2015年9月7日月曜日

井上丘隅

井上丘隅(いのうえ おかずみ、文化12年(1815年) - 慶応4年8月23日1868年10月8日))は江戸時代末期(幕末期)の武士会津藩士。

生涯

1815年、会津若松甲賀町郭門南で生まれる。井上家は家禄600石。会津藩家中において600石以上の家は34家[1]のみで、井上は大組物頭を務め、班席は最高格の御式内御納戸紐を許されていた[2]。1862年、会津藩主松平容保京都守護職に任命され京に上洛した際に随行し、藩主と共に守護職邸に詰める。
1868年鳥羽・伏見の戦いに参加するが、敗退して会津に戻る。会津戦争時は幼少組頭になる。白河口の戦いで負傷し、10月8日には滝沢口に出陣するが敗走。甲賀町郭門を死守しようとするが、被弾により負傷して戦闘不能になり、やむなく五ノ丁角の自宅へ行き、家族(妻・長女)および臼木氏長女と共に自刃した[3]。墓所は福島県会津若松市七日町阿弥陀寺「戦士墓」。
なお、次女・雪子は会津藩士の神保修理に嫁いでおり、丘隅自刃の際に井上家に来合わせていたが、丘隅に説得されて嫁ぎ先の神保家に戻った。のちに娘子隊の戦闘に参加して自刃している。

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