2014年12月16日火曜日

矢筒城(長野市牟礼)|島津権六郎の城

JR信越線は豊野から鳥居川渓谷に入り、野尻湖を経て上越方面に向かう。
 鳥居川渓谷を抜けると牟礼の盆地に出、飯綱山の東側の緩い斜面が広がる。
 牟礼村役場南側に独立した山があり、この山一体が矢筒城である。

 北国街道沿いにあり、長野市の直ぐ北にあたる。髻山城は3km南にある。
 城のある山の標高は567m、比高は60m程度、南北250m、東西350mの大きさに過ぎないずんぐりした形であり、山の北側には鳥居川の支流、滝沢川が深い浸食谷を作って東流しているた め、山の北側、西側の勾配はきつく、川が天然の水堀の役目を果たしている。
 川の北側が牟礼村の中心部であり、JR信越線と国道18号線が通る。
 城の東には北国街道が通る交通の要衝でもある。


尾根式城郭ではなく、北西端に主郭を置き、東側と南側に曲輪を段々状に展開させた梯郭式の城である。
しかし、訪れた夏はやぶがひどく曲輪の形状は良くわからなかった。
大手は東側にあったという。東側から登る道がもっとも緩やかである。
本郭までには曲輪が段々に重なっている状況が良く分かる。
本郭は直径45mほどあり、中央部に高さ1m位の土壇があるが一面草茫々であった。
ここまではそれほど特徴があるとは言えない。
城の最大の特徴は東側から南側にかけて内堀が掘られていることである。
ここは水堀であったといい、大手口の水堀跡は今もじめじめした湿地であり、城を訪れた時はマムシがとぐろを巻いていた。
湧水点があるようであり、山に降った雨がここに溜まるようになっていたようである。
城側には土塁が築かれる。
さらに現在飯綱病院の建つ場所に館跡があり、その南に外堀があったという。
ここは現在、道路になっている。その南に城下町が広がっていたという。
下の写真は、南から見た矢筒山。山麓の曲輪がわかる。右の建物は飯綱病院。館跡に建つ。


城が何時ごろ作られたのかは良く分からない。
 城への案内板に「島津権六郎の城」と書かれているが、この人物は、永正年間(1504~20)ころの城主であったようである。

 築城はそれ以前の1400年ころすでにこの地を支配していた島津氏によるものと思われる。
 この島津氏は村上氏の家臣であり、薩摩の島津氏と同族である。
 島津氏の本拠は長沼城であったが、この付近も領土であった。

 川中島の戦いで島津氏は上杉氏に従ったが、この城がどのように戦いに係わったかは分からない。
 おそらく戦いの前半は上杉氏の中継基地であったことは間違いないであろう。

 北側の割ヶ嶽城が武田軍に攻略されていることから、一時的に矢筒城も武田氏の支配下にあり、城主の島津氏も越後に逃れたものと思われる。
 北信濃が武田氏の手に落ちた後、この城がどちらの手にあったのか不明であるが、武田氏が織田氏の攻撃を受け、上杉氏に救援を求めた時は上杉氏は援軍をこの城に入れ、次いで長沼城に派遣している。
 

 なお、島津氏は上杉氏が会津に移封された時に同行し、上杉軍団の有力武将として活躍している。

[出典]
http://yaminabe36.tuzigiri.com/kawanakajima2HP/motodoriyama.htm

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