2014年11月28日金曜日

千曲塾



長沼への行きのバスの中
市川塾長:柳原辺は、裾花川などの扇状地の末端です。水の一番安く得られるところ。扇状地ですから地震には強い。しかも高速道路にも近い。そういうことで工業団地に選んでいるわけです。工業立地を考える場合、水を抜きには考えられません。
 工業用水は、地下水です。しかし深井戸の場合、汲み上げ過剰で年々、水位が下がっています。水収支のバランスがとれていない。長年かかって貯えられた水資源を食っているわけで、そこに問題があります。
 
 いま緩やかな扇状地を下っています。やがて氾濫原になりますが、氾濫原には、礫がありません。礫があるところはかつて千曲川の河床だったところです。そ こにガソリンスタンドがありますが、それは旧河床だったところを選んで造っています。地震を考えるとそれが一番無難です。見ていただくとお分かりですが、 千曲川に沿ったところは、川に沿って集落が延びています。ご存じだと思いますが自然堤防です。長野盆地を見ますと、更埴市から下流、千曲川は蛇行していま す。河川勾配が900分の1とか、これから行く長沼周辺は、千曲川河川事務所の地図で見ますと、1,100分の1以下です。緩やかな河川勾配ですから、自 然堤防が発達します。その自然堤防の上に、これから訪ねる長沼の集落があります。
 長野盆地の自然堤防の中で、一番比高(河川敷からの高さ)が大きいのが、長沼の赤沼です。
 いま、通過している集落は村山(長野市)です。対岸も村山(須坂市)があります。元、この両集落は一つでし た。千曲川が移動して、村山村は二つに分かれたのです。須坂市の福島新田と北屋島(長野市)も、かつては一つの集落だった。それが明治になって分かれた。 それから、右岸の綿内村と左岸の南屋島も本来は一村だったものが分かれている。牛島(長野市)は、長野市に合併する前は上高井郡だったが、その前は更級郡 だった。大室も高井郡だったのが明治になって埴科郡になった。千曲川の沿岸は、常に河床が移動している。それに伴って集落も移動してきた。いかに水害がひ どいか分かります。水害はひどいが、一面、肥えた土を運んできます。しかも礫が少ない。非常に土地が肥えているので、長芋、ごぼうなどの根菜類の最適地に なっています。
 千曲川の沿岸は川風が強い。お蚕に着く「きょうそ」というウジが桑の葉から落ちてしまう。それで健全な種繭ができます。長野市・須坂市・更埴市・上田市・小諸市の大久保辺りまで、日本有数の蚕種の産地だった。
 千曲川の堤防の上を行くので、地形がよく分かります。いま右手に茅葺きの大きな家が見えます。あれが小坂家です。屋根の上に煙出しがついています。櫓、 気抜け、高窓とかいろいろ言います。煙出しが付いていたらかつては養蚕農家でした。
 この辺りから、千曲川の河川勾配が1,000分の1以下の緩勾配です。1,000m流れて1m下がります。村山橋は大正の終わりに開通しますが、かつて長野県で一番長い永久橋だった。
 左の窓を御覧ください。長沼の集落が千曲川に沿って長く延びています。集落の後方、水田の広がるところが氾濫原です。後背湿地ともいいます。後背湿地より自然堤防の方が0.5m~6m高い。
 長沼は水害の常襲地帯です。かつて養蚕が盛んな時、養蚕よりも水害の少ないのがリンゴ栽培で、いち早く明治時代から始められた。
 河川敷と集落のある自然堤防をくらべると、集落のある自然堤防の方が高い。
 浅川の流域の豊野の氾濫原は、水害が多いので、「杞柳」の栽培が多かった。
 「杞柳」細工の盛んなのは兵庫県豊岡市。次いで多いのは中野市です。いまはあまり造っていませんが…。昔、私の学生のころは、「杞柳」の行李に衣類を詰めてチッキで送りました。「杞柳」の多いところは水害常襲地帯でした。
 延徳田圃と、長沼・豊野の氾濫原が、信州における「杞柳」の特産地だった。いま走っているのが、大正時代から昭和の初めにかけてできた内務省堤防。これ ができるまでは、常に水害に悩まされてきた。これを造る時に、働きに来た越後の女性が多かった。その中できれいな方が、この辺にお嫁になっている。(笑 い)
 いまリンゴにスプリンクラーで水をやっていますが、これは地下水です。地下水には、一番上層にある、圧力のない自由水(フリーウオーター)と、地下数十メートルにある被圧水を深井戸でくみあげている場合があります。
 日本で一番深い深井戸は、東京の浅草辺りで、3,000mのものがあります。アメリカの西部でも3,000mの深井戸で、被圧水(プレッシャーウオーター)を汲み上げて、灌水している。
みょう笑寺境内の洪水水位標前で
笹井住職:みなさん、おはようございます。暑い中御苦労さまです。みょう笑寺住職の笹井でございます。
 みょう笑寺は、千曲川の水害の水位標があるということで、今日みなさんにお出かけ頂いたわけですが、ここにあるのが、本堂にある水位標の写しであります。
 本堂の中にあると、みなさん普段見ていただけないので、昭和54年本堂を新しくするのを機に、こちらへ同じ高さで写してあります。
 一番上が、今日皆さん方が勉強される寛保二年の水害の水位です。
 それを説明する前に、今みなさんが立っている土地がどんな土地か、説明いたします。すぐ堤防の向こうが千曲川です。千曲川が一番高いように思われます が、千曲川からだんだん高くなって、ここが一番高いのです。100mほど向こうに県道がありますが、そこはここからもう1mも下がります。みなさん御存じ のアップルライン(国道18号)は、ここから2mちょっと下がります。千曲川から離れるに従って、高くなるのではなくて、ここが一番高くて、西へ行くにつ れて下がるのです。
 みょう笑寺は、いまから420年ほど前、天正8年(1580)織田信長のころに、三水から移ってきたのですが、当時はもちろん堤防はございませんでし た。ですからこの地域で一番高くて、水害の無い場所を選んで、寺を建てたわけです。東西に切った線では、一番高いところに立っている寺です。そんなことも 合わせて、水位を考えて頂きたいのです。
 みなさん一番よく御存じなのは、水位標では、ちょっと低くなりますが頭の辺の高さにある弘化4年の善光寺地震の洪水があります。
 これが、言い伝えでは、一般の民家の軒先の高さだったと言われています。弘化4年の時は、犀川にたまった水が一気に流れたから、みょう笑寺の檀家さんだ けでも五十名位、水死なさっています。そのほかの洪水はだんだん水位が増してきた。この辺の方々は水害に慣れていたので、水が増してくるとそれなりに準備 して逃げてしまったものですから、水位は高くても、そんなに死者は多かったわけではありませんでした。
 一番上の寛保2年の時には、どのくらい死者が出たか、私は把握しきれていません。この時もみなさん、近くの山へ避難されたように聞いております。
 私はここで生まれ五十年余になりますが、まだ被害に遭っておりません。昔の言い伝えでは水が増してくると、水害に遭わないように自分の家の家財道具を整 理して、畳を上げてからお寺の本堂に畳を上げに来ると、ちょうど水が増してくるというくらい、みなさんの立っているみょう笑寺は高い場所にあります。
 水害の常襲地に住みながら、まだ水害に遭っていないので、もし水害になったら、どう自分たちの生活を守ったらよいのか、だんだん昔の言い伝えが薄れて行くのを心配しています。
 水位標のもとになった、庫裏にあります墨で書かれた水位標を、見ていただきます。観音堂に弘化4年に亡くなった方の位牌があります。
 
本堂で
 前は茅葺きの本堂でした。何度も水害に遭いまして、茅葺きの屋根を葺き替えてもどうにも持たない、というので昭和54年に本堂を改築しました。残したの は洪水の水位を記した柱と須弥壇という仏さんの前のケヤキの壇だけです。須弥壇は解体して組み立て直したのですが、その板と板との間に、細かい「花泥」が いっぱい詰まっていました。もちろん、本堂は一丈一尺(3.38m)の水に浸かったのですから…。こんなところまで、花泥が入って、被害を受けたのだなあ と思いました。
 そんなわけで床下も、私が小さい時は立って歩けるところもありましたが、奥の方は這っても行けないほど、花泥が山のように詰まっていました。
 観音堂には、弘化4年の水死者を供養した位牌と、古間の檀家が古間川の洪水で亡くなって供養した位牌があります。
寺の山号などについて質議
住職:長野市で一番低いところは現在、新幹線の車両基地になっているところです。あそこへ行って水がたまってしまう。長沼は長い集落なんですが、それは川の中洲の背中のところに家を建てたようなものです。
 
みょう笑寺~川中島古戦場
市川塾長:現在、長沼の集落の自然堤防の上を走っています。自然堤防は土地が肥えていますから、昭和 初期の経済恐慌期にはごぼうを作っていた。どこへ出荷したかというと、北陸三県。ここは浄土真宗が盛んで、法事をよく行う。その時のきんぴらごぼうに使わ れた。また野菜が不足していたシベリアにも輸出された。
 松代の長芋はかつて日本一だったが、現在はそうでは無い。連作障害と新興産地が出てきたからです。いま日本一は、青森県三本木原の火山灰土地です。
 長野県でも松本盆地の朝日村・山形村は火山灰地で、長芋を作っています。
 川は蛇行すると摩擦が大きくなり、自然堤防はより大きく発達する。さっきみょう笑寺の住職が、花泥という言葉を使っていました。なぜ花というかと言う と、洪水が持ってくる細かい微粒子が、花粉のように見えます。花泥は花水の持って来た泥ということで、なかなかうまい言葉だと思います。
 非常に細かい粒子が堆積したのが氾濫原です。この辺では氾濫原の深さが200mぐらいあります。これが沖積土です。この七割から八割が水ですから、地下 水を汲み上げると地盤沈下を起します。越後平野の沖積土の厚さは1,000mもあります。なお長野県で沖積土の深いのは、諏訪湖の三角州の300mです。
 この辺の家は盛り土をしてあります。長野盆地で盛り土の高いのは、更埴市の土口で、高いところは5mもあります。盛り土は富の程度を表します。だから嫁をくれる時は、盛り土の高さを見てくれると言われてきました。
赤沼の「善光寺平洪水水位標」前で、新幹線の車両基地がすぐ近くに出来た。
 洪水の発生頻度は18世紀に高い。寛保2年(1742)の「戌の満水」から、19世紀の終わりまでが多かった。どういうことかというと、天明・天保に始 まって、日本は小氷河期になります。それで気候が非常に不安定になり、それとともに洪水が頻発するようになった。
 20世紀に入りますと、気候は安定してくる。20世紀は気候的には非常に恵まれた時です。今後はどうなるか。予測は難しいが雨が降る量は増えて来ると思 います。世界中に降る雨の量は同じですが、ぶれが大きくなる。いま地球上も暖かいところもありますが、寒い所もあります。そういうことで地球の気候が不安 定な時期に入ったといえるかと思います。温暖化を防ぐために、二酸化炭素の排出規制が大きな問題になっています。
 前方に丘陵が見えます。豊野丘陵で豊野層とよばれる洪積層の丘陵です。この山麓に南は長野市の共和から北は飯山まで、断層線が何本も走っている。しかも逆断層で、弘化4年の善光寺地震ではこの山麓線に沿って死者が出ました。
 越後へ行くと頸城丘陵を越えた高田でも死者が出ている。そういうことで上越と北信は災害まで一体である。(笑い)
 
赤沼から川中島古戦場へ向かうバスの中
市川塾長:善光寺平洪水水位標のある辺りは氾濫原で、洪水の常襲地帯になっており、土地が安いわけで す。そこでJRは新幹線の車両基地をつくった。現在バスは自然堤防のはずれを走る「アップルライン」を北から南へ向かっています。右手の氾濫原は水田地帯 で、左手の自然堤防上は集落とリンゴ畑です。
 長沼の自然堤防上にはブドウは無い。なぜ無いかというと、春先に扇状地の末端から自然堤防上を冷たい気流が停滞します。ブドウは2月から芽が活動しだす。その時に冷たい気流が根を痛めて、眠り病になってしまうからです。
 中野市でも標高にして370m以上にブドウ畑がある。冷たい気流は下へ降りてくるから、標高の高い扇状地中央の方が気温が高い。これを気温の逆転現象といいます。この辺りでも気温の逆転現象があると思います。だからブドウが無い。
 この辺のブドウの高度限界は700m、東信へ行くと800m。これは緯度が違うからですが、御代田町では820mで作っています。
 いま大町という集落名が見えました。農業集落で「町」の付いた集落があります。これは中世に起原を持つ集落です。
 千曲川は長野盆地では緩やかに流れますから、かつて鉄道が発達する以前には水運が発達した。舟運の目安は河川勾配で300分の1です。上田辺りは190分の1ですから港をつくってもあまり利用されなかった。
 農家が屋根に煙出しという通風を良くするための施設を付けたのは明治30年以降です。どうしてかというと、明治29年に輸入綿花の関税が撤廃される。こ の辺りは綿の産地だったのですが、綿作がやってゆけなくなったので桑園に転換するわけです。
 千曲川の沿岸は夏は綿花を作って、秋に菜種を蒔く。春に菜種をしぼって菜種油を江戸へ送っていた。菜種の搾り粕を綿の肥料にした。綿花と菜種の栽培はこ の辺ではワンセットになっていました。須坂の日野村辺りは、明治の初期には畑の5割まで綿を作っていた。春、千曲川の沿岸の自然堤防は一面菜の花畑になる ので、黄金島(こがねじま)といわれていた。
 右手に条里制の水田がみえます。条里制というのは律令国家が7世紀から9世紀にかけて、耕地を区画整理する。この条里制がこの盆地では長野市の平林、川 田、篠ノ井の石川、それから更埴市の屋代田圃。上田へ行きますと塩田平と染谷の段丘。松本盆地では島内、島立、新村といったところに残っています。条里制 の水田があったということは、すでに稲作は大規模に行われ、当時の政府が耕地整理するだけの価値のあったところです。歴史が早く開けたところと考えてよ い。
 400年前松代藩家老の花井主水が、裾花川の瀬替え工事を行った。いま裾花川の水は南へまっすぐ流れて犀川に合流していますが、元は八幡川の用水路に 沿って東へ流れていた。七瀬という地名の辺りは、裾花川が乱流していたことを示しています。
 高田には裾花川がつくった段丘があります。そこを通って柳原で千曲川へ合流していた。注意して見ると分かりますが、犀川の流路は裾花川の瀬替え工事のた めに、南へ押されています。犀川の左岸に旧更級郡の地籍があります。これは現在の長野工業高校のある辺りです。長野県下の都市で、瀬替え工事をした例は、 松本市の女鳥羽川があります。
 谷川が平地へ出るところに扇状地ができます。その扇状地が隆起して段丘を造っていますが、その一番良い例が県庁です。県庁は本館と議員公舎との間に6m ほどの段丘崖があります。信州では段丘崖のことを幅といいます。県庁所在地が「大字南長野字幅下」ということは、裾花川の段丘崖の下にあるということで す。松本のJR駅は女鳥羽川の作った段丘の上にあるので「巾上」。飯田へ行くと、松川の造った「羽場」字は違いますが、信州には至る所に「はば」地名があ ります。全国的に見ますと、富山県で「幅」を使っています。関東へ行くと「垰」(はけ)といいます。
 南佐久郡川上村へ行くと、川端下(かわはけ)があります。字は違いますが、金峰山川が造った段丘の上に川端下の集落があるということです。千曲川にまつわる地名を探ると、川に愛着が増すと思います。
「平と盆地」について。また「地名の表記の変遷」について
 長野大橋をわたって、犀川の扇状地上を走っています。非常に緩やかな扇状地です。戦後までこの地域の水田は、米麦二毛作田でした。日本で一番うまいうど ん粉がとれたのはここです。伊賀筑後オレゴンという小麦を作っていたからです。伊賀というのは三重県の伊賀上野市に農林省関西試験場があった。関西試験場 が九州の筑後平野の小麦とアメリカのオレゴン州の小麦とを交配して造った新品種が伊賀筑後オレゴン種。これはグルテンが多くてうまい。東京の一流のうどん 屋さんで使っていた。
 なぜ信州で作れたかというと、関西で作っても梅雨が長いので芽が出てしまう。川中島平から更埴市、上田にかけては全国でも有数の雨量の少ない地帯で、約 9000町歩ほど伊賀筑後オレゴンが作られていた。これが大正時代から戦後まで、日本のうどん業界を担ってきた。収量が少ないのと輸入小麦に押されて、 すっかり衰退している。最近「伊賀筑後オレゴン」を作る会ができ、自家用に楽しんでいる。
 日本で一番雨量の少ないのが、オホーツク海沿岸の網走で、年間850mm。次いで川中島平から上田にかけてで約900mm。網走は気温が低いから湿度が 高くなり、日本で一番乾燥しているのはこの辺りということで、伊賀筑後オレゴン種などがよくできたのです。
巨峰ブドウの話
 巨峰ブドウはフランス産のセンチニアル種とアメリカ産のキャンベル・アーリー種を交配して、昭和12年に富士山麓見える伊豆半島で育種された。長野・上田両盆地の雨が少ないところでないと、花振いして露地栽培ができません。
川中島古戦場付近で
 なぜ戦国時代の武将が川中島平を巡って争ったかというと、この平では鎌倉時代から米麦二毛作が行われていた。上杉謙信はうどんなど食べたことが無かっ た。雪が多いから小麦ができない。また武田信玄にとっては、甲州というところは米の少ないところでかつ鮭が獲れなかった。富士川にはサクラマスは登っても シロザケは登って来ない。
 だから、上杉にとってはうどん粉が得られる、武田にとっては鮭と米が手に入るという魅力のあるところが、この川中島平だった。そこで5回にわたって戦われたわけです。
 
川中島古戦場の千曲川左岸の堤防上で
岡澤氏:人間のお尻のような山が皆神山、一段と高い山が尼飾山。川中島の戦いのころは、真ん前に見え る金井山の頂上に城がありました。金井氏の城です。寺尾氏の支族であります。低い方の山には寺尾氏の寺尾城がありました。高いところの尼飾山には尼飾城が ありまして、これから行く海津城が築城される前は、東条氏の居城でありました尼飾城が、この川中島地方を押さえる要として使われていた。
 千曲川は寛保2(1742)年の大洪水のころは、山裾に沿って流れていたと考えてよろしいのではないか。金井山の出っ張りを廻って、大室、関崎と巡り 巡っていました。若穂町の牛島は明治22年まで更級郡でした。そういうことで、牛島の東側を千曲川は巡って流れていた。大体いまの長野電鉄・河東線に沿っ て千曲川は流れていたと考えてよい。
 まっすぐ前の金井山の麓で石材を切り出して、切り立ったところがありますが、柴石と呼ばれる間知石。家の土台石などに使われました。江戸時代の末期にな りますと、川舟を使って村山とか、犀川を使って笹平の方へも運ばれて行ったようです。
 柴石を切り出した東北の方にかけて金井池があります。これはかつて千曲川が流れていた跡にできた池で、河跡湖とされています。大室にも牛池という河跡湖 がありましたが、埋め立てられて残っていない。このように山裾には、千曲川が流れた跡がいくつかありました。
 川の向こうに家があります。その中に杉の木が一本見えます。そこが山本勘助のお墓のあるところです。松代藩では海津城を造る時、千曲川を一つの防御の手段として使いました。石垣を洗うように、千曲川が流れています。
 そういうことで寛保の大洪水の時はお城は大きな水害を受ける。城下町も水浸しになった。そこで藩では、平和の時代になって防御の必要も薄れ、海津城を水 害から守るため千曲川の瀬直しをするわけです。大体、延享のころから始められたというから、寛保2年の次の年が改元されて延享になるから、寛保2年の満水 からどの位も経たないうちに、千曲川の瀬直し工事が始まる。
 買い上げた土地が川幅11間だった。ところが、十年後には川幅は44間になりました。33間分は、越後の海へ持って行かれてしまった。そういうことで、十年たらずの間に川は広くなるわけです。
 東福寺(長野市篠ノ井)の赤坂橋辺から、東の方へ千曲川を付け替える。海津城を避けて。途中まで掘って来まして、後はお好きなように流れて下さい、と。 こういうことで、古川を止められましたから、新川の方へ水が流れて行くわけです。そのために下流の村々が分断されて行くわけです。千曲川の右岸に松代町に 西寺尾、左岸に篠ノ井西寺尾と、西寺尾村が二つに分かれました。それから下流にゆきますと小島田になります。小島田も二つに分けられます。右岸の松代町小 島田と左岸の長野市小島田町。
 眼下の堤防の中は、千曲川の沖積地で沖積土が堆積していると思われるが、1mも掘ると、犀川の河原の石が出てくる。千曲川が造った沖積地では無くて、犀 川が運んできて造った扇状地なのですということで、扇状地の末端にあたり、水には恵まれていました。掘りますと、千曲川の水が出てくるのでは無くて、犀川 の伏流水が出て来て、井戸水として使っていたのです。千曲川はすぐ横を流れているが、ここの田んぼにかける水は、約8km上流の犀川の犀口から運んでく る。千曲川の水がすぐ横にありながら使えない。川中島地方は、千曲川の恩恵で繁栄してきたのでは無くて、犀川の運んできた水によって育まれてきた。
 そういうことで、寛保2年の満水で千曲川の瀬直しされたために、末流の方は非常に大きな影響を受けた。ここから少し下流の小島田地籍には、堤防の中に水 田がある。この内務省堤防が完成するのが昭和2年。昭和5年の参謀本部の地図には堤防が載っていません。9年ごろの地図から載ってくる。この堤防を造って もらったためにどうなったかというと、良い面もありますし、悪くなった面もある。
 良かった面は水害が無くなってきたこと。それから昔は連続堤防ではありませんので、ところどころ切れていた。霞堤だった。だから増水しますと、水が漏れ てきた。冠水被害をうけた。みんなで薄く広く被害を受けましょうと言うことだった。
 特に瀬直ししたために、どうなったかといいますと、明治の初めのころの町村誌を見ますと、小島田に三願寺という地籍があります。ところがこれは三貫の土 地、三貫地と言うことだろう。ここにかっこして、係争地と書いてある。裁判中と書いてある。対岸の柴村と境界争いをする。従って江戸時代の絵図面や検地帳 は、小島田村関係のものはすべて、大阪大審院の付箋が付いています。証拠品として持って行ったのです。
 それから松代の寺尾には、「本村東沖」という法務局に登録してある地籍がある。ところが、「本村東沖」という地籍を寺尾村から見ますと西なんです。「本 村西沖」なら話が分かる。「本村東沖」というのは、小島田村の東沖と言うことなのです。
 そういうことで、瀬直しされたために末流の村々はいろんな影響を受けた。その影響が今日まで続いた。
 ついこの間、護岸工事をして頂きまして、小島田地区はようやく長年の圧政から開放された。というのは千曲川の右岸から、蛭川(藤沢川)が流れ込んできま して、瀬直しされた千曲川の流れは蛭川の流れによって、小島田側がどんどんどんどん削り取られて、川縁は崖になっていました。そして平成10年の千曲川の 大氾濫で大崩落した。平成10年の大氾濫が無ければ、千曲川河川事務所によって護岸工事をやってもらえることにはならなかった。「災いをもって福となす」 というのが、平成10年のあの水害だった。(笑い)
 
八幡原~松代城へ。「ねぎの話」「ヒノキの話」「県木はカツラが妥当」「松代は初期、松城」
市川塾長:松代は十万石の城下町です。十万石以上の城下町は全国に53あります。長野県にはひとつしか無い。53のうち市に成れなかった城下町が二つあります。松代と淀(京都府長岡京市)です。淀は淀君の居城のあったことと淀の競馬場で知られています。
 どうして松代が市に成れなかったかというと、明治になって埴科郡の中心地は屋代へ行ってしまう。しかも、見てもらえば分かるが、三方が山で、ヒンターラ ンド(後背地)が小さい。北西に開ける平地は沖積地で水害の常襲地帯ですから、近代に大きく成長できなかった。
 江戸時代の人口を見ますと、信州で人口が一番多いのは、六万五千石の城下町の松本です。これが12,000人。城下町であるだけではなくて、中馬交通など流通の中心でした。
 次の松代町と善光寺町はともに10,000人。そういうことで江戸時代松代は信濃国で第二番目の町だった。それが現在市街地人口は7,000人。江戸時代より減っています。それだけに、古いものはよく残っています。
 いま走っているところが北国街道松代道です。北国街道は屋代で善光寺道と松代道と二つに分かれます。松代道は須坂の福島宿を通って、布野の渡し(長野市)で、午前中訪ねた長沼へ渡ります。そこで善光寺道とまた一緒になります。
海津城にて
宿野氏:今、長野市で松代城の復元工事に取り組み、史実に基づいた整備を進めています。その中で、寛保2年の大洪水について分かったことについてお話します。
 いま立っているところから、正面に見えている門が太鼓門といわれ、南側の出入り口になります。松代城の平面図の資料を見て下さい。これが寛保2年 (1742)、「戌の満水」の折に、松代藩が幕府へ提出した「信濃国川中島松代城石垣築直堀浚窺絵図」です。城の石垣の修理や堀の泥浚いなどは幕府へ予め 届け出ることが決められており、それを願い出た時に付けて出した絵図です。その(2)が太鼓門の位置です。発掘調査の結果、建物の礎石が出て来て、それに 基づいて整備しています。
 寛保2年にはどのような被害状況だったか、この絵図に載っています。「信濃国川中島松代城修復堀浚之覚」によると、一、本丸南之方石垣折廻一ケ所、いま 青いシートの掛かっている辺りとか、一、本丸東之方石垣折廻一ケ所が崩れたこと、それから塀が十二ケ所壊れたこと、それから堀は悉く、埋ってしまったこと が記載されています。
 それでは中に入って見ます。橋の橋脚が発掘されています。寛保2年の洪水の時、本丸の南と東の橋が落ちたことが記載されています。しかし発掘された橋脚 は、その時の橋ではなくて、その後江戸時代末期に架けられたものと考えられています。
 この石垣で囲まれた空間、ここが本丸になります。満水時の経緯については『監察日記書抜」などよると、寛保2年7月28日、雨が降り始め8月1日に土塁 が欠壊して浸水した。城の中では住めなくなり避難。殿様やお子さまなどは舟で開善寺へ、二ノ丸の豊三郎さま、久米之助さまは大林寺へ避難された。
 資料のカラーの絵図を御覧ください。松代町を北から見た絵図です。一番奥の方に開善寺が描かれています。この辺りまで舟で逃げたと言われています。二ノ 丸さまの逃げた大林寺はその下左の方に見えます。この絵図は寛政年間に描かれたもので、本丸ではなくて花之丸の方に移られたときのものです。
 寛保2年の洪水とか明和の洪水とかがありまして、本丸を流れていた千曲川を時の藩主が移しました。それに伴って花の丸という御殿も本丸から移して、ここより水が来ないようにしました。
 花の丸というのは、松代城修理の絵図面を見てください。本丸があって土塁が埋っていて、その周りを外堀が囲んでいる南側に三之丸があります。その西側、 居宅と書いてあるところです。現在ここから見ますと住宅地になっているところ。藩主はそちらの方にいました。
 この絵図でも分かりますように、城の西側から北側へ千曲川が流れていました。今見ても、当時の千曲川の流れに沿うように、新しい住宅が並んでいます。地割的には、川跡は残っているのではないかと考えています。
 この城の本当にすぐそばを千曲川が流れているという状態でした。ですので大雨が降ると、すぐ水浸しになってしまうということが分かっています。寛保2年 の満水についての記録は松代町史などに載っていますが、出典がはっきりしないものがあり苦心しています。
 そのほか、明和2年の洪水の際の、幕府からの被害見分に備えた問答集の中に、「戌の満水」がでてきます。また安政6年の洪水の際にも、「寛保之度水災以 来之洪水」という記載が見られます。江戸時代は水害が頻発しますが、寛保2年の洪水はその中でも特に大きな洪水だったことが記録から分かっています。
 発掘調査しまして、「戌の満水」だ、と明確に分かるところは、実際は難しいが城の西側、千曲川に一番近い内堀を発掘した時、「戌の満水」の底浚えと推定できる痕跡が確認されています。
 資料の(3)の写真は、その時の内堀の断面です。洪水による土砂の流入や堀に落ちた草木などが徐々に埋ってきたことが層状に堆積する土の様子から分かり ます。また堀底付近には、城内すべての堀が埋まった寛保2年の大洪水の底浚えと推定できる痕跡が確認できています。
 一番下の層の部分は堆積したのでは無くて、踏まれてぐちゃぐちゃになっている層が一層ありまして、この層は「戌の満水」の時に、浚渫(底浚え)した痕跡 ではないか、と考えております。この層にはそのほかにも、弘化4年の洪水とか、さまざまな土砂の流入が見てとれまして、それから考えましても「戌の満水」 以来浚渫していないというから、堀がすべて埋まったのを3~4mまで掘り起こした、ということが分かっております。
 何か質問は。
質問者:本丸では、床上五尺(1.5m)の浸水だったといいますが、どこまで…。
宿野氏:本丸の礎石が現在の地表面から20~30cm下にありますから、そこから床の高さ50cm、さらに1.5mの高さまで、水が漬いたと言うことになります。
市川塾長:松代城を見学させていただきましたが、注意したいことは石垣です。築石だけ見ると、江戸城と大坂城と比べてみると段違いです。
 海津城の築石を見ますと江戸城型ですね。規模が非常に小さい。なぜ同じ日本で、東日本と西日本とで、こんなに築石の技術が違うかというと、西日本は築石 をしなければやって行けないような経済基盤にあった。その一つが干拓です。越後平野の干拓は湖の干拓ですが、西日本は有明海とか児島湾のように、海の干拓 です。海の干拓の場合は石を築いて堤防を造ることが大変重要な仕事になる。
 オランダなどもそうですが、オランダには石が一つもないのだけれど、ベルギーから石を輸入して築石してポルダー(干拓地)を造っている。
 また塩田をみると、東日本の塩田では揚げ浜式塩田が多い。西日本は入浜式塩田です。築石がしっかりしていないと崩れてしまう。
 それから耕作の仕方が、東北では縦畝また信州や関東では横畝になっている。ところが西日本では階段耕作になる。従って西日本では農民が築石技術を持って いる。西日本と東日本の築石技術の差が、こういうお城の築石にも出ている。石のサイズや築き方を見て、やっぱり東日本の文化圏にある、と知ってもらえれば 良い。
 
長野インター~坂城インター
市川塾長:右車窓に広がるのは千曲川の自然堤防です。ここで目立つのは長芋です。農林省では“やまのいも”と言ってます。また、さつまいもの奨励は青木昆陽が有名ですが、松代藩で奨めたのは恩田木工です。
 左の山麓を見てください。土口(更埴市)の集落です。長野県で一番盛り土の大きいところです。なかには4mもあります。特に土蔵や物置は一番高くして浸 水から守った。俗に水屋ともいいます。それでも水が漬いた時は、味噌桶を滑車でつるします。そこで古いお宅に行くと天井の梁に滑車が付いています。
 左手に見えている集落は自然堤防にのっています。その向こうに屋代田圃があります。条里制の水田跡です。山麓の扇状地に載っているのが森や倉科の集落で す。自然堤防の屋代遺跡からは木簡がたくさん出て来ている。信州でも最も早くから開けたところではないかと見られている。
 このあたりは少なくとも3世紀ごろすでに水田化されています。信州で最も早く稲作が普及した地域です。その豊かな稲作の生産力を利用した信濃の大王(お おきみ・仮称)という豪族がいて、彼が造ったお墓が森将軍塚ということになっています。森将軍塚という名前は、江戸時代に付けた名前です。
 屋代田圃の沖積地の厚さは、県立歴史館のところで94m、深いところで200mほどあります。
 森、倉科のあんずは、一目十万本と言ってますが現実には三万本程だと思います(笑い)。江戸時代、あんずは薬用に作られました。あんずの種を杏仁(きょ うにん)といって、咳の薬として使われた。芭蕉が「更科紀行」で来て、「善光寺鐘のうなりや花一里」と詠んでいます。これは安茂里のあんずを意識してう たっています。
 森、倉科のあんずが有名ですが、信州には至るところにあります。しかし関東地方へ行くと、栃木県以外にはほとんど無い。東北では岩手・青森両県に多い。西日本では岡山県にみられます。
 梅のできないところは、あんずと梅をかけ合わせた「あんずうめ」を作って千曲川最上流の川上村の梓山・秋山・川端下では栽培している。梅は日本人に欠かせないものです。そこで梅のできない青森県ではあんずを梅と称して食べています。
 いよいよ北信から東信へ入ります。今日の見学会には北信からお集りの方が多いと思います。北信には宴たけなわになると、北信流といって盃の儀を交わしま すが、厳密に言うと、北信流ではありません。飯山地方ではやりませんから。松代流というべきです。松代藩とその間にある須坂藩、天領で行われているからで す。今、通過している坂城では行いますが、上田藩ではやりません。
 今通過している国道18号の鼠宿の入口で、道がカギ形に屈曲しています。桝形といいます。まっすぐ道を作ると防御上危険だから、見通しが悪いように曲げ られています。街道の宿場にはよく作られていますが、追分(軽井沢町)には桝方の茶屋があります。
 
上田に入ると、案内役が長岡克衛さんに交代。「塩尻、岩鼻、浅間サンライン」の紹介。
長岡氏:この段丘を登り詰めたところが秋和の家並です。その東の端に正福寺があります。その境内に千 人塚があります。家並の間から右下に見えるのが千曲川の氾濫原です。大洪水の時はここまでいっぱいに水が来たのだろうと思います。そこへ打ち上げられた数 多くの遺体を集めまして、正福寺に葬った。それが千人塚です。
 今、走っている国道18号は旧北国街道です。上田の町を通り抜け大屋、海野宿、田中宿と通り抜け、小諸、やがて御代田を通って、追分で中山道と合流します。
 
正福寺で
綿貫住職:寛保2年の7月の終り頃からこの辺一帯で大雨が降り続きまして、8月1日ごろに千曲川が大 洪水になった。この通りの東の方に諏訪部と言うところがありますが、ちょうどその辺に、小諸や東部町の方から洪水で流された人が流れ着いた。そこで、上田 の殿様からも話があって、その遺体をここに埋葬したわけです。
 どうしてここに埋葬したかというと、地形的に諏訪部は坂だが、正福寺のある秋和は段丘上にあって、川に近くてしかも安全な場所だったからだと思います。
 埋葬した後、土饅頭にして、上に「流死含霊識」と刻んで塔を建てた。千人塚というのは、大勢の人という意味ですが、一緒に犠牲になった家畜なども一緒に葬った、という伝えも残っています。
 この塚の真向かいに、上田の海野町の人たちが寛保2年の洪水の数年後に、大きなお地蔵さんを建てた。犠牲者のなかには小諸とか、海野宿とか関係者も多く供養のために建てたそうです。
 現在は山門から入ったすぐ右にありますが。それは子どもたちが、お地蔵さんに乗って遊んだり危険なため、明治8年に移したそうです。また千人塚の土まん じゅうも長い間には、子どもの遊び場になって、碑が倒れ懸かったりしたため大正4年に、今のように周りを石垣で築いたり整備したそうです。
 
いま、供養は
 昔はお地蔵さんを作った講中の人たちが8月24日にお参りにきました。また寺では8月1日に供養しています。海野町からも何年か前までは供養に来ていま した。しかし、ここまで来るのは大変だというので、5~6年前に海野町に碑を作って、その地区で供養をやっているようです。それでも時々代表の方が見えて います。
長岡氏:後ろをちょっと見て頂きたい。山のとんがった峰が烏帽子岳の頂上です。この頂上から南東に かけての峰々から流れ出して、千曲川へ流れ込んでいる所沢川が氾濫したわけです。雨が降った量はこの辺一帯同じだったと思います。山崩れが起きて谷間を埋 めて、にわかに湖のようなものが出来て、それが一気に崩れた。そのためその川筋の集落が直撃を受けて潰滅した。これが上田・小県地方で一番の被害となった 金井村(東部町)の被害です。これから行くのは、その金井地区です。そこの犠牲者は、130人と言われています。
 この千人塚に埋葬されているのはどこのどなたか分かりませんが、この金井地区の人もたくさんおられるだろうと思います。それから田中宿や海野宿の方もた くさん亡くなった。遠い祖先ではあるが、その縁故の人たちが、上田市の海野町へ出て町を形成していますから、そこで、石の地蔵さんを作って供養したものと 思います。

浅間サンライン(浅間山麓広域農道)を行く
 右に見えるのが海善寺の集落です。もと海善寺と言う寺があった。真田氏が上田築城の折にこの寺を上田へ移して海善寺としたが、さらに真田氏が松代に移っ た際、寺も移して開善寺となり、寛保2年の大洪水の時真田の殿様が避難したのが開善寺だった。
 この交差点を登ったところに弁天清水があります。標高1,000m前後のサンラインをたどって行きますと、小諸の方まで名水がいくつかあります。小学校 には一番の名水があり、明治11年に明治天皇がご巡幸なさった時に、名水でお茶をたてて差し上げようということで、この辺ではこの水を使った。御膳水と呼 ばれている。このほか、「田中の御膳水」「滋野の御膳水」がある。
 そうこうしているうちに、金井へ参りました。前方の林、これが未だに林であるということは、寛保の出水の時に流れて後、田畑にしようも無いので林のまま捨て置かれたのが、今日幸いして、このように緑を残しているわけです。そこには今は中学があります。
 以前ある人が「新制中学は河原中学だ」と言ったことがあります。昭和20年代後半に、新制中学を建設することになったが、6,000坪からの学校の敷地 を得るのは耕地では難しい。そこで河原のようなところに用地を求めた。上小だけを見ましても、依田窪南部中学にしても丸子中学にしても真田中学にしても、 みんな河原のようなところを買って確保している。ここの東部中学も寛保2年の大洪水で河原になったところが、まとまって安く手に入ったので中学ができた。
 いまバスが渡る、この、水があるとも無いとも分からないような小さな川が荒れたのです。
 さきほど申し上げた烏帽子岳の右側に三方峰があります。その一番低いところが湯の丸の峠です。あの沢あたりから流れ出している水が途中で山崩れがあっ て、それが土堤のような役目をして水がたたえられた。その水が一気に崩れたので、所沢川に沿って土砂が山津波のようになって流れたわけです。最初に墓地の 一部を見ます。
 
草やぶの中に埋もれている墓
 間もなく7月27日がまいります。寛保2年に犠牲になった人々の墓の一部です。墓石は、50基くらい残っています。金井より鞍掛という包括した名前の方が残っています。
 
「火祭り」の話――八間石の前で
 次は川の向こうにある大石を見ます。こんな大きな石を押し流した土石流だったのです。途中山が崩れて、にわかに土堤ができて湖ができた。それが切れて一 気にここへ押し出し、この下流にあった金井という集落、上下合わせて約百五十戸、人口にして300人位あったと思いますが、その集落が一気に流れてしまっ た。それが寛保2年の大洪水です。さらに田中宿、常田村を押し流して千曲川に流れ込んだ。
 対岸の八重原(北御牧村)に登ってみますと、千曲川に押し出している様子が良く分かる。死者の数は150人という大災害になった。
 この石はここより800m上流にあった。この大石がごろんごろんとここまで押し出してきたわけです。八間石といいますが、長さ八間どころでは無い。横に は二十数メートルあります。深さも水田の下まで相当あります。町では寛保2年の大洪水を物語る資料として町の史跡に指定し、防災意識の高揚に役立てること にした。
 太平洋戦争の最中、どこでも良いから開墾して食糧増産するようにと号令がかかったが、ここだけは手が付けられなかった。なぜならば石ころばかりで耕地に ならなかった。それが幸いして雑木林のまま残った。もう一つは、昭和30年ころまでは朝晩の煮炊きに薪を使いましたから、里山がどうしても必要だった。
 ところが電気釜、プロパンガスの普及で、薪は不用になり雑木林の中に、中学校のほか、福祉センターや、グランドが作られてきている。

 八間石の下に住宅団地が造成されている。ここの住人は寛保2年の大洪水は知っているのでしょうか。

かつて金井村があった場所に残る「古明神」
 
ここが金井村のうちの上金井のお宮の跡です。土地の人は古明神と呼んでいます。
 このごろんごろんとした石を見ていただければ分かりますが、このように開拓したくても出来かねるような土石流の跡が田中宿の下まで続いています。
 ここにあった金井村が、もう川のそばはこりごりだ、ということで、500m東のところに新しく村作りをしたわけです。しかし村づくりには水が必要です。 ここから水路で水を引いていった。ちょうど宿場を作る時のように道の真ん中に水路を通して、その両側に町割をしたと同じように民家を配置した。
 昭和20年代までは、寛保2年の洪水の土石流が作った林の中には、人が嫌がる火葬場や、伝染病が流行った時に患者を収容する避病院などがあった。あとはマムシの巣で、人は寄り付かなかった。

「金井石の話」について―現在の金井地区で
 
さきほど見ました旧金井村のところから、ここまでは約500m東よりです。もう川のあるところはこり ごりだ、と、ここに新たに集落をつくることにしたわけです。この道の真ん中に水路を通して、その両側に小道を置き、さらにその両側に屋敷割りをして新しい 集落を作って、こちらに移ったわけです。
 ところが車社会になって、水路が邪魔になったので、水路を道の片側に移してしまった。金井では、水を水路で引いてきて使っているので、よそ一倍大切にし ている。かつて水路に沿って各々の家に洗い場があって、水をためておいて使った。夏の水不足の時には、そこにボウフラが浮くような水でもすくって行って、 砂で漉して飲んだ。お年寄りに聞くと「ボウフラぐらいでは、病気にならねえ。おれを見ろ」と笑い話をしてくれました(笑い)。

「石尊の辻」の話―金井地区の水害供養等の前で
 こんなふうに書いてあります。「戌の満水。寛保2年(1742)の7月25日に降り出した強い雨は29日にいたりさらに激しく降った。8月1日烏帽子 岳、三方ヶ峰の谷間より山崩れによる大土石流が発生し、所沢川に押し出し、人家、馬、田畑を濁流に飲み金井村は一瞬にして、ただ巨石累々とした河原と化し た。世に『戌の満水』という史話によれば、金井村の被害は近村の中でも最も甚大で、流死者130人、家屋65軒のうち62軒、馬19頭のうち14頭を失 い、田畑も大部分を流失するという破壊的被害を受けたと言われている。流末はさらに南下して常田村、田中宿を襲い、千曲川にあふれる史上空前の大惨事と なった。金井村は同3年、居を現在の位置に移し数年を経て、ようやく一村の形状を成したという。本年250年忌にあたり、供養塔を建立し、流死万霊の供養 をするものである」と。いろいろ供養塔が立っていますが、特に50年。50年にはねんごろに供養しています。
 ここの標高は620mくらいかと思います。

帰りのバスの中で
 それでは、現地研修会の現地見学は、これで終了します。
杉元調査課長:資料の中に、寛保2年の「戌の満水」の前と後の絵地図を載せて置きました。長野市立博 物館にあるもので、この実物も見る予定でしたが、月曜休館でできませんでした。この絵地図は四分割されておりまして、一枚が畳二枚の大きさで、合せますと 畳八枚の大きさになります。あと時間の関係で小諸に行けませんでしたが、小諸の城下も非常な被害を受け、小山家の方にその絵図が残っています。そこら辺を 9月10日に、長野放送で夜7時から「月曜スペシャル」で、大水害に学ぶ―ということで、寛保の洪水の特集を放映されるので、ぜひ見ていただきたい、と思 います。
 それから、8月28日(火)に、「河川文化ディスカバーフォーラム千曲川」が長野駅前のホテルメトロポリタン長野であります。第3回世界水フォーラムが 再来年、京都で開かれる予定で、それに向けて全国地方紙連合とタイアップして進めているものです。その中で井出孫六先生が「千曲川と生きる―戌の満水・寛 保二年の大洪水」と題して基調講演を行い、千曲塾の市川塾長をコーディネーターに、作家の小宮山量平先生、信州大学名誉教授の桜井善雄先生、飯山市の小山 邦武市長、第3回水フォーラム事務局長の尾田栄章・全河川局長の5人で「川への思い、川への誘い」をテーマにリレートークをします。こちらへもぜひ、御参 加下さい。
市川塾長:来る時上田の塩尻を通過しました。塩尻について話します。塩尻とはどういう意味かというと、塩のターミナル。信州へ日本海から入ってくる塩が北塩、もしくは裏塩。東海や関東から入ってくる塩を表塩、あるいは南塩といいます。
 上田地域に入ってくる塩のルートをみると、北からは直江津から入ってきています。南から入ってくる塩は東京湾の塩です。船に乗せて利根川を倉賀野まで運 びます。そこから馬に積んで碓氷峠を越えて入ってくる。北から入ってくる直江津の塩と、東京湾から入ってくる塩の接点が塩尻です。いま塩尻という名前を変 えてしまいましたが、塩尻という地名は残すべきですね。
 北から入ってくる塩と南から入ってくる塩とでは製法が違う。北陸地方の塩田は揚げ浜式で、太平洋側の塩田は入り浜式で、塩が造られています。それから送 るときに北塩はかますへ入れて送る。南塩は俵に入れて送る。どういうことか、というと、塩の需要の一番高いのは秋です。漬物を漬けるので。北塩はその時期 が時雨で、雨が多いので塩が溶けないように、分厚いかますを使っていました。
 糸魚川から入って来る塩と、岡崎や名古屋から入って来る塩の終点が塩尻市の塩尻です。それから、下水内郡栄村に塩尻という集落がありますが、新潟から 入ってくる塩と直江津から入ってくる塩の接点です。いまは二軒ほどですが、昔は十戸以上あった。
 なお富山から入ってくる塩と尾張の方から入ってくる塩の接点は、塩尻とは言わないで、海上(かいじょう)といいます。上(じょう)というのは塩という意 味ですね。海上(かいじょう)、海の塩という意味です。このように日本列島の真ん中に、各地に塩尻があるわけですが、一番有名な塩尻は松本の南の塩尻と上 田の塩尻です。
 千曲川の流れは日本海に注ぎますが、東北信への流通のルートは、北からと南からとあります。ということで東信のみなさんと北信のみなさんでは、食べる塩がかつては違っていた。
 昔の揚げ浜式塩田や入浜式塩田の塩がうまいのは、どういうことかというと、いまみなさんが食べている塩はイオン交換樹脂膜で、海水の中から塩化ナトリウ ムだけを取り出す。塩化ナトリウムが100%なのです。ところが昔の製法では、自然のままに天火乾燥しますから、塩化ナトリウムのほかに、鉄やマンガンな どミネラルが14~16%入っている。だからおいしいのです。値段は高いが天然の塩を食べて、人生を豊に暮らしたいものです。
 長野県下にはどの町に行っても、塩屋という屋号の家がある。須坂へ行っても中野、飯山、に行っても。松本の本町には六軒もある。塩は移入する物資の中で 一番、大事なものだった。家に帰ったら、自分の町や近くの町に塩屋がないか調べてみると面白いかなと思います。
 左手に千曲川が見えてきました。戸のあたりから河川勾配が急に緩やかになって、中州とか、自然堤防が発達してくる。長野盆地では西の方は断層線がハッキ リしている。東の方は断層はあるがハッキリしていない。だから断層盆地ではなくて、断層角盆地と言っています。それに対して、松本盆地は断層盆地。両側に 断層があるから…。

妻女山の近くで
 ここに上杉謙信がいたわけです。そして海津城に武田信玄がいて、ふだんの三倍も炊煙、飯を炊く煙が上がった。そこで行動するに違いないと、妻女山を下っ て、「鞭声粛々夜河を渡る」となったわけです。いまでも、防衛大学校ではこの妻女山で図上作戦をやります。昔は陸軍大学の学生が来て、勉強していた。
 右手に皆神山が見えてきました。皆神山を中心に松代群発地震が起きた。二万回も揺れたが、新潟地震の一発よりもエネルギーは少なかった。だから群発地震は恐れることは無い。

千曲大橋上で
 この千曲川も、川上村までいくとちいさなせせらぎです。
 機械化が進んでいなかったころ、川中島平の水田を耕す馬は、すべて犀川丘陵、俗に西山と言われる信州新町や小川村、鬼無里村の馬だった。山村からの借り 馬だった。西山の馬はまず大町など安曇平に貸し出す。ここでの仕事が終わると富山平野へ行く。富山で仕事が終わると川中島平へ来る。その間一か月以上馬は 使われ過ぎて痩せてしまう。
 米麦二毛作地帯の中で、全国で一番田植えの遅いのが、群馬県の碓氷の谷と川中島平と上田の塩田平です。
市川塾長:本日は258年前の史上最大の「寛保の洪水」の跡を訪ねてまわりました。長沼では、大洪水 になったと聞きました。このように寛保の洪水が、長沼、上田、東部町に大きな被害を与えた。みなさんは目で大自然の脅威を認識されたと思います。しかし寛 保の洪水と同じ様な雨が降ったらどうなるのか。近代社会になってからは、いろいろな手当がなされています。ですから寛保のような大雨が降っても、あのよう な被害にはならないと思います。

 いずれにしましても、信州人は千曲川に愛着を持っています。この間もNHKのBSで、「信州ベストテン」というのをやっていましたが、その一番が千曲川でした。
 山口洋子さんが「千曲川」を作詞してヒットしましたが、河畔を歩いていないのです。「中野小唄」や「須坂小唄」を作詞した野口雨情は、作曲家の中山晋平 さんとよく歩いてます。もし、山口さんが千曲川沿線を川上村からあるいたら、あの作詞はまた違ったものになったと思います。
 今日は千曲川の下流から中流を見て廻ったわけですが、次は最上流の川上村を訪ねて、杏梅をつくっている梓山、秋山、川端下を訪ねてみたいと思います。そ んなことを楽しみにして、来年もフィールドワークに御参加いただければと思います。今日は暑い中、ご苦労様でした(拍手)。

杉原所長:どうもみなさん、今日は暑い中本当にご苦労様でした。第3回の千曲塾ということで、これま で2回、会場で話をお聞きしたところを、実際、目で見てまさに寛保の洪水の激しさ、凄さを実感した次第です。私も今回初めて、現地を歩いて感動を新たにし ました。千曲川はふだん、やさしい川だけれど、いったん荒れると苦しい場所もある。われわれも、みなさんの安全な生活が守れるようにやっているわけです が、いつ大きな水害が出てくるとも分かりませんので、今後ともしっかりやって行きたいと思っているところです。千曲塾は引き続き、先日お話したように続け ますので、ぜひ御参加ください。みなさんといっしょに、この塾をますます盛り立てていきたいと思いますので、よろしくお願い致します。今日は、暑い中、本 当にご苦労様でした。

[出典]
http://www.hrr.mlit.go.jp/chikuma/news/juku/data/juku3g/

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