2014年10月28日火曜日

天正10年(1582)
2・2
木曾義昌、武田勝頼に背き織田信長に通じる。
この日勝頼、義昌討伐に諏訪郡上原へ出陣する。
2・6
織田信忠の先鋒河尻秀隆ら、木曾・美濃両口から信濃に進攻、小笠原信嶺の伊那郡松尾城落城。
この日同郡滝沢要害の下条信氏、支族下条九兵衛の離反により要害を追われる。織田軍、寺社を焼く。
2・14
信長の将森長可ら、木曾から伊那に入る。飯田城の坂西織部・保科正直ら、敗走する。
2・16
木曾義昌、鳥居峠で武田方今福昌和を破る。
織田信忠軍、伊那郡大島城日向宗栄らを敗走させる。
2・28
勝頼、甲斐に撤兵、新府城を焼いて逃走する。
3・2
織田信忠、降伏に応じない伊那郡高遠城将仁科盛信(勝頼弟)を総攻撃して攻略し、盛信を斬る。
3・3
高島城諏訪頼満、織田信忠に降伏する。深志城将馬場信房(二世)、木曾義昌に降伏する。
3・7
織田信忠、陣を上諏訪から甲府に移す。
3・9
織田信忠、甲斐古府で徳川家康と会見する。
上杉景勝、岩井信能に、海津城以北の諸士を服属させた功を賞する。
3・11
武田勝頼父子ら、甲斐田野で自殺する。
3・12
武蔵鉢形城主北条氏邦、西上野の真田昌幸に、武田氏敗亡のうえは北条氏直に臣属するよう促す。
3・14
信長、美濃岩村から伊那郡浪合に着陣、ついで勝頼父子の首級を実検し、これを飯田にさらす。
武田の将依田信蕃、駿河田中城を家康に明け渡す。
3・19
信長、飯田・大島・飯島・高遠をへて、この日諏訪郡上諏訪法華寺に着陣し、家康と会見する。
3・20
信長、木曾義昌に安曇・筑摩二郡を加増する。
3・29
信長、旧武田領の国割を行う。
駿河を家康、
甲斐と諏訪郡を河尻秀隆(鎮吉)、
上野と佐久・小県郡を滝川一益、
高井・水内・更級・埴科四郡を森長可、
伊那郡を毛利秀頼に与える。
また甲斐・信濃の国掟を定め、関所を撤廃し道路を普請させる。
3・
信長、信濃平定地の各所に禁制を掲げる。
4・2
海津城主森長可、皆神山熊野権現に禁制を掲げる。ついで更級郡康楽寺など北信諸寺に掲げる。
4・5
芋川親正ら牢人・土民・百姓らの川中島一揆、信長の将稲葉貞通を飯山城に攻める。
ついで森長可、長沼城を攻めた一揆勢を壊滅させ、大倉古城に逃れた一揆勢を破り女・童ら千人余を斬りすてる。
森長可、旧海津城将小幡昌虎に所領を安堵する。
ついで葛山衆など北信諸将士に旧領を安堵する。
4・
信長、このころ甲府善光寺如来を岐阜に移すと伝える。
5・27
森長可、越後に進攻する。上杉景勝、越中天神山から春日山城に兵を引き、警固を固める。
6・2
本能寺の変。ついで森長可、猿ケ馬場峠を越えて逃れ、滝川一益は小諸をへて本領伊勢長島に帰り、河尻秀隆は甲斐で土豪一揆に殺される。
信濃を争奪する上杉・徳川・北条三氏の攻防が始まる。
6・10
諏訪頼忠、千野・両角氏ら諸士を糾合し、織田勢を追い高島域に入城、諏訪郡の支配を回復する。
6・12
小笠原長時の子貞慶、家康の支援を得て松本還住を決意し、筑摩郡後庁勘兵衛に忠節を促す。
6・13
上杉景勝、森長可にかわって北信四郡を掌握、この日以後北信諸士多数に安堵・宛行状を出す。
6・16
旧上杉の将直江兼続、島津常陸介に、信濃から連れてきた譜代の家臣を招集し長沼に帰住させる。
上杉景勝、安曇・筑摩二郡へ進出を計り、この日安曇郡仁科の小岩嶽城などを市川信房に宛行う。
6・20
家康により遠江二俣に隠まわれていた依田信蕃、家康の命をうけ、この日小諸城に帰り、佐久郡将士に家康への服属を働きかける。
上杉景勝、市川信房に、飯山城明け渡しを賞し、海津城将春日信達に対し軍忠を促すよう求める。
6・22
北条氏直、滝川一益を追い碓氷峠に出陣する。
この日北条氏政、伴野善九郎に、佐久郡内山・平賀などを宛行う。
7・2
上杉景勝、小笠原長時の弟貞種を支援し深志城の木曾義昌を追う。
長時の子貞慶、この日同城奪取のため旧臣らに勤仕を求め、ついで三河から筑摩郡塩尻に帰り二木豊後らの出迎えをうける。
7・6
飯島・片桐氏ら伊那諸士、下条頼安と家康に服属を誓う。
ついで木曾義昌・小笠原貞慶・小笠原信嶺らも家康に従い、信嶺ら、伊那郡を平定する。
7・12
北条氏直、小県郡海野に出樽、真国昌幸が出仕する。
依佃信蕃、氏直に攻められ小諸城から芦田小屋に移り、この日家康、.柴田康忠に赴援させる。
7・13
海津城将春日信達、上杉景勝に背き真田昌幸を介して北条氏直に通じ、この日発覚して殺される。
上杉景勝、島津忠直を水内郡長沼城将とし、忠直・同忠泰らに本領と在城分の所領を宛行う。
高島城諏訪頼忠、北条氏政に通じる。この日氏政、頼忠に所領を安堵し、徳川勢に対抗させる。
7・14
徳川家康、その将酒井忠次に信濃統治を命じ条目を渡す。
ついで忠次、諏訪郡乙骨に着陣、乙骨太郎左衛門を使者にたて、諏訪頼忠に服属を迫る。
7・17
小笠原貞慶、深志城に入城するついで木曾義昌の反攻を撃退する。
7・22
酒井忠次、三河勢・小笠原信嶺.・下条頼安らを率い、諏訪頼忠を高島城に囲む。
7・26
家康、依田信蕃に諏訪・佐久耐郡を宛行う。両郡で徳川・北条軍の攻防がつづく。
8・3
酒井忠次ら、北条氏直の大軍来攻のため高島城の囲みを解き諏訪郡乙骨に引く。
さらに甲斐新府城に引き、同国若神子の氏直軍と長期間対陣する。
8・5
上杉景勝、村上景国を海津城に還し、北信支配の条目を渡す。
このころ景勝、北信四郡を鎮定し、海津城将村上景国・長沼城将島津忠直に千曲川東西を統轄させ、諸城に北信諸将士を配置する。
景勝直轄地の設置は少なく間接的な支配体制をとる。
8・9
家康、木曾義昌に、滝川一益から預かった小県・佐久郡の人質返還を求め、旧領安堵を約する。
8・12
家康、下条頼安に、小笠原信嶺・知久頼氏領を除く伊那郡を宛行い、飯田城を固めさせる。
8・30
家康、木曾義昌に、木曾と安曇・筑摩両郡を安堵する。
ついて義昌に誓紙を送り協力を求める。
9・4
上杉景勝、仁科盛信に安曇郡池田・松川郷などの地を宛行い、府中への進出をめざす。
9・7
小笠原貞慶、上杉方の日岐城将日岐(仁科)盛武.攻撃に出陣する。ついで落城させる。
9・28
家康、依田信蕃らに説得させて真田昌幸を帰属させ、この日昌幸に上野箕輸領・諏訪郡を宛行う。
10・19
真田昌幸、北条方の小片郡禰津昌綱を攻める。
10・20
諏訪頼忠、武田氏の伝馬制を踏襲し、郡内大工の伝馬役を旧規どお臥免除とする。
10・27
小笠原貞慶、倉科朝軌に、安曇郡内の地を宛行い、松本町に移住させて間屋を勤めさせる。
10・29
家康・北条氏直、若神子で講和、真田領上野沼つる田と北条氏支配の佐久郡・甲斐都留郡を交換し、家康の娘を氏直に嫁がせることを約し、この日人質を交わす。
ついで真田昌幸、家康から離反する。
11・20
上杉景勝、水内郡飯縄権現に、同郡上野・小鍋・千田・市村・入山・広瀬などの地を寄進する。
この年
村上景国、埴科郡満泉寺を再建し、南北朝期制作の石造釈迦如来坐像を本尊とすると伝える。
このころ
水内郡の長沼浄興寺・布野長命寺・平出願生寺など、真宗寺院の越後移住があいつぐ。

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