2015年7月11日土曜日


三浦氏は相模国御浦(三浦)郡の発祥で、平良茂の孫公義が三浦太郎を名乗ったことに始まるというのが定説である。 すなわち桓武平氏良茂流で、世にいう坂東八平氏の一に数えられる。しかし、三浦氏の系図は『尊卑分脈』のものを はじめとして諸本伝来しているが、それぞれの系図のはじめ、名前、代数など疑問点の多いものばかりだ。中世系図集と して信頼性の高い『尊卑分脈』にしても、平良茂と平良文を祖とした二つの三浦系図が収録されているのである。
 一方、古代以来の姓と名とを類別した『姓名録抄』などによれば、出雲臣族の大田部直の後裔といわれる御浦氏が相模国にいたことが知られる。おそらく、三浦氏は系図の混乱などから推して、桓武平氏を称しているのは後世の仮託で、 大田部直の流れを汲む古代豪族御浦氏後裔の可能性が高いのではなかろうか。
 いずれにしろ、三浦為継(為次)のとき、鎌倉権五郎景正とともに源義家に従い後三年の役(1083)」に出陣して活躍、清和源氏との関係を深めていった。義明は相模国衙に出仕して相模大介となり、以後、三浦氏嫡流は三浦介を称するようになった。国衙を支配下においた義明は一族を相模に配し、 三浦氏からは和田・岡崎・津久井・大多和・多々良・長井・佐原・芦名・矢部・真田・芦田・土屋・佐久間・杉本・横須賀らの諸氏が分出、世に三浦党と呼ばれる武士団を形成したのであった。
 平家に敗れて伊豆に流されていた源頼朝が平家打倒の兵を挙げると、三浦義明・義澄父子が参加、義明は衣笠城で討死した。鎌倉幕府が成立すると義澄は相模守護職に補され、その子義村、孫泰村らは北条氏に劣らぬ勢力をもつ有力御家人となった。しかし、のちに北条氏と対立するようになり、ついに宝治合戦(1247)で敗れて嫡流は滅亡した。 合戦後、一族の佐原氏系の盛時によって名跡が再興されたが、北条氏の下風に甘んじる存在であった。 


出典
http://www.harimaya.com/o_kamon1/seisi/51-60/miura.html

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