2016年11月16日水曜日

諏訪神社



  1. 国分、旧舞鶴城城下の東方に 諏訪神社が鎮座する。 なぜここに「諏訪」を勧請したのだろうか。
  2. 「諏訪」と言えば「龍神」、水害・水難からだろうか。 海岸縁で且つ河川もある。洪水や津波の被害を推察するが。 当時は、入江で、中洲が七島、あったそうだ。
  3. 一説では、鎌倉武家集団の間で「諏訪詣で」が盛んだったと伝う。 鎌倉下向武士団の島津が奨励したのだろうか。 吾妻鏡 巻六 では、諏訪大社に神馬を奉納している。
  4. 旧島津藩に諏訪神社が多数鎮座されているのには それなりの背景がある。
  5. 島津の祖「忠久」は、 当初、この諏訪神社(諏訪大社)が 鎮座する信濃國の地頭職にあった。 ===>>三国名勝図会・鹿児島・正一位諏方大明神社、 「諏訪御符礼之古書」「信濃国太田庄相伝系図」 ■信濃國塩田庄:現在の上田市塩田(産川流域) ===>>工藤能綱譲状案(工藤文書・石川文書) ■大田庄: 豊野町南郷から長野市赤沼・津野にかけて 太田という地名が残っている ===>>古来、近衛家領、 養和元年(1181):木曽義仲の領地となる 元暦元年(1184):義仲滅亡後、島津忠久が地頭拝命
  6. 前出の「正一位諏訪大明神社」の由緒にもあるように 五年己酉 右大将源公 陸奥國押領使蓁衡を 征伐し給ひし時 得佛公御年十一歳 命を蒙りて副将軍となり 前軍に都督たり 此時深く信濃國諏訪大明神神に 斎祷し給ひて軍利あり 功成りて凱旋し給ひけり 陸奥国に出陣のおり 戦勝祈願をし軍功を挙げた。 それ以後崇拝するようになった。
  7. 藤原定家の「明月記」や「吾妻鏡」に登場する「承久の乱」 この合戦に出陣するに際し、諏訪神社詣でをし武勲を挙げた。 以後、島津の氏神「稲荷」と同様、崇拝し勧請した。
  8. 諏訪大社に関しての初見は次のようだ。 『日本書紀』巻三〇持統五年(六九一)八月辛酉《廿三》◆辛酉。 遣使者祭龍田風神。信濃須波。水内等神。
  9. また、当地の諏訪神社には「諏訪上下」とか 「諏訪上」「諏訪下」と あるので、不思議に思って、諏訪大社を少々。。
    • この「諏訪上下」に関しては、   諏訪上社と諏訪下社とで確執があったようです。
    • 鎌倉時代は、上社の大祝・諏訪氏が、源氏と密接な関係を持ち  諏訪は「軍神」として 崇拝・加護を受けて  また、諏訪市は武士団を結成し隆盛を、。    ===>>吾妻鏡等参照      嶋津氏もこの後の承久の乱ではかなりの報奨を
    • しかし鎌倉幕府が滅亡すると  代わって、下社が武士団を形成し勢いを増し  抗争が展開される
    • この後武田軍が支配するようになる
  10. 欽明の頃の出自は・・・はここでしょうか。 『日本書紀』巻十九 欽明天皇元年(五四〇)七月己丑《十四》◆秋七月丙子朔己丑。 遷都倭國磯城郡磯城嶋。 仍號爲磯城嶋金刺宮。
  11. また、下社の大祝の「金刺」はここ 『続日本紀』巻卅二 宝亀三年(七七二)正月乙巳《廿四》◆乙巳。 信濃國水内郡人女孺外從五位下金刺舍人若嶋等八人賜姓連。
  12. 諏訪大社の大祝 ○上社の大祝は祭神の子孫で諏訪氏 ○下社の大祝は外来神の子孫で多氏(おおし)と同祖の皇別氏で  新撰姓氏録では右京皇別氏族  多氏の末裔には、阿蘇氏・金刺氏がある。 「金刺氏」の後は武居氏  例のお舟神事はこの下社です。
  13. また、神長官「守矢」によると 御柱は「ミシャグジを降ろす依り代」であるそうな。
  14. 守矢(守屋)は物部氏を祖とする。守屋神社が鎮座する。
  15. http://yorihime3.net/mado/shimazu_suwa.html

0 件のコメント:

コメントを投稿