2015年2月3日火曜日

百済の王子豊璋


「斉明紀」によると、7月に百済が滅亡したことを倭国政権が知ったのは、この年の9月5日である。

そして、10月には、福信が、使者とともに唐の捕虜一百人を倭国に送って来て、百済救援のための出兵を乞い、倭国に滞在している百済の王子豊璋(ほうしょう)を国王に迎えたいといってきた。


豊璋(豊章)は、『三国史記』に「扶余豊」、『新唐書』に「豊」と書かれている義慈王の子で、『日本書紀』には、「余豊」(「皇極紀」)・「糺解(くげ)」(「斉明紀」・「天智紀」)とも書かれている。余・扶余は百済王の姓である。



豊璋が倭国に来たことについては、「舒明紀」3年(631)3月条に、

百済の王義慈、王子豊章を入(たてまつ)りて質とす。


とあるが、義慈王が即位したのは641年であるから、この記事の年紀は信頼できない。

※631年の出来事として『日本書紀』は記しているが、史実は641年にならないと「王子豊章」とはならない。故に、「信頼できない」とされる。



西本昌弘(「豊璋と翹岐」『ヒスとリア』107号)が指摘しているように、豊璋は、「皇極紀」にみえる百済の王子翹岐(ぎょうき)と同一人物で、643年に倭国に来たと思われる。

翹岐については、「皇極紀」元年(642)2月条に「翹岐を召して、阿曇(あずみの)山背連(やましろのむらじ)の家に安置(はべ)らしむ」とあり、4月条に、

大使翹岐、其の従者を将(い)て朝(みかど)に拝(おがみ)す。乙未(10日)に、蘇我大臣、畝傍の家にして、百済の翹岐等を喚(よ)ぶ。親(みずか)ら対(むか)いて語話(ものがたり)す。(中略)唯(ただ)し塞上(さいじょう)のみは喚ばず。


と あるが、同2年(643)4月条にも、「百済の主の児、翹岐」と弟王子が貢調使とともに筑紫に着いたと書かれている。『日本書紀』は、642年と643年 に 翹岐が倭国に来たと書いているわけであるが、一般に、642年に翹岐が来倭したという記事は一年繰り上げられたもので、翹岐の来倭は643年(皇極2)と 考えられている。


翹岐に同行していた塞上という人物は、「孝徳紀」白雉元年(650)2月条に「百済君豊璋・其の弟塞城(さい じょう)・忠勝(ちゅうしょう)」、「斉明紀」6年(660)10月条分注に「天皇、豊璋を立てて王とし、塞上を立てて輔(たすけ)」としたとあることか ら、豊璋の弟で、兄の豊璋とともに倭国に来たとみられている。



そして、塞城(塞上)は、「天智紀」3年(664)3月条に、「百済王善光(ぜんこう)王等を以て、難波に居らしむ」と書かれている善光と同一人ともみられている。

善光(禅広)については、『続日本紀』天平神護2年(766)6月28日条に、舒明時代に義慈王が「其の子豊璋王及び禅広王」を倭国に遣わしたが、禅広は百済滅亡のために帰国せず、持統時代に百済王(クダラノコニキシ)の姓を与えられたとある。

舒明時代に義慈王が王子豊璋・禅広を倭国に遣わしたというのは、『日本書紀』の記事に依拠したとみられるが、義慈王が豊璋とともに倭国に送ってきた王子は塞城(塞上)しかいないので、塞城(塞上)=善光(禅広)であろう。


西 本昌弘は、『釈日本紀』(鎌倉時代末期に成立)では、糺解は「キウケ」、翹岐は「ケウキ」と読まれており、音が酷似していること、豊璋と翹岐が倭国に来た 年がともに643年とみられること、翹岐と一緒に来倭した塞上という人物が、豊璋の弟の塞城(塞上)と同一人物と考えられることなどから、翹岐と豊璋を同 一人物とみているが、西本説はきわめて合理的であり、卓説(たくせつ・すぐれた説)といえる。

[出典]
http://ryuchan56.269g.net/article/18626246.html

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