2014年12月18日木曜日

赤沼山


赤川(亀田川)の上流に、人もおそるる魔の沼有りと聞き、これこそ良き修行ぞ。

我も宗祖日蓮大聖人に繋がる尼僧となり、法を布教せんと、既に内地に二山を開く。

第三にこそ、この魔の沼を開山し、一切衆生に妙法の良薬を授けんと赤川村に来り、

当時石屋の前に住む農夫、斉藤老人を頼み、だんづけ馬を支度させ、天気の良きを幸いに、

熊笹を押し分け、山に入らんとするや、次第に曇りて雨となり、雨具の用意なき濡れ鼠、

雨は強く風も吹き馬は歩まず、妙要法尼も手綱を引いて先に立ち、南無妙法蓮華経と

懸命のお題目に力を込めて進まんとす。
斉藤老人も後より、馬の「ひり」を押して一足一足と山中に入る。いまの見晴台まで

六時間掛かり辿り着く折、一瞬大雨となり、馬は鬣を振り立ていな啼き、遂に一歩として

前に出ず、如何様にもなし難し。この時法尼は、大音声を出だして南無妙法蓮華経と

お題目を三遍、妙法蓮華経如来寿量品第十六自我得佛来云々と、久遠げを読誦す。



やがて我此土安穏天人常充満(我が此の土は安穏にして天人常に充満せり)の文に至るや、

不思議や嵐は止み、雨は晴れ、彼方の大木に、人類の如き姿が、

空中に舞うが如きをありありと見る。

亦も心にむち打ちて午後五時、奥の院の沼に着く。


老人を帰した妙要法尼は、山中に只一人題目修行を行い、人の恐るる沼に入り


「南無法華経守護の諸大菩薩諸天善神等、妙法力を以って、

此の沼に主おらば得道させ給へ、如来秘密神通之力」

と命を投げ出し修行をなし、一度市内にかえる。


時に大阪より信者八名来りて無理に連れかえさる。

而し大阪に心落ち着かず、亦函館に来り赤沼山に入り、

沼の端に草小屋を用意し、二十一日間荒行す。

無事荒行をなし終わり、帰函するに、亦もや大阪より信者来りて、致し方なく連れ帰さる。

大阪の道場に於いて信者一同集り、北海道の山中に赤沼山も何もなし、

利生有難き神仏住まる訳はなし、心を落ち着けて当道場を発展させる様

せめられたるこの時、姿あたかも大蛇の如き赤沼代天女神現われけり。


「我は北海道の赤沼なり、妙要法尼を見込んだ故に幾度となく呼び寄せしものなり。

若し疑い有らば赤沼山に来て見よ、その時こそ不思議を現わさん。努々疑うこと勿れ」


と告げ給う。


余りに不思議と世話人六名が亦法尼と共に函館に来り、赤沼山に入り奥の院沼の端において

異句同音にお題目を唱ゆれば、不思議や大老松の如き大木が沼の中より水泡と共に

浮き上り消え、又五色の蓮華が一輪浮びし事、口に言い難く心に計り難し。

この沼に主住むこと疑いなし、我が命に代えても法華経にて得道させんと決心す。



この間二ヵ年、大阪より函館に通うこと実に八回、大正十二年遂に滞道を決し、

五稜郭に道場を開き、赤沼大天女の得道に尽くし来る。


茲に昭和六年十二月十五日より、一百日間の大荒行をなす。

此の歳は三十年間無き大雪の中に、大滝に入ること一日八回、

水の行、火の行、断食の行、亦火物断ち、無言の行等々、

この難行、この荒行無事満願す。



丁度満願成就の朝、沼の中より、今当山に安置せる姿を以って現れ給う。


「如何に大道妙要法尼、我はこの沼に棲む赤沼なり。

昔より今日まで正直に荒行をなすもの一人も来たらず、

我が得道のため大阪より当初に呼びたるものなり」

更に言葉を続けて曰く


「今を去る、六百数十年前、日持大上人旧六月一日渡道す、

我また得道の為に新六月一日を以って呼び寄せしものなり。

当山開基の為、今日まで難行苦行嬉しく思うぞよ、

今日より、身延山七面大天女の弟子として、赤沼大天女と勧請すべし。」



又我に一人の眷属あり、妙沼天王と名づけるべし。

此の山のふもとに寺を建て、〔※赤沼本山〕となし、一切衆生に参詣せしめよ。

我れ末法に守護するものなり」
、と。

法尼は有り難やと涙にくれて、五稜郭を引き上げ、

昭和九年当山を現在地に建立、十月入仏式を厳修。
以来、着実に歩み続けて現在に至る。

知る人ぞ知る。

一寸先は闇の世に運の悪い時、困った問題に衝った時、

医師の見離した難病など、

最後の望みの綱を赤沼大天女のご守護に託して

遂に開運、奇跡に浴せる人々の例、その数を知らず。

故に参詣の善男善女、すみやかに罪障を消滅し、

現世に不祥の災難を払い、

後生には霊山寂光土に至らんこと

決定して疑いなきものなり。


[出典]
http://akanumasan.jp/emjroots1.html

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