2014年11月5日水曜日


7) 戦国大名化する諏訪氏
 諏訪氏は古代より祭政一致の統治体制をとり、大祝は現人神として祭祀を司り、同時に政治権力と武力を掌握してきた。ただその肉体には、神霊が宿る聖なる身として、神郡としての神域・諏訪郡から出る事は神誓として禁忌されていた。しかし中世後期、社家領主として諏訪郡に留まるだけでは、諏訪氏が武家領主として生き残れなくなっていった。絶え間ない戦乱期、惣領として郡外に出て、戦陣の指揮を執る必然があった。 それで古来より神氏は、その神誓を守り、諏訪惣領家の幼男、もしくは一門の子弟を大祝として奉じ、長ずれば新たに幼男をたて、自らは惣領として武士として諏訪郡を統治してきた。当初は、惣領は大祝と一緒に前宮の神殿にいた。 そして中先代の乱以降、大祝頼継は朝敵となり、その地位を失ったが、その後も南朝方として、足利幕府に反抗してきた。その間、大祝は信嗣信貞信有有継と惣領家が継承し、寧ろ諏訪家の同族的結束が強化された。
 有継の在位は、3代将軍足利義満の時代、応永4(1397)年から4年間であったが、次代の氏泰以後、諏訪氏没落の頼高まで15人が大祝に就いたが、いずれも惣領家からではなく庶子系の出自で あった。その間社領を基盤として大祝も幼年より成人になるにつれ、「大祝は、古代より祭政一致の体現者であったはず、単なる聖なる存在ではなかった、 と・・・・」、それに従う神事実務祠官としての神長官(じんちょうかん)、禰宜大夫(ねぎだゆう)、権祝(ごんのはうり)、擬祝(ぎはうり)、福祝(そえ のはうり)の5官祝も、その意識を強めていった。
  ここで注視すべき事は、南北朝の争乱が収束するころ、諏訪惣領家でも所領の分割相続から惣領単独相続へと権力集中が志向されていくと、惣領就任が相続資格者間で様々な葛藤を呼んだ。更に中先代の乱の主将・諏訪頼重の孫・頼継は高遠へ逃れざるをえず、その子信員は惣領家を継げず、神領の地・高遠を拠点とし、やがて高遠氏の始祖と祀られた。
 上伊那竜東地域(辰野町)では、高遠に本拠をおく諏訪高遠氏を主軸にした国人・地侍による地縁的結合を背景にして、高遠氏が台頭しその子孫は伊那地方で勢威を振るった。一方、諏訪惣領家は、頼継の弟信嗣の系統が引き継いでいった。 そして南北朝の争乱の末期、諏訪社下社は、南朝方上社から離脱し、室町幕府に帰順し自立の道を歩んだ。
 府中の小笠原氏は、伊賀良の小笠原政貞を支援する諏訪上社を牽制するため下社と連携した。 応永期(1394)以降、狭い諏訪郡内で、諏訪惣領家高遠諏訪家上社大祝家下社金刺家の4つの勢力の相克が始まる。 康正2(1456)年、8代足利義政の時代であった。大祝伊予守頼満とその兄安芸守信満とが争う。『諏訪御符札之古書』は「此年7月5日夜、芸州・予州大乱」と記す。それ以上の記録は、他にも見られず、ただ大祝頼満と頼長父子で、18年間その地位に就き、惣領家信満を脅かすほどの実力を有したといえる。この大乱を契機に惣領信満は、その館を上原の地に移した。以 後上原が諏訪郡の中心地として栄えていく。 信満以後、宮川以東の上原、神戸、桑原、栗林、金子等を所領とし、武士惣領家として上原の館に住み郡治にあたり、弟・頼満の系統が大祝家として前宮の地に 住み、干沢城(安国寺城・茅野市安国寺)を拠り城として宮川以西の安国寺、小町屋、高部、神宮寺、田辺、大熊等を領地とした。
 4代将足利義持の時代でありながら、先代義満が実権を握っていた時代の応永7(1400)年の大塔合戦で、守護小笠原が大敗し守護職を解かれ、その権力は衰微した。以後、小笠原氏は府中と伊那とに分裂し、さらに伊那が松尾と鈴岡に割れ三つ巴の内紛となり、信濃国は中小の有力国人衆達が割拠する早くも戦国時代となっていた。 文明11(1479)年伊那の伊賀良で兵乱が生じる。府中の小笠原長朝が伊賀良の小笠原政貞を攻めた。この時、深志の小笠原一族の重鎮・坂西光雅は伊賀良の小笠原政貞に属していた。坂西光雅は諏訪上社を信仰し、第8代将軍義政の時代の応仁2(1468)年には、頭役をやり遂げている。諏訪方はその関係もあり、小笠原政貞の援軍として、その本拠地伊賀良へ、大祝継満と高遠継宗が出兵している。
 継満の妻は高遠継宗の妹で義兄弟になる。この時、大祝継満は29歳であった。郡外にでるため大祝を一旦、辞している。帰還後、復位している。この時期、大祝も郡外に出兵できる独自の兵力を養っていた事になる。それが文明の内訌へと繋がる。 文明12(1480)年8月12日、諏訪上社の兵が、再度鈴岡の小笠原政貞支援のため、伊賀良に出兵した。政貞の叔父・松尾の小笠原光康が、甥の政貞を攻撃するため府中の小笠原長朝の援軍を要請したためであった。
 『守矢満実書留』文明12年9月20日の条には、「この日、小笠原民部大輔(長朝)の敵として、仁科西牧山家(やまべ)同心なすの間、民部大輔山家に寄せ懸け城櫓を責めらる。山家孫三郎討死なす。口惜しき次第なり。」と記され、小笠原氏が松本市入山辺のあった山家城(やまべじょう)を攻めたことが知られる。『諏訪御符礼之古書』 の長禄元(1457)年の条には「府中、山家為家、御符之礼一貫八百文」とあり、文明7(1475)年には、小笠原氏に本拠地を追われた山家光政(みつま さ)が、諏訪信満に太刀を送り、山家郷に帰ることができるように支援を願い、7月16日に帰郷した。諏訪上社との関係が深かったといえる。諏訪惣領家政満 は安曇野大町の仁科盛直と現在の松本市に当たる梓川村の西牧氏と山辺の山家孫三郎らと同心し、府中の小笠原長朝に敵対していた。 文明13年4月19日、諏訪惣領政満は、山家孫三郎の遺族光家を支援するため出陣し、23日、小笠原長朝の府中に攻め入った。このとき、政満が手兵として率いたのは高遠氏ら伊那郡の諸氏族であった。諏訪勢は仁科、香坂の両軍勢とともに松本市にあった和田城攻め立てると、長朝は戦局の不利を覚り山家氏と和睦した。
  同年5月6日小笠原政貞は、諏訪上社に社参して、大祝継満惣領政満神長官満実と会し、年来の神恩を謝し、今後も諏訪上社を崇敬すると自筆の誓紙をだしている。
 翌14年6月、高遠継宗は高遠氏に藤沢荘の代官として仕えていた保科貞親(諏訪一族)と、その荘園経営をめぐって対立し、大祝継満と千野入道某らが調停に乗り出したが、継宗は頑として応ぜず不調に終わった。継宗は笠原三枝両氏らの援軍を得て、千野氏・藤沢氏らが与力する保科氏と戦ったが高遠氏の劣勢に終わった。 以後も保科氏との対立は続き、さらに事態は混沌として複雑になる。同年8月7日、保科氏が高遠氏に突然寝返り、連携していた藤沢氏を4日市場(伊那市高遠町)近くの栗木城を攻めた。この時、惣領政満は藤沢氏を助け、その援軍も共に籠城している。
 15日には、なんと!府中小笠原長朝の兵が藤沢氏を支援するため出陣をして来た。17日、府中小笠原氏と藤沢氏は退勢を挽回して、その連合軍は高遠継宗方の山田有盛の居城・山田城(伊那市高遠町)を攻撃したが、決定的な勝敗はつかなかった。『諏訪御符礼之古書』によれば、「府中のしかるべき勢十一騎討死せられ候、藤沢殿三男死し惣じて六騎討死す」とある。  この戦国時代初期、諏訪氏は多くの苦難を乗り越える事で、戦国大名として成長しつつあった。諏訪氏は、下社金刺氏を圧倒し郡内を掌握する勢いであり、杖突峠を越えて藤沢氏を支援し、一族高遠継宗の領域を脅かしつつあった。大祝継満も大 祝に就任して20年近い、年齢も32歳に達している。諏訪家宗主としての誇りと、度々の郡外への出兵で、軍事力を養ってきた。そして、諏訪大社御神体・守 屋山の後方高遠に義兄弟の継宗がいる。彼らは、自ずと連携し、そこに衰勢著しい金刺氏を誘い、「諏訪上社を崇敬すると自筆の誓紙」を差し出した伊賀良の小笠原政貞とも同盟した。
 孤立する惣領政満は、大祝継満の背後の杖突峠越えの藤沢郷を領有する藤沢氏と盟約を結び、その後方高遠継宗の連携策を阻もうとした。その一方、多年に亘り仇敵としてきた府中小笠原長朝の支援を仰がざるを得ず、盟約を結んだのが実相であろう。 ここまでは、大祝継満の策動に神長官を初めとする5官祝も、賛同し協力したであろう。しかし継満は策の成功に奢り、策を誤った。それが自らの滅亡を招いた。

[出典]
http://rarememory.justhpbs.jp/suwasi/si.htm

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