2015年8月29日土曜日


 信濃三村氏・(清和源氏頼親流) 
三村氏の城 武居城(朝日村)→妙義山城・釜井庵
三村氏の居城は朝日村西洗馬の武居城であった。 ある時期に芦ノ田の釜井庵に屋敷を構え、背後に妙義山城を 築いたといわれる。、長興寺を開いた時期。・・・妙義山城、釜井館は西洗馬(せば)を中心にして奈良井川西岸に勢力を張っていた 三村氏の居城、屋敷と考えられている。
以下、「戦国 武家家伝信濃三村氏」からの引用による ・・・

『信濃国洗馬郷に本拠。出自は諸説ある。系図によれば、清和源氏頼親の後裔。多田満仲の次男頼親の後裔。・・・『尊卑分脈』の頼親は大和・周防・淡路・信濃などの国司に任ぜられたとあり。信濃守は『国司表』によれば長保元年(999)とあり、在任中は信濃国洗馬郷に居住。その後、訴訟から土佐に流された。赦されのちに再び信濃の洗馬郷に下って、康平七年(1064)同地で死去。これが、三村氏と洗馬郷との関わりの始め。・・・その後、頼親の九代の孫に仲宗がみえ、その子に親綱とあり、仲宗・親綱の代に鎌倉幕府は滅亡し南北朝の内乱の時代となった。
中世の信濃争乱
親綱には数人の男子があり、嫡子親継、次男の親光は、守護小笠原氏と「大塔合戦」に際して一揆方として出陣、兄弟ともに戦死している。・・・『大塔合戦記』によれば、三村孫三郎種貞の名が記され、種貞は親継のことか。この事件で三村氏は中信濃において洗馬郷を本拠とする国人領主として一応の勢力があったようだ。・・・応仁の乱を経て戦国時代になると、信濃も乱れ、守護小笠原氏も分裂して一族が互いに争い、その支配力にも翳りがみえてきた。・・・天文元年(1532)松尾小笠原定基が下条氏を攻めた時、府中小笠原氏は下条氏を支援したが、三村家親は府中小笠原勢に加わり、松尾城攻めに功を立てている。家親のあとは忠親が家督を相続した。・・・天文十七年(1548)七月、小笠原長時が甲斐の武田晴信と雌雄を決した塩尻峠の合戦において、三村長親は長時に離反して武田方となり、長時大敗の主因を作った。
三村氏の滅亡
以後、長親は武田氏に属したが、天文二十四年、甲府一蓮寺において、長親主従200人は晴信によって殺されたと『三村氏系図』に記されている。・・・長親らが信玄に殺害されたことを知った洗馬の一族は一揆を起こして、武田氏に抵抗したが、深志城代馬場によって制圧された。三村一族は戦死あるいは生け捕りされ、三村氏の領地は没収となり、三村一族は没落したのである。・・・長親の嫡男長行は、叔父にあたる岡田伊深城主で洗馬郷をも管掌していた後庁城主の後庁久親の養嗣子となって後庁を相続し、これを名字とした。長行は、天正十年(1582)、当時、深志回復を目論んでいた小笠原貞慶より、後庁の名字相続と洗馬城堀廻三千貫文の知行約束を受け、その忠節を賞されて小笠原家の奉行人に列せられた。』
・・・小笠原家を裏切った父長親と異なり、長行は貞慶に忠勤を励んだことがうかがえる。
・・・*伊深城主の後庁氏は、井深氏のことだが、三村氏と婚姻を繰り返していたことから、同族の意識が深かったと思える。
概略・・・三村氏は洗馬郷の豪族で、古くは北条残党であるが、南朝側の活動は資料に乏しい。幕府側小笠原家へは、初期に反抗し、やがて従属したが、武田が侵攻した時、小笠原長時を裏切り、武田に付いた。武田軍に属した三村長親は謀反の疑いで、信玄に家臣ともども誅殺されると、三村家宗家は滅亡したが、嫡男・長行だけは井深城主の後庁氏の養子に入り命脈を繋ぎ、小笠原貞慶が府中に復帰すると、貞慶の家臣となって仕えたようだ。

http://blog.goo.ne.jp/shochanshochan_7/m/201402

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