢左馬助の1子弥四郎(7才)をともない高田(上越市)の春日山城に使者として立つ。しかし、翌年豊臣秀吉の東北仕置きで伊達が去り、蒲生氏郷が入府したとき氏勝は家を立てることができず所領を失ってしまったので憂憤して死んでしまう。また須佐信重も二君に仕えることをいさぎよしとせず、帰農してしまう。
 大沼郡大石村の横田山内の一族で新蔵人俊重の子中丸俊朝(としとも)は伊達軍の侵攻にたいし越後上杉の援軍を受け軍勢を分けて敵を攻めた。俊朝は須佐大膳、石伏監物とともに水軍を率いて只見川を上り上陸して伊達軍と戦う。
 槍で太股を突かれたが、俊朝はひるまず当の敵を見事に討ち取ってつぃまう、味方は、この俊朝の勇気に励まされ伊達勢を敗走させることができた。
 1590(天正18)河原田盛継と伊達氏に降した田島鴫山城主長沼盛秀との戦いは、冬季にはいり膠着状態になったが、このまま正宗に敵対しては春の雪解けとともに危うくなるので、郎党の主膳入道玄佐というものをひそかに伏見にのぼらせ、石田三成をとおして太閤殿下に実情を上申した。
 1月13日太閤からの返事が石田三成からもたらされた。それによると弥生3月、相州北条の一族を討伐するため下向し、その次に奥州の城士どもの非礼を正されるとのことであるので、今しばらく城を堅固にして守り居るようにという内容であった。
 しかし、家の子郎党の中にはひそかに正宗に内応しようとするものが現れた。これをいち早く知った伊南源助は知略をもって陰謀の人々から人質を出させ、これに盛継の嫡子伊勢王丸13才を添え、上杉景勝のもとに送り、援兵を得て辛うじて城をまもった。
 しかし、梁取、和和泉、小林などを攻め落とされすでに危急旦夕に迫った。このとき太閤は小田原に至り、正宗の罪を正し会津、仙道を収公された。
 これにより盛継はようやく安堵し秀吉公が会津に下向されると聞いて下野国宇都宮まで出向いたが謁見できず空しく帰り日を経て病没してしまう。
 山内氏勝も、伊達正宗の勢と戦うべく松坂峠を越えようとしたところ伏兵の襲撃を受け矢沢・河田らの一族郎党60余騎が討ち死にしてしまう。このとき宮崎善兵衛と横田土佐ら数人が敵を防ぎ戦いながら氏勝を守って後退し大塩城にやっと入ることができた。しかし氏勝はニ君に仕えずと帰農してしまう。
 伊達氏に降した田島鴫山城主の長沼盛秀は伊達の家臣で屋代勘解由兵衛、梅津藤兵衛とともに、伊北郷和泉田村の河原田盛継の郎党五十嵐和泉が住んでいた河原崎館を攻めた。わずか50騎ばかりで守っていた五十嵐氏は激闘したが数刻で味方は次第に討ち果たされ、やがて舘は陥ちたが和泉は味方の宮床兵庫と共に敵を欺き辛うじて盛継の久川城に逃れることができた。
 しかし伊北郷小林の地頭、中丸三郎左衛門の館は田島鴫山城主長沼盛秀と布沢上野助・同信濃のために攻め落とされてしまう。
 山内氏の支族、河口左衛門も伊達正宗に降り、伊達の将大波玄蕃に従って横田の城主山内氏勝の討ってに加わったのである。
 常陸に落ちた芦名義広に従った天海は川越喜多院に師事し名を天海とあらため、のち喜多院住職を継承し巻頭天台に重きをなすことになる。
 1598(慶長3)上杉景勝は会津120万石の領主として赴任してくる。
 
  (つづく)  
                             

                        

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旧会津物語