2014年11月13日木曜日


第1章 島峰徹の生涯の通覧

長岡藩々医の子

さて、ここからが前回の続きになる。最初にざっと島峰徹の医師・歯科医師としての生涯を通覧しておこう。
島峰徹は明治10年に越後の刈羽郡石地いしぢ村(現・柏崎市)に、漢方医島峰恂斎じゅんさいの長男として生まれた。石地村とは、現在のJR越後線石地駅があるあたりである。父恂斎は戊辰戦争の際に22歳で祖父伝庵の家督を相続し、長岡藩の藩医となった。このとき伝庵は63歳で、長岡藩の藩士はみな従軍することとなったので、その労に耐えずとして急遽隠居することにしたらしい。島峰は第四高等学校(四高)から東京帝国大学医科大学(以下、東大医学部)に進み、明治38年に卒業すると2年後の明治40年に、歯科学の習得を志してドイツへ私費で留学した。
 島峰徹について書かれた伝記の類は、私が渉猟した限りでは、長尾まさるの「島峯徹先生」6b)(以下、島峯伝)が唯一のものといっていい。東京医科歯科大学の学生が発行する“医歯大新聞”の古い号7)に徹の生いたちに関する短い記事があるが、これは学生の記者が当時同大学の学長をしていた長尾ら関係者に取材して構成したものらしく、島峯伝の出版以前の記事だけに初報として評価されるが、その後明らかになった史料と照合すると少しまちがいがある。いずれにしてもこれらの記録は、医学という分野のそのまた一分野にすぎない歯科という狭い世界のごく一部の者だけが知っている史料で、そういう意味では、島峰徹は、現在では、世俗的には殆ど無名に近い存在であろう。
 長尾は島峰に師事した最初の東大出の医学士で、後に島峰の奔走で創設されたわが国初の官立の歯科医師養成学校である「東京高等歯科医学校」で教授となったが、もともとは、島峰がドイツから帰朝する前に東大医学部を卒業(大正2年12月)して長与又郎ながよまたろう8)の病理学教室に入り、のちに歯科を志望して石原久9)の歯科学教室に入局した医師である。
 長与又郎はさきに短くふれた長与専斎の三男という華麗な一族の出で、出自学力人望のどれをとっても学内で一目おかれた際立った俊才、卒業の年次が島峰の一級上であった。一方島峰は貧窮の苦学生で、同郷の実業家内藤久寛ひさひろから学費の提供を受けて修学を続けていた。しかしこの両者は、幸いにもウマが合ったのだろうか終始昵懇な間柄だったようで、後にこの和やかな人間関係が、石原教授対島峯講師の対立以来、東大医学部と高等歯科との間にわだかまっていた険悪な雰囲気を一掃するのに大きな役割を果たした。それは後のことである。
 長尾が入局した当時の東大の歯科学教室は、明治35年(1902)に開設10)されてから10年以上たっていたが、まだ講座にもなっていない弱小教室で、石原久が佐藤外科の助手から抜擢され、助教授としてこの教室の主任をつとめていた。
 東大医学部に歯科の設置を思いたったのは、さきの佐藤外科の主任教授であった佐藤三吉さんきちといわれている。佐藤は、ベルツ(内科)と並び称された外科のドイツ人教師スクリバの後任の日本人初の外科学教授である。ベルツのあとを継いだ2人目の内科学教授青山胤通たねみちと同郷かつ同級で、ドイツ留学も一緒だった。日本の外科学はこの人から始まったといえる立場にある。
 佐藤三吉が東大医学部に歯科の創設を思いたった理由は明らかではないが、ここには明治30年と34年に、当時の新聞を巻き込んで展開された「官立歯科医学校」設立の請願運動が文部省に与えた影響があったことは間違いないだろう。
 大学とすれば、別に歯科ばかりではない。整形外科も耳鼻咽喉科も必要だった。これらは全部外科系の科目である。人材の供給源はたった一つの佐藤外科しかない。
 特に歯科が難題だった。ポンペ以来外人教師の日本における医学伝習で歯科が教育された形跡は全く見られない。だからだろう、希望者が誰もいなかった。古くさい漢方の口中医の生き残りや、口中医ですらない香具師たちが、まだ街頭でしがない歯抜きや入歯渡世をしていた頃である。いかに落ちぶれたとはいえ、路頭で医術を売っていたのは歯医者だけである。歯医者は低く見られていた。町には医術開業試験をパスした新進の歯科医はもちろんアメリカの大学出の歯科医師もいたが、東大医学部の出でない者を一教室の責任者にする事など東大は全く眼中にない。
 困り果てた9)佐藤は石原に目をつけた。一説によると、数人の教室員に籤をひかせたところ、石原が歯科に当ってしまったのだという。石原にしてみれば、ババを引いたようなものだったかもしれない。石原は一高から東大に進み、明治27年卒業の「若いころから全く真面目で他の人のような失敗談もなければ逸話ももたない廉直勤勉な学徒」9)で、当時は卒業後5年目の助手だった。結局この人事は失敗で、東大にも歯科学にも、石原にも島峰にもよい結果をもたらさなかったのだが、それは後から振り返って見ての話である。
 佐藤は留学のおまけをつけて石原を助教授に抜擢し、歯科の主任に据えた。石原はほかの教授候補者と同様ドイツへ留学した。留学中に歯科学教室が誕生した。彼の帰朝は先にも書いたように明治36年である。帰朝すると石原は内科の病室の片隅を借りて、歯科の外来診療を開始した。
 石原がドイツで歯科学の何を履修しどんな論文を書いたのかは一切わからない。大正5年に彼は博士の学位を得ているが、これはドイツから帰朝した島峰が、すぐ講師になって堂々たるドイツ語の論文11)を提出し学位を得た(大正3年)のに、年上の教授たる石原が無冠のままではという配慮があったためか、<推薦>によるものだった。
 
 この歯科学教室は、長尾の入局後すぐ講座に昇格し(大正4年)、石原は初代の主任教授になった。ふつうなら、長尾の入局当時のこの教室は、勃興の意気おおいにあがる新進の教室で、その後の日本の歯科学研究の中心となってしかるべき所であった。しかし、石原はやる気がなくて教室は全くふるわず、周囲からバカにされ放題のようなところがあったようだ。一説によると、石原は生涯一編の論文も書かなかったといわれている。やる気満々の学士教室員の憤懣は当然たかまってゆかざるをえない。これじゃ新しい町医者にも劣るじゃないか。こんな教室ってあるか。歯科学とは一体なんなんだ。外国じゃどうなっているのだ。長尾ら教室員は暇さえあればこういう議論をしていたという。長尾の著書「一筋の歯学への道普請」6a)のこのあたりの叙述には迫力がある。(周知の石原の業績は、大正7年に「日本歯科口腔科学会」を設立して初代会長に就任したことであるが、この学会はその後「日本口腔科学会」と名称を改め、日本医師会、、、傘下の唯一の歯科系の医学会としてユニークな存在になっている。)


[出典]
http://members.jcom.home.ne.jp/emura/simamine.1.htm


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