2015年4月11日土曜日


後三年の役の諏訪為仲の去就
  前九年の役以来、諏訪為仲源義家と親交が厚く、奥州で苦戦の義家はその援軍を依頼してきます。当時為仲は為信を継いで大祝になっていました。古代から「大祝は現人神、人馬の血肉(ちにく)に触れず、況や他国をや」の厳しい“神誓”があって、諏訪の地を離れられません。しかし義家と共に戦いたいとの決意は固く、父・為信はじめ神使(こうどの)一族や氏人の反対を退け、再度奥州に出陣したのです。 この戦いで、為仲は武名を上げ、さすがに武神と知れ渡り、武神大祝一族は信濃全域に広がり、その一族は、各地で諏訪明神を、氏神として勧請したため諏訪大社の分社が各地に広まる切掛となります。それを契機として、諏訪明神は、水辺の神・狩猟の神・農耕の神から、武神の神として崇敬されるようになります。
 日本の神社ほど、時代の風潮に迎合し、その哲学に節度がない宗教も珍しいのです。
 合戦の後、義家は睦奥守の立場から中央政府に上申書(国解)を提出しますが、これに対して政府は、「武衡・家衡との戦いは義家の私合戦」で、よって追討官符は発給しない、という対応を示します。これを聞いた義家は武衡らの首を路傍に棄てて、むなしく京都に上ります。 朝廷はこれ以上、義家が勢威を振るうことを嫌ったのです。
 後3年の役後、寛治元(1087)年12月、上洛する凱旋軍・源義家の陣中に為仲も同行しています。先に上洛した義家の奏上は、これ以上の台頭を嫌う白河院・関白師実に阻まれて、本隊の軍兵は東山道美濃の国莚田(むしろだ)の荘に長期駐屯を余儀なくされます。そのつれづれに、為仲は義家の弟・新羅三郎源義光の招請による酒宴に赴きます。その時、部下双方が喧嘩し死者を出すに及んで、棟梁源氏を憚って為仲は自害します。それを聞いて義家は駆けつけると、為仲の鎮魂に諏訪神社を建て、莚田の荘を寄進したといわれます。現在の糸貫町の諏訪神社です。
  これは、為仲が、諏訪の地を出てはならないとする“神誓を破ったことに対する神罰であると受け止められたので、そのため遺児の為盛は、大祝の職に就けませんでした。『諏方大明神画詞』によると、為盛の子孫は多かったが、共に神職を継がなかったので、為仲の弟の次男為継が大祝を継ぎますが3日後に頓死し、また、その弟の三男為次が立ちます。しかし7日目に急死、ようやく四男為貞が立って当職を継ぐことになり、後胤は10余代にわたり継承されます。

  戦勝者の源氏の棟梁、義家は私合戦と断定され、陸奥守を解任され、勲功も賞もなく、任期中の政府や権門寺社への貢納を軍資金に使い、戦後は郎党の褒章に流用し、結果政府に莫大な負債を抱えるようになります。ようやく10年後、白河院の特別の配慮で受領功過定(ずりょうこうかさだめ)で「無過」の判定が得られたのです。しかしながら義家の嫡流は、弟の義光などの一族に、その地盤を侵食され、義親為親義朝の三代いずれも、最期は賊将となり生涯を全うできませんでした。頼朝の代になって、初めて天下に覇を唱えますが、一族の内訌の連続で、頼朝以外、以後天寿を全うする者もなく、3代で滅びます。
 対象的にこの大きな犠性によって安倍・清原氏の伝統を受け継ぎ、戦勝者として生き残った藤原清衡は、国司交代に伴う権力の空白をつき、清原一族の遺領をすべて独占し、「俘囚の主」であるばかりか、陸奥出羽押領使となり、初めて奥州全域に君臨するのです。清衡によって平泉政権が樹立され、奥州藤原氏の基礎が築かれたのです。

鎌倉時代の背景
 12世紀末以来、御家人階層を基盤とする鎌倉幕府は、数度の戦乱を通して獲得した所領を御家人階層に再配分し、その自己増殖欲求に応えてきました。しかし、13世紀半ば頃から中世社会の大規模な変動が始まります。
 宝治元(1247)年の宝治合戦により、執権北条氏は、鎌倉幕府の御家人として勢力を振るってきた三浦氏と千葉秀胤系の千葉氏を滅亡させます。ただし、千葉氏の本宗である千葉頼胤は北条氏方でした。三浦氏の一族である和田氏も、和田合戦で没落しましたが、一部の残存勢力が、この戦いで三浦氏に味方し、再度の没落を余儀なくされました。この合戦は三浦氏の乱とも呼ばれ、得宗専制を完成させ、鎌倉幕府の政治体制を安定させます。
 以後、所領増殖の機会となる戦乱の発生自体がなくなると、かつて惣領・庶子への分割相続により、御家人一族はその勢力を拡大してきましたが、分割すべき所領を得る機会を失い、惣領のみに所領を継承させる単独相続へと移行します。 単独相続を契機として、惣領は諸方に点在する所領の集約化と在地での所領経営に励みます。この過程で、庶子を中心とする武士階層の没落がはじまり、本所(荘園本家)と在地武士との所領紛争が先鋭化します。
  平安後期以降、荘園の所有関係は複雑で、最高の所有者は本所または本家といい、皇室・摂関家・大社・大寺でした。その管理は、その下の一般公卿や寺社の領家(りょうけ)に任されますが、実際の管理は地元の有力豪族・領主に委ねられます。彼らは領家を兼ねることもありますが、実際的支配者ですから、やがて領主として自立していきます。
 荘園内部では、本所周辺の武士による侵略を防ぐために、本所は荘園支配の強化に乗り出しますが、在地では荘園支配の実務にあたる荘官領主が、自立した経営権を確立しようとします。ここに本所・荘官間の対立が生じ、当時、急速に進展していた貨幣経済・流通経済の社会への浸透が両者の対立を、一層、激化させます。
 一方、鎌倉時代後期、特に元寇以来、北条得宗家の権勢が伸張します。さらに北条一門の知行国が著しく増加します。しかし他の御家人層は、元寇後も続けられた異国警固番役の負担、元寇の恩賞や訴訟の停滞、貨幣流通経済の普及、武士階層の貧窮よる没落者の増加など、ますます世情が荒廃化します。幕府は徳政令を発して対応しますが、諸国では悪党の活動が一層激化し、幕府は次第に支持を失っていきます。 武士階層内部もしくは荘園支配内部における諸矛盾は中世社会の流動化へとつながっていき、13世紀後半からの悪党活動は、各個自立化へ向います。さらに同時期の元寇は幕府に、決定的な打撃を与えました。

執権北条家の推移
 北条時政嫡男・宗時は、頼朝挙兵時の敗北の際、伊豆国の平井郷(静岡県田方郡函南町平井)を経て、早河の辺りまで逃れますが、そこで伊豆の豪族伊東祐親の軍勢に囲まれ、小平井久重に射られて討たれます。 源頼朝の鎌倉入りの時、時政に随行した子は、義時時房の2人だけでした。それが孫の代になる13世紀半ばには、義時からは嫡流得宗家名越流極楽寺流正村流伊具流金沢流と、時房からは佐介流大仏流と分流します。そして一族は50人を越え、そこに幕府草創期以来の東国御家人と実務官僚としての御家人一族、およそ25、6家が加わり、120余名で幕府を運営します。その家族、家臣合わせて、5百人前後が鎌倉に在住します。その執権を筆頭とする鎌倉在住の有力者を「鎌倉中(かまくらじゅう)」と称しました。
 それ以外の幕府の外郭をなす武蔵、相模、上総などの御家人も含めて、地方在住御家人を「田舎人(いなかびと)」と呼んでいました。御家人相互に、既に身分格差があったのです。彼らには鎌倉番役のみ課せられ、幕府組織内の役職には就けませんでした。
 正月三ヶ日の椀飯(おうばん;椀飯振舞)は、釜で煮た飯を椀に盛りつけたもので、饗応(きょうおう)すること、また、そのための食膳です。公家では殿上(てんじょう)の集会などに、武家では家臣が主君をもてなすさいに行われ、鎌倉時代に、それが幕府の儀式となったのです。 その椀飯の儀式に参加できるのも、「鎌倉中」の御家人に限られました。『吾妻鏡』には将軍をもてなす時、弁当を出し、それに一洒一肴だけの簡単な宴を催したということが載っています。
 鶴岡八幡宮の流鏑馬などの、幕府の年中行事にも「鎌倉中」の有力者が殆ど独占していたため、田舎人の参加の機会は皆無に近かったのです。相模、武蔵の国々の地名を歴代、名字とする関東有数の御家人の当主も、生涯無官のままであったことも少なくなかったのです。
 長崎(平)、諏訪安東(あんどう)氏のように、得宗御内の草分けは、いずれも主君の館近くに屋敷を構え、侍所の上級職員として鎌倉内の警護責任者に任じられていました。彼らも形式上は御家人の身分でしたが、実態は得宗こそ主君そのものでした。蒙古来襲の時代には、御内人家も幾つかの流れに分かれ、諏訪も大祝家のもならず、その氏族の多くも御内人として仕えています。そして諏訪、長崎(平) 、安東、工藤、尾藤の一族からは、10数人の者が衛門尉(えもんのじょう)や兵衛尉(ひょうえのじょう)の官途に就きます。 やがて彼らの中には何十箇所の得宗領を預かり、北条一門の有力者すら凌ぐ権力を有し、大多数の御家人を見下すようになります。
 文永9(1272)年4月、御家人渋谷定心(じょうしん)の子、定仏(じょうぶつ)が、諏訪盛重の子、左衛門尉入道真性(盛経)に書状を送っています。内容は「常々3人の息子が、お手元で奉公していましたが、そのうちの与一重員と七郎頼重の2人が、父の命に背き他家の方へ参りました。不幸者として勘当しました。便宜の折、この旨御披露下さい」と、かなり恐縮しています。それには定仏なりの、深い処世術が働いていました。
 彼の息子2人は、連署義政(極楽寺流;重時の子)に出仕先を換えたのです。ところが4月4日、義政は突然、出家の暇(いとま)を賜ります。執権時宗の政権の有様に耐え難いものがあったのでしょう。5月12日、義政の使者が来て、盛経に「与一の勘当許すべき由」と告げます。有力御内人の屋敷には、何十人もの御家人の子弟が出入りしていたのです。そして13世紀後半から、御家人でありながら、御内人にもなる者が一段と増え、北条泰時の時代と比べると倍増しています。
 得宗領の膨張に伴い、有力御内人の権力は強まる一方です。関東御分国のうち得宗が守護職を兼ねるのは、武蔵、駿河、伊豆、若狭は固定していて、さらに時宜に応じて3,4ヶ国が加わります。この得宗分国の一国ごとに、御内人有力者が守護代に任じられたのです。
 その後、義政は家中の者にも告げず、信濃善光寺に向います。6月2日、義政の「遁世」の事実が明らかになります。

 13世紀に鎌倉で起こった内訌は10を越え、その度に多くの有力者の家が滅び、その所領は得宗家はじめ北条一門の有力者と勝利者となった「鎌倉中」の御家人に分配されました。
 北条時宗の子・貞時執権の後半期に、奉行人から風諫状が提出されます。その内容を要約しますと「御家人たちの所領の規模は、昔は大多数が1千丁前後あった。ところが現在1千丁以上の家領をもつ御家人は10余名にすぎない。その9割方は4、50丁の規模である。」
 およそ1世紀のわたって繰り返される分割相続によって、「鎌倉中」の有力者の所領でも4、50丁の規模が殆どとなりました。また和田合戦、宝治合戦、霜月騒動などの内訌に連座し、家領の多くが没収されもしたです。霜月騒動後もまた、得宗家への所領移管が集中したのです。それで貞時への風諫状提出となったのです。
 金沢北条氏の当主が、六浦湾に橋を架ける際「惣田数、6,539丁4反」と記しています。北条有力者の勝ち組、7、8家も、それ相当に身上を膨らませていたのでしょう。その結果、北条一族が他の御家人階層から孤立し、破滅していく道筋に繋がったのです。
  貞時は永仁5(1297)年、永仁の徳政令を発布して金銭・所領の無償取り戻しを可能にして御家人困窮の救済をはかりますが効果がなく、翌年には撤回しています。正安3(1301)年、にわかに執権を辞任して従兄弟北条師時に譲って出家します。しかし寄合により実権は握ったままでした。
 この時期執権の代でいえば、10代北条師時(時宗の弟・宗政の子1275~1311.享年37歳)。11代宗宣(大仏宣時の子.1259~1312.54歳)、この時代既に、宗宣は内管領長崎高綱に政治の実権を握られていました。12代煕時(ひろとき;政村曾孫.1279~1315.37歳)と継承されます。13代基時(極楽寺流のうちの普恩寺流.1286~1333.48歳)は、新田義貞らが鎌倉を制圧すると、潔く自害しています。出家していた北条貞時(1271~1311.41歳)の卒去は応長元(1311)年10月のことです。得宗北条貞時の専制時代の末期から、執権のめまぐるしい交替に象徴される政権中枢の混乱時代を経て、14代得宗北条高時(1303~33.31歳)が就任します。

 奥州では蝦夷の反乱安藤氏の乱などが起きます。北海道と津軽で蝦夷(エゾ)の蜂起があり、蝦夷管領の代官・安藤五郎が鎮圧に向かうも、蝦夷に首を取られる事変が生じます。原因については、得宗家の権力の拡大で、蝦夷に対する年貢の要求が増大したことや、北方からの蒙古の圧力により蝦夷の民が疲弊した事によります。 文永元(1264)年以来、40年間に及ぶモンゴル帝国・元によるサハリン方面への征討が続き、北辺に重大な事態を惹き起こしたといえます。   鎌倉初期、北条義時は津軽地方の地頭職となり、同時に「蝦夷管領」職に就いています。その中期には北条時頼が、津軽と合わせて南部地方の地頭となり、末期には岩手県北部と青森県全域を含む陸奥国北部一帯の地頭を、北条一族が独占します。その間、北条氏の御内人が地頭代として現地に派遣されます。安藤氏も代々、蝦夷管領代官として権勢を奮っていたのです。
  文保2(1318)年以前から続いていたとみられる蝦夷管領代官・安藤又太郎季長と従兄弟の五郎三郎季久との間で、後継問題や所領の分配等で内紛が起きていました。その上に、元応2年(1320)には、津軽の蝦夷の再蜂起が加わります。そうした時代に、北条 高時が、執権(在職 1316年 - 1326年)に就きます。『保暦間記(ほうりゃくかんき)』によれば、得宗被官である御内人の筆頭・内管領の長崎高資(たかすけ)が、対立する2家の安藤氏双方から賄賂を受け、双方に齟齬をきたす下知をしたため紛糾したものであり、蝦夷の蜂起はそれに付随するものと書かれています。 安藤氏一族の嫡流争いは、津軽半島の東西に双方が堅固な城を構え、それぞれ部下の蝦夷(エゾ)数千人を動員します。岩木川を挟んで争闘を繰り返しても決着せず、やむなく正中2(1325)年と嘉暦2(1327)年に、幕府は工藤祐貞、宇都宮五郎高貞、小田尾張権守高知等に大軍を率いさせますが、鎮圧できませんでした。翌年秋、ようや和睦が成立、蝦夷管領代官職は旧来からの五郎派の季久が引継ぎ、季長の所領は没収されます。この紛争の長期化が、幕府の権威を失墜させ、その滅亡を早める要因となりました。
 正中元(1324)年、後醍醐天皇は父である後宇多法皇に代り親政を開始し、同年、京都で幕府転覆を計画し、正中の変を起こします。この倒幕計画は六波羅探題によって未然に防がれ、後醍醐天皇の側近日野資朝を佐渡島に配流し、土岐頼兼、多治見国長、足助重範など密議に参加した武将は討伐されます。
 高時は嘉暦元(1326)年に、病のため24歳で執権職を辞して出家すると、後継を巡り、高時の実子邦時を推す長崎高資と、弟の泰家を推す有力御家人・安達時顕が対立する嘉暦の騒動が起こります。3月、高資は邦時が長じるまでの中継ぎとして北条一族の金沢貞顕を執権としますが、泰家らの反対により貞顕はまもなく辞任して剃髪、4月に赤橋守時が就任することで収拾します。
 執権職を退くと高時は、田楽と闘犬に熱中します。北条得宗歴代の質実ぶりからは想像できない有様です。『太平記』には「(犬を)輿にのせて路次を過る日は、道を急ぐ行人も、馬より下て是に跪(ひざまず)き、農を勧(つとむ)る里民も、夫(ふ)にとられて是を舁(か)く」と、鎌倉街中を、錦を着た犬達が徘徊します。諸国から多くの犬を集め、月に12、3回は闘犬を行ったといいます。高時のみならず、鎌倉の有力者も「田舎人」の困窮を省みず闘犬に耽ったようです。禅僧の中巌円月(ちゅうがんえんげつ)の詩文集『東海一?集(とうかいいちおうしゅう)』には、現在の浙江省に人を遣り、犬を求め鎌倉の有力者に献上した者までいたと記します。
 田楽にも日夜朝暮の別なく耽溺したといわれています。田楽は宇治平等院に属する本座と、興福寺の新座がありましたが、高時は両座共に鎌倉に呼び出します。当時の鎌倉の様子を金沢貞顕は、その子息宛の書状で「田楽の外、他事無く候」と書き送っています。
 元弘元(1331)年には、高時が長崎円喜らを誅殺しようとしたとして高時側近らが処罰される事件が起きます。同年8月に後醍醐天皇が再び倒幕を企てて山城国笠置山へ籠もり、河内国の下赤坂城では楠木正成が決起し、後醍醐の皇子・護良親王が、大和国の吉野で挙兵します。元弘の変の勃発です。 幕府は北条一族の大仏貞直と金沢貞冬、御家人の筆頭である下野国の足利高氏(後の尊氏)、上野国の御家人新田義貞らの討伐軍を派遣して鎮圧させ、翌1332年3月には、後醍醐天皇を隠岐島へ配流し、側近の日野俊基を鎌倉の葛原岡で処刑します。皇位には新たに持明院統の光厳天皇を立てます。  
 元弘3年/正慶2年(1333)に後醍醐天皇が隠岐を脱出して伯耆国の船上山で挙兵すると、幕府は西国の倒幕勢力を鎮圧するため、北条一族の名越高家足利高氏を京都へ派兵します。高家は戦場で倒幕軍を圧倒しますが、野伏戦を得意とする赤松則村の一族・佐用範家が匍匐前進し近づき、矢継早にはなつ強弓の矢に、眉間を射られ落馬し絶命します。勝利を目前にしながら、大将を失ってしまった名越軍7,000余は、大混乱の中に壊走します。高氏は既に寝返っていました。後醍醐天皇方として、六波羅探題を攻略します。
 関東では上野国の御家人・新田義貞が挙兵し、5月15日、武蔵野国の多摩川中流、分倍河原(ぶばいがわら;武蔵国府所在地)で、得宗高時の弟率いる幕府軍を撃破して鎌倉へ進撃します。18日早朝、鎌倉の西の境界領域を過ぎ、七里ヶ浜に陣を布きます。22日未明、稲村ヶ崎を渉り大挙侵入すると、それを牽制してきた由比ヶ浜沖合いの何百艘もの船が一斉に姿を消します。遂に前浜の布陣も突破され、鎌倉市街に火が放たれます。
 新田軍が目前に迫ると、高時は鎌倉八幡宮の東隣、小町(塔ノ辻)の館から、その後背地の山腹にある、3代執権・泰時が創建した北条家菩提寺・葛西ケ谷東勝寺へ退き、北条一族や家臣らと共に自刃、享年31。自刃した北条一族は283人で、鎌倉に在住し、奮戦するも戦死しなかった諏訪一族の殆どが、東勝寺で殉死しています。鎌倉在住の得宗御内人唯一人も、投降することなく、高時の周囲に集まり殉じます。その数、およそ7,8百名に及びます。源頼朝の開幕以来140余年で、鎌倉幕府は滅亡します。将軍家でない、本来補佐役の執権が、政権を担い、実に質素に政権を維持し続け、その最期にあっても、親類筋の足利高氏以外、一族と家臣集団が奮戦し続け、最期に潔い自決の姿は、日本史どころか世界史においても実に希で、その後の武家政治の鑑となっています。
 東勝寺は、この時焼失しますが直ちに再興され、室町時代には関東十刹の第3位に列します。しかし戦国時代に廃絶します。塔ノ辻の館跡が、現在、萩で有名な宝戒寺です。



[出典]
http://rarememory.justhpbs.jp/kama/na.htm

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