2014年12月16日火曜日




4、弘治三年前半の甲越両勢の攻防

 さて、弘治三年二月十五日、武田軍は越後軍が雪のために行動できないことを見計らって、善光寺平の 西部山地の景虎方の要衝、葛山城を攻撃、陥落させました。葛山城陥落の知らせは春日山城に届き、長沼 あるいは矢筒城(飯綱町)にいた島津勢は大蔵城に後退し、飯山もおそらく東条周辺拠点や高井郡の武田 勢に攻勢をかけられて、危機に瀕し、飯山に居た高梨政頼は三月二十三日以前、何回も景虎に援軍を要請 していました。景虎は長尾政景に、飯山応援の依頼をしています。
 政景は越後の上田庄坂戸城(南魚沼市)を本拠とする有力豪族で、既に景虎の姉仙桃院を妻としていま した。飯山とは越後の豪族では最も地理的位置が近いのが上田庄の長尾政景です。
 また、上杉家『文禄三年定納員数目録』に直嶺衆の樋口伊豫守の妻は泉弥七郎重歳の娘であると記して あります(信濃史料)。のち、景勝時代に活躍する直江兼続については、江戸前期成立の、『上杉将士書 上』(上杉史料集下巻262頁)に、越後三坂の城主樋口与三左衛門の二男が、与六(のち兼続)であり 直江實綱の名跡(みょうせき)を継ぐことが記されています(直江兼続の父が樋口惣右衛門とする通説がありますが、上杉将士書上の与三左衛門の方が、成立年代が江戸前期とされるし、与六の与の字がはいっていることから、もっとも妥当なものと考えます。与三左衛門が惣右衛門に誤伝されたとは考えられないでしょうか?=2009・9・10更新)。三坂は三国峠に因んでおり樋口氏は上田衆です。兼続の実父 はのち直峰城に移されたとされるから(『平凡社地名辞典』)、与三左衛門=伊予守、一般に言う兼豊と なるのか、筆者には分かりません(また、飯山市の観光振興の立場からはきらわれるかもしれませんが、 樋口伊予守の泉氏出身の妻が、直江兼続の母であるのか義母であるのか不明です。=2010・5・1更 新)。
 但し、上田衆と飯山の泉氏のつながりは深く、泉氏と高梨政頼が親密な関係があるとすれば、飯山口に 入っていた政頼に対し、長尾政景は景虎要請でもある飯山口応援を断る理由は無いはずです。


[出典]
http://www10.plala.or.jp/matuzawayosihiro/page003.html

※矢筒城主島津忠直は大蔵城に後退

真田信綱: 弟・昌幸がもっとも尊敬した真田家随一の剛将』

https://books.google.co.jp/books?id=6WeXpRLOi50C&pg=PA139&lpg=PA139&dq=%E7%9F%A2%E7%AD%92+%E9%BE%8D&source=bl&ots=1eoLvev6GD&sig=A6RqCQHwEV9OI76rrnE6IlUj7oI&hl=ja&sa=X&ei=AwSQVIuMGIXPmwXj6YDwBg&ved=0CBwQ6AEwADgK#v=onepage&q=%E7%9F%A2%E7%AD%92%20%E9%BE%8D&f=false

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