2015年9月8日火曜日

惟宗朝臣


出典
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/hatareisei/hata1.htm

(参考) 秦系氏族氏)概説

○ 秦系氏族はその遠祖を秦の王家にもとめている。秦の始皇の孫、胡苑が漢の恵帝元年丁未(紀元前194年)苦役を避けて来て韓地に逗まれるのを、韓王がその東界百里の地を割き与えたという(ほぼ同様な伝承であるが、趙高の乱を避け貊の地に遷るともいう)。
  この所伝だと、秦氏は秦始皇の後ということになるが、歴代系譜には世代数が少ないなど問題点もいくつかあり、実際に秦始皇の近親一族の後とするのは疑問か。おそらく、遥か遠い祖先が秦始皇と同じ氏族(種族)であっても、華北沿岸部にあったものの流れか。例えば、河北省にあった燕の将軍の秦開は前284年、東方に勢力を伸ばして長城を築き、遼東・遼西などの諸郡を置いたが、この族裔という可能性もあろう。
  ともあれ、その後、秦人(秦関係者?)で韓地に来る者ますます多く土地稍広く、辰韓(又は秦韓)という地域を形成し、漢武帝の元封二年(前109年)には孝武王が辰韓の王となり、馬韓に属して十二ケ国を統治したという。ただ、この伝承には『魏志』韓伝に見える辰王・辰国の伝承との混同があるか、あるいは本来、辰国と同じかもしれない。
  この辰韓の国が竺達君の時に滅亡し、その支配階級は百済の地に遷ったという(辰韓の滅亡時期については、鈴木眞年は晋の太康〔紀元281~289年〕 の後、辰韓の朝貢絶えたりとする時期を想定しており、この説を妥当と考える。中国の文献に、辰韓の名が最後に現れるのは、286年とされる)。太田亮博士 も「秦氏は秦韓(辰韓)国の遺民にして、その十二国中の一国たる斯盧国、即ち新羅国の勃興と共に次第に衰へ、遂に滅亡の悲運に遭遇し、その王者、並に上流 階級人は、相率ゐて我が国に投ぜしに外ならず」としているが、卓見であろう。

○ 辰韓の遺民は、辰韓滅亡後百年余経過した頃の応神朝(西暦400年前後)に、弓月君に率いられ百済より来朝して秦造となったが、残余はそのまま韓地に残り、その約一五十年後の欽明元年に百済から来朝し、大和国添上郡山村に居住して己知部(巨智部)となった。わが国における秦系氏族にはもう一派、高陵氏の流れがあり、始皇の三代前の昭襄王の兄弟から分かれている。
  秦氏の秦王朝末裔説を疑う見解も多いが、『正倉院文書』の西南角領解には、河内国丹比郡黒山郷を本貫とする秦羸姓田主などという人名が見えており、秦羸姓は本来の秦姓をよく伝えていることからみて、秦始皇の末裔説はともかく、広い意味で秦王族(『姓氏詞典』には、子嬰滅びて支庶、秦を以て氏となすと見える)あるいは秦氏族の末裔という所伝は、一応信頼してよいのではなかろうか。なお、中国の秦氏には、姫姓の魯公族で河南省の秦を食采としたものもあった。

○ 弓月君の一派は大和国葛城郡朝津間の腋上に土地を与えられ居住したが、その本宗は後に河内国(茨田郡)を経て山城国葛野郡太秦に遷り、この地を中心に 繁栄した。この氏族は、養蚕・機織の技術をもつ伴造として朝廷に仕えたが、大蔵の出納にも従事した氏もある。
  この一族の分布は、葛野郡のほか同国の愛宕・紀伊郡、摂津の豊嶋郡、近江の愛智・浅井郡等に広範にみられ、族人が相当多い。太秦の広隆寺(蜂岡寺)は推古朝に秦河勝造が創始した氏寺であり、氏神は大酒神社(山城国葛野郡、太秦の桂宮院にあり)、湯次神社(近江国浅井郡湯次郷内保村にあり)などに祭られている。一族からでた祠官家としては、山城国松尾の月読宮、伏見の稲荷社の諸家にみられる。

○ 秦氏の系統は中央の朝廷ではあまり高位にあがらず、平安朝末期まで明法道、典薬関係の官人や下級の御随身として仕えたが、官人としては御随身の家たる三上氏が永続したにとどまる。その一方、地方豪族としては薩隅の島津氏、対馬の宗氏(平姓を仮冒)、越中の神保氏(実は別系の可能性も強いか)などを出して栄えている。また、大石宿祢姓の下級官人も中世まで見えるが、のちに紀姓の人が大石宿祢姓を冒した。
 なお、「秦」と書いても、波多・羽田・幡多などの表記からの訛伝もあったようで、それらの全てを秦系氏族とするのは問題もありそうである。


○ 秦系氏族の姓氏及びそれから発生した主な苗字をあげると次の通り。

(1) 弓月君一族の後裔……応神朝投化。
  秦公(録・河内)、秦造(録・左京)、秦連、秦忌寸(秦伊美吉。録・左京、右京、山城、大和、摂津、河内、和泉。下司-丹波国山国住。なお、散楽の金春、竹田は、大和国十市郡に起り、秦河勝後裔と称するも、本来は別族か〔その場合、結崎、観世と同じ服部連の流れか〕)、 太秦公、太秦公宿祢(録・左京)、太秦宿祢(上と同じか。東儀、薗、林-摂州天王寺伶人なり。岡-大和国百済川東岡村林寺村にあり、また、蒲生家臣に近江 国蒲生郡木津邑の岡より起る岡氏あり。なお、薩摩で太秦姓を称した牛屎一族については疑問もあり、隼人族の項も参照のこと)、太秦公忌寸、賀美能宿祢、秦 下、秦前(秦下、秦前は秦忌寸と併用)、大秦連。

  秦宿祢(録・河内。三上-京人御随身。長曽我部-三上支流で土佐に住、元来は当地の古族裔に三上から入嗣か、その一族は三輪氏族を参照のこと。久武-三上 同族、土佐住人。横山-三上同族。土山-京官人で近衛府官人。仲村-紀伊人。大平-伊賀国阿拝郡人。羽田-信濃国小県郡人。桑原-同州諏訪郡人。堀井-備 前に住。祓川-秦中家忌寸裔、山城国伏見の稲荷社祢宜。以下同族で稲荷社祠官には、西大路、平田、針小路、大西、祓川、安田、東大西、新大路、新小路、松 本、森、毛利、南松本、吉田、沢田、中津瀬、鳥居南、橋本、市村など。稲荷社下級社人の秦姓長谷川・山田も同族か)、惟宗朝臣(平井-筑前大宰府執事職。 薩隅の島津、対馬の宗などは大いに栄えたが、これらは後に別掲)、伊統朝臣、令宗朝臣。

  朴市秦造、依智秦公(依知秦公。湯次-近江国浅井郡人。西野、東野、大矢田、酢村、田根、川道-同上族)、依智秦宿祢。依知勝も同族か。
  朝原忌寸、朝原宿祢、朝原朝臣(村田-石見出雲人、刀工鍛冶工)、時原宿祢、時原朝臣(西院-山城国葛野郡人)、秦物集、物集(録・山城未定雑姓)、物集連(録・左京未定雑姓。物集〔物集女〕-山城国乙訓郡人)、物集忌寸。

  大蔵秦公(河内国茨田・讃良郡の太秦姓を称する西嶋・大津父・茨木・平田一族はこの流れか)、秦大蔵造、秦大蔵連、秦大蔵忌寸、秦長蔵連(録・左京)、秦 中家忌寸、井手、井手公、秦井手、秦井手忌寸、秦子(秦許)、秦原公、秦上、秦人(録・右京、摂津、河内)、辟秦、秦勝(録・和泉)、簀秦画師、寺、寺宿 祢、高尾忌寸(録・右京、河内。高尾-河内、近江の人)、高尾宿祢(高尾-備後人)、秦冠(録・山城)、大里史(録・河内。小松-土佐国香美郡人、称平 姓)。

  秦姓(録・河内)、秦長田、秦倉人、秦首(秦毘登)、秦羸姓、秦調曰佐、秦高椅、高橋忌寸(高椅忌寸)、秦栗栖野、弖良公(録・右京未定雑姓。寺と同族 か)、広幡、秦人広幡、広幡公(録・山城未定雑姓)、広幡造、奈良忌寸、秦達布連、秦田村公、秦常忌寸、秦河辺忌寸、秦曰佐。寺史も同族か。国背宍人 (録・山城未定雑姓)も、秦同族とされるが、その場合は物集の同族か、しかし、疑問な面もあり、あるいは本来別族で和邇氏族か。古代では国瀬(無姓)も見 える。中世の乙訓郡東久世庄の国人、久世・植松・片岡・築山・石倉などは族裔か。
  なお、系譜不明であるが、清科朝臣も秦一族ではなかろうか。また、韓国人都留使主の後裔とする朝妻造(録・大和諸蕃)も弓月君とともに来朝したものか、と 太田亮博士が記す。朝妻手人・朝妻金作はその族か。系統不明だが播磨国赤穂郡郡領に秦造がおり、寺田氏はその後裔。

  これらのうち、特に惟宗朝臣の一族は諸国に分布したが、島津、執印、宗、神保がその中でも大族であった。島津と執印とは比較的近い同族関係にあったものとみられる。
●島津-中世藤原氏を称し後には又源氏を号す、武家華族。薩摩、大隅に住して大繁衍して奥州家・相州家・薩州家などの有力一門のほか、一族の苗字多し。島津支族は若狭、越前、播磨、信濃、甲斐等にもあり。主な苗字としては、
  伊集院、石谷、南郷、入佐、町田、飯牟礼、猪鹿倉、有屋田、中村、石原、門貫、今村、麦生田、今給黎、大田、松下、知覧、宇留、宇宿、宮里、給黎、阿蘇 谷、山田、伊作〔伊佐〕、津野、恒吉、神代、若松、西田、出水、佐多〔佐太〕、伊佐敷、新納、西谷、樺山、池尻、宮丸、北郷、末弘、神田、大崎、石坂、豊 秀、河上〔川上〕、小原、山口、姶良、碇山、吉利、大野、寺山、西川、三栗、岩越、大島、竹崎、義岡、志和池、寺山、桂、迫水、喜入、安山、音堅、梅本、 邦永、達山、龍岡、日置、野間、藤島、原、道祖、三崎、村橋、小林、郷原、永吉など-以上は薩摩・大隅に居住の島津一族。
  中沼〔長沼〕、角田-信濃国水内郡人。堤〔津々見〕、若狭、多田、三方、井崎〔伊崎〕-若狭国三方郡等住の島津一族。野々山-信濃、三河人。上田-信濃人。
●執印-薩摩国高城郡の新田八幡宮祠官。鹿児島、国分、中島、平野、市来、羽島、吉永、光富、向、馬場、小野田、橋口、河上、川原〔河原〕、下〔志茂〕、 角、五代、河俣、河崎、厚地、田口、兼対、東向寺、松村、上松〔植松〕-以上は執印一族で、薩摩国鹿児島郡等に居住。

●宗-対馬の守護、幕藩大名で称平姓。一族は島内各郡主として繁居したが、天文十五年、本宗以外の支庶流(三十超の家)が宗を名乗ることを禁じられて別の 苗字を名乗った。それらを含めて庶子家としては、柳川、高瀬、佐須(のち杉村)、久和、内山、古里、網代、大石、三山、宮、岩崎、西山、佐々木、長田(の ち幾度)、志賀、皆勝、園田(のち古里)、佐護、久須、長野、大江、島本、瀬戸、仁田、中山、向日、横松、一宮、長瀬、井田、岡村、川上、小森、氏江、中 村、川本、大浦、木寺、仁位〔仁伊〕、峰、吉田、波多野、津奈-以上が対馬の宗一族。宗の支族は肥後国山本郡に分る。
●神保-近江国甲賀郡神保庄ないし上野国多胡郡より起り(後者が妥当で、その場合実際の出自は毛野族裔か)、越中紀伊に住。その一族に花田、多胡。
  このほか諸国では、飾西、中山、志婆-播磨国飾磨郡人。

(2) 己知部系……欽明元年投化して大和国添上郡山村郷等に居住。太田亮博士は、この己知部の投化は紀臣族珍勲臣に従ったものとみているが、居住地などからみて、その指摘の通りという可能性が強い。
  己智(己知、巨智、許知、許智。録・大和)、道祖首、三林公(録・大和)、山村忌寸(録・大和)、山村許知、山村宿祢(京官人で九条家侍の山村氏は末流 か。山村は江戸期の下雑色、また大和国城下郡にもあり)、桜田連(録・大和)、紀朝臣(山村忌寸の賜姓)、巨智臣、巨智宿祢。添上郡山村郷の仕己知も同族 か。
  奈良許知(楢許智)、大滝宿祢、奈良訳語(奈羅訳語、楢曰佐)、長岡忌寸(録・大和。長岡-山城国筒城郡人。山村、市村、井村、宮崎、宮島、徳田、小川、田宮、中村、水取、大富、木村、久保、吉村、内田-以上は長岡の一族)、古曰佐。
  磐城村主(石城村主。漢系石寸村主同族との伝承もある)、荷田宿祢(ただし、男系は穴門国造一族の後。羽倉-山城国稲荷社造宮預、東、西、京、北の四家あり。安田-山城国下久我住。伏見-堺町人。石城-摂津人)、磐城宿祢(筒井、佐脇-甲州人)。

(3) 高陵氏高穆後裔……高陵高穆は秦王族高陵君参の後といい、漢土から建安廿二年に百済に入ったが、この子孫はのち二派に分れ、一派は東漢直掬とともに投化して大石村主の祖となり、もう一派は楽浪氏として天智朝に投化し高丘宿祢の祖となった。
  大石村主(生石村主。録・左京の大石は村主姓脱漏か。なお、近江国栗太郡大石村を本拠とした大石党は、秀郷流藤原氏の裔と称したが、太田亮博士の指摘のよ うに、大石村主の後裔か。一族に同国甲賀郡の小石。また、大名家浅野氏に仕えた大石内蔵助良雄一族も同流で、一族に小山もある)、大山忌寸(録・右京)、 大石宿祢(堀川-京官人、醍醐家諸大夫)、高丘連、高丘宿祢(録・河内。高岡-京官人、のち河内国梶ケ島村に帰農して名主)。百済人木貴の後という大石林 (録・右京)、百済人庭姓蚊爾の後という大石椅立(録・右京)もこの同族と推される。

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