2014年11月10日月曜日


石井氏の出自について 石井氏は桓武平姓三浦氏族であり、名前の由来は相模国三浦郡石井庄(神奈川県横須賀市平作町小字石井)に興ります。 {桓武天皇ー葛原親王ー高見王ー高望王(平姓)-良文(良茂?)ー忠道ー為道ー為継ー義継ー義明ー義澄ー朝村ー員村ー盛明ー義継と続く。 義継は石井庄に居城し”石井氏”を称します。 その子・重義は大隅に下向して大隅郡垂水郷中俣を領する。 (中央での騒乱{北条時頼の策謀:1247年}で、叛乱のかどで三浦一族はほとんど全滅し、所領が没収されたので重義などは大隅に下向したと考えられま す) 垂水より以降 {1義継ー2重義ー3重信ー4久義ー5孝義ー6元義ー7重義ー8義春ー9義定ー10義辰ー11義高-12義泰-13義知ー14義陳ー15元甲ー16元 明・・・・才媛ー元亨ー元信} 6代元義から数代は島津宗家奥州家9代忠国ー10代立久ー11代忠昌ー12代忠治の国老(老中職) 10代義辰は垂水海潟井之上に松岳寺を開基する。 11代義高は元亀3年(1572)12月、国分郷小浜合戦で戦死。 (石井氏の消息は天文5年(1536)に伊地知氏と戦い敗軍し、垂水は伊地知領となります。 永禄4年(1561)から伊地知・肝付・根占氏は島津氏との戦いを始め、天正2年(1574)に伊地知氏は島津宗家に降伏し、伊地知領(垂水を含む)は島 津氏に移ります。 12代義泰から鹿児島に移住(再び島津氏家臣) 子孫は元亨氏が垂水で医師を開業、その子元信氏は教育家。 {「さつま」の姓氏:川崎大十著、日本地名大辞典参照} 以上のように宗家9代からの国老職の家柄であり、第8代島津久豊の時、南薩摩を支配していた”総州家”を降して、その後は地頭職として奥州家の家臣が派遣 されたので、その一人が石井氏傍系(二男家か三男家)であったと考えます。 また山伏装束については、島津氏側近は”加持祈祷”の修行を行い、戦運や日時などを祈祷し”神クジ”などで、その決定をしています。 このために”五大院”と云われる{修業道場}が現代の薩摩川内市五代や姶良郡日当山にあり、島津氏重臣はその地に通って修行していますが、石井氏は日当山 での修行者(山伏)であったと考えます。 10代義辰の寺もそのような修行道場であったのか? 当時の医学・鉱山採掘などの学識経験者は”山伏”であり、庶民の高い尊敬を集める地位であったので、石井氏が坊泊に赴任した時は”山伏”の格好であった方 が相応しいと思います。 また、垂水市の教育委員会にある”郷土史研究会”がまとめられた{垂水市史史料集3}に、石井氏関係の項目があるようですので教育委員会に詳細は問い合わ せて確認される事を薦めます。

[出典]
http://qarea.jp/qalist.php?keyword=%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%B0%8F&sort=-anscount&page=15

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