2015年5月18日月曜日




  中国古代の秦王朝が卵生説話をもち、鳥トーテムをもつ部族であったらしいことは、中国神話の研究家白川静氏*33が指摘するところである。秦の卵生説話は『史記』の秦本紀に見え、その祖女脩が機織りをしていたとき、玄鳥(黒い鳥。一説に燕とされるが、それに限らないと思われる)が落とした卵を呑み、子の大業を生んだという。大業の子の大廉は鳥俗氏の祖であり、その玄孫の中衍は身体が鳥で人語をよくしたと記される。
  また、『山海経』の海内経には、贏民という鳥の足をした民族もいたと記すことにも注目される。鳥祖卵生説話をもつ秦の姓が氏で、が贏に通じることは、本稿のはじめに記したところである。
  わが国の秦氏についても、鳥にまつわる伝承が『山城国風土記』逸文に見える。同逸文によると、二つの伝承があげられる。
  まず、『神名帳頭註』による「伊奈利社」についてであり、イナリというのは、秦中家忌寸等の遠祖・伊侶具の秦公は稲・粟などの穀物を積んで富裕であったが、餅を用いて的とし弓を射たところ、餅は白い鳥となって飛び翔け、山の峰にとまり、化して稲が生いたので、遂に社名とした。その子孫の代になって、先祖の過ちを悔いて、社の木を引き抜いて家に植えて、これを祈り祭った。いまその木を植えて蘇きづけば福が授かり、枯れれば福がない、という。
  次に、『河海抄』にあげる「鳥部里」についてで、鳥部というのは、秦公伊呂具が的とした餅が鳥となって飛び去った、その森を鳥部というと記される。
  ともに、秦公伊呂具に関する伝承で、当時の秦氏の富裕さがうかがわれる。この伊呂具は山城国深草里の人で、和銅ころに活躍したとされる。伊呂具は、欽明朝に大蔵省を拝命した大津父の玄孫で、その後裔は伏見の稲荷大社の祠官家(大西・松本・森・鳥居南などの諸家がある)として近世に至ったものである。
 餅の的を射たところ白い鳥と化して飛び去ったという伝承は、豊後国にもある(『豊後国風土記』速見郡の田野条。「塵袋」所収の逸文によると、大分郡の人が玖珠郡に来住して、そこでの話とする)。こちらのほうは、具体的な人名を記さないが、豊前・豊後には秦氏系統ではないかとみられる人々が多いので、これらにつながる伝承なのかもしれない。この話は単純に奢りをいましめるものであるが、稲の精霊が霊性があるといわれる白鳥に化したということで、鳥トーテムをもつ部族に伝えられたものではなかろうか。
  鳥部里は、『和名抄』では愛宕郡鳥戸郷とあげられ、現在の京都市東山区の地域内となっている。その遺称地としては、清水寺の西南の鳥辺山・鳥辺野がある。この地名の由来としては、吉田東伍博士のように、捕鳥または鳥飼の部民の居住地とされるが、鳥戸郷は深草郷の二、三キロほど北にすぎず、秦氏の一族も居住していたとみられる。確実なところでは、鳥部郷の粟田朝臣弓張の戸口の秦三田次が史料に見える(天平十五年正月七日付「優婆塞貢進解」)。

  大陸を遠く離れて、しかも秦始皇の時代から千年ほども隔ててなお、わが国の秦氏が鳥トーテムの名残を伝えているとみたら、始皇帝の後裔という出自を全くの仮冒として否定することは、できないのではなかろうか。
  秦王朝は中国の西疆たる陜西省の地に興起したが、鳥トーテムをもつ東夷の一派が西遷したものとみられている。秦と同じ姓や同族の偃姓の諸国が春秋時代に山東からその南方にかけて展開したという事情も、その辺の傍証となろう。東夷はツングースとも同系統の種族とみられるから、これらの同種族が朝鮮半島を南下して日本列島に渡来したことは十分に考えうる。
  古代の朝鮮関係で秦姓の人が活躍した例もある。『魏略』には、戦国七雄の一の燕が東北方への侵略を行い、秦開という将軍を派遣して箕子の後の朝鮮侯を討伐し二千里の地を奪ったと記される。その時期は燕の全盛時代の昭王(前311~前279在位)のときとみられる。秦開という人物は『史記』匈奴伝にも見え、燕の賢相・秦開はかって人質として東胡にあり、厚い信を得たが、帰国してから東胡を破り千余里を得、その地に燕は五郡を置き長城を築いて胡人を防いだとある。
  この五郡のうち、最も奥地の遼東郡は郡治が襄平(いまの遼陽)とされるから、『魏略』と『史記』匈奴伝は同じことを記したものであろう。秦開の系譜は不明であるが、遠くは秦王室と同族であったことも考えられ、秦開の族裔がこの討伐以降、朝鮮半島に遷住したのではなかろうか。あるいは、秦韓王家はこの秦開同族の流れだったのかもしれない。
  『史記』等の秦関係記事にあたってみても、始皇帝の一族が朝鮮半島に来住したことは見られない。当時かなり多かったとみられる秦王族のなかで、史料に名をあげられる者は少なく、始皇帝の兄弟では長安王成が秦王政の八年に叛乱を起こし敗れて自殺したくらいである。始皇帝の子女は多かった模様であるが、長子扶蘇と末子の胡亥(二世皇帝)が名をあげられるのみであり(三代目の秦王子嬰も、年齢的に考えておそらく始皇帝の子であろう)、二世皇帝と趙高の謀りごとで、まず六人の公子が杜の地で、次に公子将閭を含む兄弟三人(これも始皇帝の子か)が処刑されたと記される。二世皇帝は趙高に殺され、秦王の子嬰及び公子・一族は項羽に殺されたと記されるなど、秦王朝の崩壊期に多くの公子・公族が殺害されたとみられる。こうしたなかで韓地に逃れた秦王一族がいたことはありえたのだろうか。この辺の事情は、残念ながら不明であるが、可能性は極めて少ないものとみられる。
  従って、敢えて結論をあげれば、次のようなものか。
  わが国の秦氏は秦始皇の後という所伝・系譜をもつが、その歴代系譜には世代数が少ないなど問題点もいくつかあり、実際に秦始皇の近親一族の後とするのは疑問か。おそらく、遥か遠い祖先が秦始皇と同じ氏族(部族)であっても、華北沿岸部にあったものの流れか。秦韓王家が秦王室と同族であったとしても、遥かに早い時期に分岐した支族ではなかったろうか、と考えられる。

 2(最後に)
  わが国の秦氏族が河内及び摂津(特に豊島郡*34)・和泉にも多く、なかでも初期段階に分岐した氏が多いことは、『百家系図』巻50に所載の「朝原忌寸系図」等から知られる。
  これまで述べてきた秦氏族の分岐状況についての概略系譜を示して本稿を終えることとしたいが、秦氏一族を考えるとき、山城国のみならず、凡河内国の地域の重要性を改めて認識させられたと感じている次第である。

 〔註〕*の数字は「秦羸姓という姓氏」の始めからの番号である。
*33 白川静『中国の神話』(昭和50年刊、後に中公文庫に所収)。
*34 摂津国には秦忌寸・秦人の二氏が『姓氏録』にあげられ、秦一族が豊島郡・西成郡に居住した。豊島郡に秦忌寸・秦井手・秦井手忌寸、西成郡に秦・秦人・秦忌寸が居住したことは、『続日本紀』や『正倉院文書』(天平神護元年の造東大寺司移式部省)に見える。とくに豊島郡には秦上郷・秦下郷があげられ、秦一族の繁衍が知られる。
  なお、摂津国有馬郡には幡多郷(現神戸市北区八多町一帯)があり、秦民の居住が伝えられるが、詳細は不明である。



 〔秦氏族の分岐状況概観〕
 
     


 〔註の補充〕

 『家系研究』第32・33号では、註の記載がなかったので、ここに併せて記しておく。
*1 『史記』秦本紀では、帝の孫を女脩(じょしゅう)といい、燕が落とした卵を呑んで感精し、子の大業を生み、これが秦の祖となったと記される。しかし、女脩は女性であり、秦の男系の祖は五帝の一にもあげられる帝少昊かその一族ではなかろうか。秦の鳥トーテムは東夷によく見られる風習である。
*2 殷の紂王に仕えた蜚廉の子の季勝の曾孫の造父が、周の繆王に仕えた有名な御者で、趙城に封ぜられて趙氏となり、その後裔が晋の文公に仕えた趙衰で、戦国時代の趙の遠祖となった。秦は季勝の兄の悪来革(おらいかく)の子孫だが、造父が繆王に寵愛されたおかげで、悪来革の子孫もみな趙氏と称していた、と『史記』にいう。
*3 春秋・戦国の諸侯が会盟して署名した名前としては、「国名+名前」という形になっている例が多い。すなわち、「国名=氏の名」とされている。
*4 段玉裁の『説文解字注』によると、春秋時代の諸侯のうち、秦・徐・江・黄・はみな姓であったとのことである。白川静氏によると、「秦と同じ姓の諸侯は、河南の商邱に近い葛、安徽北方の徐、河南南部の黄・江、湖北襄陽の穀、陜西韓城の梁など各地に分散」し、これに趙などをあわせて九国あり、秦はもと江淮の域にあった古族で、鳥トーテムや女系の多いことが注意される、と記される(『中国の神話』258頁)。

*5 太田亮博士の『姓氏家系大辞典』には、秦氏について各項で詳しい説明があり、『古代人名辞典』とならんで、秦氏の人々を見ていくうえで基本的な文献である。
*6 秦氏の族的な性格に新羅的要素が強いという判断があり、ハタやウヅマサの名義から、慶尚北道の北部、蔚珍郡海曲県の古名「波旦」の地の起源とし、この地が辰韓12国の一つ優由国とみられ、辰韓(秦韓)の名に因んで、氏族名を「秦」で表したとみることができるという立場がかなり多い(鮎貝房之進、山尾幸久氏などの説)。
  これに、『魏志』韓伝以降の中国史書に見える辰韓人を秦の亡人とする説を根拠とし、倭漢氏の所伝への対抗関係から、出自を秦の始皇帝まで架上したものと考えられている。
  ハタの名の起源についての前掲の地名説は、いかにもコジツケ的であり、大和岩雄氏は、伽耶の「秦の民」を遠く離れた地域のウヅマサ氏が何故統括したのかという説明が必要と批判する。辰韓人を秦の亡人とする韓伝の所伝もありえよう。しかし、秦氏が倭漢氏に対抗して出自を架上したという説はいかにも憶測的で、何ら具体的な根拠がない。倭漢氏が秦氏に先立って漢を称したということの証明もなしえない。
*7 『姓氏録』で明確に秦氏の一族とする26氏のほか、早くに分岐した等の事情で「未定雑姓」の部におかれている諸氏がある。そうした例として、国背宍人(山城未定雑姓)、物集連(左京未定雑姓)、物集(山城未定雑姓)、弖良公(右京未定雑姓)、広幡公(山城未定雑姓)があげられるので、この5氏を合わせて、合計31氏(あるいは後2者を除いた29氏)が秦氏一族ではないか、と私はみている。
*8 利光・松田両氏は、「古代における中級官人層の一系図について-東京大学史料編纂所蔵『惟宗系図』の研究-」(慶応大学『法学研究』56-1・2、昭和58年1月・2月)という論考を出し、同系図の信憑性を論証した。両氏の論考には貴重な指摘が多い。
*9 秦氏がわが国に渡来した時点で既に正確な系図を失っていた可能性も考えられる。従って、「十」とか「二十」とかという数字の欠落を考えても意味がないともいえようが、本文で掲げた一案のほか、河内諸蕃の秦姓条に見える「始皇帝十三世孫然能解公」の十三を二十三と考える案もあろう。

*10 始皇帝の長子扶蘇は、前212年に上郡(陜西省綏徳県東)に派遣され、始皇帝の死後、その地で丞相李斯・宦官趙高らの策謀による偽詔で自殺させられた。本居宣長は、扶蘇が死を賜ったのにもかかわらず、潜かに逃れ狛に居した可能性を考え、鈴木真年翁もこの説を踏襲した記述を『華族諸家伝』でしている。しかし、こうした想定は想像論であり、それよりもその子とされる胡苑の移住を考えたほうが自然であろう。
*11 『魏志』東夷伝の韓伝にあげるこの記事と同様な記事は、真年翁が編述した『朝鮮歴代系図』や「長岡忌寸系図」に見られるが、これら系図に本来記されていたものか、あるいは韓伝からの転載かは不明である。
  なお、秦の亡民に東界の地を割き与えたという馬韓王は、朝鮮王準の後裔で、馬韓が百済の温祚王により滅ぼされてのち答山の麓に居住して韓氏・答氏を号したという。この流れで百済滅亡時にわが国到来した一族は、広海連・麻田連の祖となった。
*12 『三国史記』新羅本紀に記載の王暦は、五世紀前半の訥王以前は、二倍年暦ないし四倍年暦という倍数年暦が採用されていた可能性が大きく、年代や世代の対応等から考えると、新羅の初代国王とされる赫居世の在位は180、90年代頃ではないかと推定される。
*13 『書紀』応神14年是歳条に弓月君が百済から渡来と記され、また、『姓氏録』の未定雑姓右京の弖良公に「百済国主意里都解四世孫秦羅君之後也」、未定雑姓山城の広幡公条に「百済国津王之後也」とある記載とも、秦氏の百済遷住は符合する。
*14 竺達王が三世紀後葉の人として、その四世孫とされる弓月君が五世紀初頭頃の人であるのは、両者の間の世代・年代の対応がきわめて適切だと考えられる。
*15 応神天皇の『書紀』の記事等から、その即位の年とされる太歳庚寅を西暦390年庚寅頃とするのが妥当ではなかろうか。従って、この場合、応神14年は403年ということになるが、実質的にはその数年前の即位も考えられる。
  ここまで具体的に年代比定を考えないにしても、秦氏の到来は五世紀初頭頃として特に問題なかろう。大和岩雄氏も、五世紀前半に大和の葛城に渡来したとみている(『秦氏の研究』)。
*16 功満君が仲哀朝八年に来朝したことは、『姓氏録』左京諸蕃の太秦公宿祢条の記事にも見える。
*17 大和岩雄氏は、葛城の長江(長柄)の襲津彦が連れてきた弓月の民が「朝津間腋上」に居を定めるのは当然であると考えている(「秦氏・葛城氏・蘇我氏」、『東アジアの古代文化』36号、1983夏所収)。
 なお、腋上の地については、後に秦氏がヤマト政権に関与したころの付会とする見解もあるが、それがなぜ腋上の地だったのかという説明力が全くない。こうした安易な付会論は問題が大きい。
*18 佐伯有清『新撰姓氏録の研究』考證篇第四の362頁。
*19 韓国で秦氏が最も多いのは済州島で442世帯あるが、慶尚南道の各地から移住してきたといわれる。済州島を除くと、慶尚南道に最も多く、全羅南道・慶尚北道・江原道に少しいると秦泰俊著『血統□(左はヱ、右側はトの文字)家門』(1976年)を引用して、大和岩雄氏は記述し(『秦氏の研究』41頁)、五世紀代の秦氏の原郷も、かっての加羅の地である全羅南道(註;慶尚南道の誤記か)であったとみるべきであろうとしている。
*20 長岡忌寸の系図は、鈴木真年編の『百家系図稿』(巻9、長岡忌寸)や『諸系譜』(第1冊、長岡忌寸)にほぼ同様なものがあげられ、近世にも及ぶ長大な系図となっている。長岡忌寸氏は『姓氏録』では大和諸蕃となっているが、後に山城国綴喜郡に移遷し、その地で長く続いた。
*21 百済の建国時期と初期の王の在位年代については極めて難解であるが、『三国史記』に記すような、温祚王の漢鴻嘉三年(前18)の建国は、百済の王統系図からいっても、全く信頼できない。
  温祚王の治世時期については、高句麗の次大王の治世(西暦121~65)にほぼ対応するという見方もあろうが、百済王統の分析等から、現段階では、二世紀後葉頃に温祚王が在位し、その二代前におかれる都慕王が初代ではないかと一応考えておきたい。

*22 ウヅマサの語義についての佐伯説は、三品彰英氏『日本書紀朝鮮関係記事考証』(上巻231~2頁)に拠るもののようである。
*23 大和岩雄の前掲「秦氏・葛城氏・蘇我氏」
*24 田辺昭三「地域勢力の展開」(京都市編『京都の歴史 一』所収、昭和45年)。
  『全国古墳編年集成』山城の項でも、段ノ山に始まり蛇塚までの嵯峨野の5古墳について、五世紀後葉~六世紀末の期間に築造を考えている。
*25 大和岩雄氏も、太秦公は秦氏の族長を示す尊称の名・号と考え、「太秦」を蔚珍の地名とする説は無理であるとしている(『秦氏の研究』49~50頁)。

*26 和田萃氏は、秦下の「下」に注目し、河内国茨田郡に「下」の地を求め、『倭名抄』『古事記』(仁徳段)や茨田堤から寝屋川市太秦を考えて、この太秦の地名の残存に注目している(「山背秦氏の一考察」、京都大学考古学研究会編『嵯峨野の古墳時代』所収)。
*27 河内秦寺の所在地は、旧秦村の産土神八幡宮北方の国松村寺山付近とも、太秦村熱田神社付近ともいわれるが、確証はない(『大阪府の地名』879頁)、とのことである。
*28 畿内とその周辺の地域における秦氏の分布を見ると、山城・河内のほか摂津・近江・播磨でかなり稠密である。このうち、播磨の秦氏については系統が不明であるが、近江の秦氏は葛野の秦河勝の子の田来津が愛智郡に住んで依智秦公の祖となり、同郡大国郷及び浅井郡湯次郷を中心に繁衍したものである。このほか、近江には簀秦画師、秦大蔵忌寸、秦倉人、秦忌寸などの居住が知られる。
  摂津国では、豊島郡が秦氏の中心地で、同郡には秦上郷・秦下郷(池田市を中心とした一帯)があったが、葛野に遷住した意美の子の知々古が豊島郡の秦井手忌寸の祖とされる。これらのことから、山城以前の秦氏では河内の幡多郷を重視せざるをえない。
 河内の太秦・秦一帯には、後鳥羽天皇に召された刀工秦行綱の宅址と伝える地があり(秦小字鍛冶屋垣内)、大字秦には秦川勝の後裔と称する西島(もと大津父)・平田・茨木の三旧家があり、旧村社八幡神社の宮衆を勤めている(今井啓一著『帰化人』95~7頁)。
*29 今井啓一著『帰化人』。
  なお、『続日本後紀』承和十五年三月庚申朔条には、河内郡人秦宿祢が朝原宿祢を賜ったことが見えるが、この秦宿祢氏は茨田郡の支族ではなかろうか。
*30 『姓氏詞典』(王万邦、河南人民出版社)でも、高陵氏について、姓に由来し、秦の昭襄王の弟が高陵に封ぜられ高陵君になったため、子孫が高陵氏を称したとし、漢の時、諫議大夫(官名)の高陵顕が出たと記される。
*31 鈴木真年翁編の『百家系図稿』巻9の高丘宿祢系図及び『百家系図』巻62の高岡系図。高岡氏の後裔は、河内郡梶ヶ島村に居住して名主職をつとめ明治に至ったと記される。
*32 佐伯有清『新撰姓氏録の研究』考證篇第五の436~7頁。佐伯氏も、秦羸姓は「秦」の語に由来するものであろうか、と記している。


出典
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/hatareisei/hata1.htm

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