2015年8月29日土曜日

称名寺

大井氏は光長が惣領となったようで、大井光長は信濃守護小笠原政長の守護代をつとめ、正平五年(1350)信濃国太田荘大倉郷の地頭職について、金沢称名 寺と島津宗久跡代官との争いをやめさせ、称名寺の地頭職をまっとうさせるよう足利直義から厳命を受けている。この光長は『四鄰譚薮』にめる光栄に比定され るが、光栄は「大井朝行の甥比田井入道良鑑の子なり」とあり、にわかに同一人物と断定することは危険といえよう。
 光長の子光矩も、小笠原一門として重きをなしていた。応永六年(1399)信濃守護に任ぜられた小笠原長秀は大井光矩を伴って佐久に着き、光矩と信濃支 配について相談した。そして、大井氏の館で旅装を整えた長秀は都風に美々しい行列をつくって善光寺に入り信濃統治をはじめた。しかし、国人たちは長秀の統 治を承服せず、村上氏らを中心とする国人勢力と小笠原勢は次第に対立を深め、ついに応永七年(1400)九月、両者は川中島篠ノ井付近で大合戦におよん だ。いわゆる「大塔合戦」である。

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ohi_k.html

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